オリエントの海洋民族であった古代フェニキア人国家であった「カルタゴ」(紀元前8世紀〜紀元前1世紀)の滅亡直前と現在の日本の状況がそっくりだという話を書きました。これは、以前からいろいろな方が驚き、警鐘を鳴らしていることです。

 

紀元前15世紀頃から中東と地中海を中心に繁栄してきたこの古代フェニキア人の特徴が海洋民族であることや、造船などの高い技術力を持っていたこと、奇跡的な復興力があったこと、商売に長けていたこと、勤勉であったことなど、日本人の性質に非常に似ているところがあります。

 

古代フェニキア人が特産品を作るのに使っていたある技術は、古代日本にも全く同じものが存在しました。古代フェニキア人は、地中海で採れる「アクキガイ」という貝の腺から採れた染料を使って紫色を出す染色法を用いていました。当時のローマ帝国の皇帝がこの染色法によるパープルの織物を好んだことから「帝王紫」とも呼ばれてきました。

 

 

この染め方は、日本最大規模の弥生時代の遺跡である吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市吉野ヶ里町)にある弥生中期から後期の墓から出土した染色布がこの貝を使った染色法に従ったものだということが判明しています。 

 

 

さらに、縄文時代にも同じ貝を使って紫色を出す染色法が行われていた痕跡があったことも報告されています。東京の大森貝塚を発見者として有名なエドワード・S・モースは、「チリメンボラ」という貝の貝殻の一部分が砕かれた状態で発見されたことと、チリメンボラが古代フェニキアで貝染に使用された「アクキガイ」の仲間であることに着目して、縄文時代の日本で貝紫染めがなされていた可能性があると指摘しました。

 

 
縄文時代に高度な染色技術を持っていた可能性があり、弥生時代には確実に貝染をしていた日本人。作家の有吉佐和子さんは、生前に古代の日本に一部のフェニキア人が渡来していたという説を発表されていました。
 
現在、沖縄の北谷(チャタン)で発見された古代海底遺跡から約2500年前に発見された石板にフェニキア文字(古代オリエントのシュメール人が発明した楔文字から派生したとと言われる)のような彫刻が見つかっています。ちなみに、与那国島沖の海底遺跡は10000年前に陸地で作られていたとされています。
 
しかし、古代フェニキア人が中東で活躍していたのは、約3500年前からであり、その前に興隆したシュメール文明でさえも、約6000年ほど前からです。そうなると、日本にあった古代文明の方が遥かに古い可能性も強いです。
 
 
2016年に沖縄では、古代ローマ帝国のコインが発見されています。また、京都や広島でも紀元1世紀から4世紀頃の古代ローマガラスが発見されていることからも、古代日本でオリエントとつながる交易があったことの裏付けはあります。その後の日本には、聖徳太子の時代にペルシャ人が朝廷の役人になっていたことを証明する木簡が発見されており、「秦氏」などの有名な渡来人がいたことからも、様々な渡来人がやってきていただろうことは確実です。シルクロードという陸の道以外に、海洋民族がたどってきた「海の道」もあったのではないかと推測できます。
 
しかし、古代フェニキア人についての知識は、世界史でも詳しく伝わっていません。フェニキア人の国家であった「カルタゴ」は、軍事力を奪われて無力化し、平和ボケしてしまったために最終的にローマに滅ぼされるのですが、その過程で人命が奪われるだけでなく、町は17日間にわたって炎上し、蔵書数50万冊あったとされる図書館も失われました。これは、人類史上もっとも大規模な焚書と言われています。このため、フェニキア人は、「謎の海の民」として歴史研究の枠からも外されてしまいました。
 
敗戦した民族は、その民族が蓄積してきた知恵や歴史、文化まで抹殺されてしまうことが多かったからです。