ワイン法 その5 (AO法その後・VDQS) | ろくでなしチャンのブログ

ワイン法 その5 (AO法その後・VDQS)

          ワイン法 その5(AO法その後・VDQS)

 

 

 前回はやっと1935年になってAOC法が成立し、運用管理するワイン及び蒸留酒に関する原産地呼称全国委員会が成立したところまでのお話しでした。

 

 AOC法が成立し、早々ワイン産地の多くが新たなAOCの認定を受けるべく原産地呼称全国委員会に申請を行います。

 当然、各産地が他の産地と異なる独自性あるワインを生産する証明をもって申請することとなります。

 ボルドーでは1936年9月にソーテルヌ、バルサック、セロン等の甘口白ワインが認定を受け、同年11月には村名アペラシオンのポイヤック、サン・ジュリアン、サン・テステフ、右岸のサン・テミリオン等が認定を受け、ブルゴーニュも同様1938年までに主要なAOCが認定を受けます。

 

 実はAOC法施行以降おかしな問題が起ります。1919年5月6日のアペラシオン・ドリジーヌの保護に関する法律(AO法)は廃案とはなっていないのです。

 

 つまりAO法にのっとり裁判所の認定を受けたアペラシオン・ドリジーヌ(原産地呼称)が多数存在しており、1935年アペラション・ドリジーヌ・コントロレ法(AOC法)により認定されたアペラシオン・ドリジーヌ(原産地呼称)も当然現出しました。

 

 そもそも1935年のアペラション・ドリジーヌ・コントロレ法(AOC法)を制定するに当たり、法案主旨がAO法と大きく異なっておりAO法の改正法として議会に提出されているわけではなく、別な法律として成立したものです。

 同じアペラション・ドリジーヌですが根拠法が違い、ワインの品質や地域の独自性に疑問のあるAO法の認定を受けた怪しげなアペラション・ドリジーヌが多数存在したのです。

 

 しかし、放置するとAOC法の意義が損なわれますし、法的に裁判所により判決を受けたアペラション・ドリジーヌを否定する訳にもいきません。

 法の不遡及の原則というのがあって、過去に遡って法律を施行することや過去の法律を無効にしたり取り消すことが出来ない(廃案は可)ようです。

 

 そこでAO法のアペラション・ドリジーヌであっても、AOC法の認定申請があれば認めざるを得ないといったAOC法の運用(暗部)があったものと思われます。この点に関する記述は一切見当たりません(見付けられない?)。

 1942年にはAO法のアペラション・ドリジーヌが全て消滅(統合との記述も)したとされていますので、その殆どがAOC法の認定を受けたとしか思われません。

 ワインに関するAOCが400とも450とも言われるほど多数存在する最大の原因はこの点が主因だと私は思います。

 
VDQSの制定

 

 これまで1900年には完全なワイン過剰生産になっていたと記述しておりましたが、より正確には1900年以降ワイン不足に陥った期間が2度だけありました。最初の期間はフランス全土が主戦場とされた第2次世界大戦((1939年~1945年)です。

 多くの農民が戦場に赴き、多くの葡萄畑が荒らされ、人手不足から畑の手入れが出来なかったのです。 

 

コーヒー コーヒー・ブレイク

 

  第2次世界大戦中にアメリカ軍がブルゴーニュのコート・ドール(黄金丘陵)を進軍する際、師団司令部から前線部隊に葡萄畑を荒らすなとの命令が発せられます。

 この命令は最も危険な進軍手法を要求するもので戦術上あり得ない命令でした。

 ご存知のようにコート・ドールは丘に挟まれた狭い1本路だけしかありませんから、丘から砲撃されたらひとたまりもありません。

 部隊の中隊長は多くの戦死者が出ることを覚悟し、1本路を縦列で進軍します。幸いにもドイツ軍の抵抗も軽微であり無事コート・ドールを奪還することに成功します。

 このことを伝え聞いた村人は感激し、感謝の意を込めて隠しておいた貴重なワイン、ジープ1台分を輜重兵を通じ部隊に贈りました。

 この時村人がジープの運転手にワインの飲み方は判るかと聞いたところ、大丈夫、あの中隊長はワインに詳しいから。とのことでした。

 後に部隊長がお礼のため村をおとづれ感謝の意を伝えます。村人がこっそり部下の一人にどうやって飲んだのかと聞いたところ、ホット・ワインで美味しくいただいたとのこと・・・・。これは実話です。

 

話を本題に。

 ワイン不足解消の為フランス政府は止む無く品質の落ちる葡萄品種からの醸造を解禁し、生産規制を一部緩和する政策に転じます。

 反面、将来の良質ワイン製造への布石としてAOCワインの生産規定を緩和したカテゴリー創設を目指し、1943年9月21基本省令を発していました。

 

 政府が危惧したとおり、農民は目の前の生活のため品質の落ちる葡萄樹の栽培を続け、品質の優れた葡萄樹への植え替えをためらいます。

 植え替えた葡萄樹からは4年程ワイン用葡萄が収穫できず、その間の経済的負担に耐えるだけの体力がなかったのです。

 

 ワイン不足も戦後復興により直ぐに供給過剰に逆戻りしますが、国民が求め始めたワインは品質に拘ったものへと変化してきます。

 政府もまた、外国産のワインとの競合を考えた時AOC枠のワインは別として他のワインの品質を上げなければ将来展望は期待できないと判断し、1943年の基本法令に基づき新たな法令を1949年12月18日発します。

 

 ここにVDQS(原産地呼称上質指定ワイン)と呼ばれる新しい枠組みのワインが誕生します。

 

      ヴァン・デリミテ・ ド・ カリテ・ スペリュール

       Vin  Delimite  de  Qualite  Superieure

 

 VDQSの指定を受けた場合は、並級ワインよりも税法上の優遇策をも採用しますがVDQSは政府が想定した結果をもたらすことはなかったようです。

 この段階で品質等級としては、AOCワイン、次にVDQSワイン、そして固有の名称を与えられていない並級(ガブ飲み用とも)と俗称されたランク(法的な裏付けのない)が形成されておりました。

 

1956年大霜害

 

 1956年2月の大寒波は長く居座り、葡萄樹の凍害は広範囲に及びました。ボルドーでは12万haの葡萄畑の45%相当の葡萄樹が完全に枯死し、40%相当の畑も甚大な被害を受けたと記録されています。

 大霜の被害を免れた葡萄畑は僅か1.3万ha(15%)と言われています。これが1900年代2度目のワイン不足をもたらします。

 

 ここでフランス政府は過去の過ちばかりの政策とは打って変わり初めて(失礼)賢明な政策を実行に移します。

 1953年9月30日高品質葡萄樹への植え替え促進策を盛り込んだ政令を活用したのです。

 政令では葡萄品種を「推奨」「認可」「当面容認」と3分類されておりました。

 

 当時の葡萄栽培に対する政策は、過剰生産状態に対する規制政策でしたが、大霜害による植え替え(再植)に当たり

 

 「推奨」品種への植え替えは100%容認。

 「認可」品種への植え替えは畑面積の70%のみ容認。  

 「当面容認」品種への植え替えは全面禁止。 とします。

 

 また、前記1953年9月30日法では抜根を奨励していたのですが、AOC認定地域では「推奨」品種の新植を認めることとしました。

 

 政府はフランス・ワインの全体的品質の向上を目指した訳です。

 1920年当時ボルドーにおいては、全葡萄栽培者の75%は5ha未満の葡萄畑を所有する零細生産者とされており、政府は葡萄栽培協同組合の設立を支援し、各種補助金を交付し栽培の集約化、醸造設備の近代化を推し進め1919年から20年間に750に上る葡萄栽培協同組合が設立され、「推奨」品種への植え替えが進んだようです。

 

 現行各アペラシオンに関する政令に登場する「補助品種」は、当時の「推奨」品種指定の考え方を踏襲したものと私は思っています。

 

ワイン法 その1 (不正防止に関する法律) 詳解はこちら
ワイン法 その2 (ボルドー合意)       詳解はこちら
ワイン法 その3 (AO法改正と混乱)     詳解はこちら
ワイン法 その4 (AO法からAOC法へ)    詳解はこちら  

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ワイン法 その6 (ヴァン・ド・ペイ等)     詳解はこちら

ワイン法 その7 (EC法と仏ワイン法)    詳解はこちら      

 

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