ワイン法 その2 (ボルドー合意) | ろくでなしチャンのブログ

ワイン法 その2 (ボルドー合意)

            ワイン法 その2 (ボルドー合意)

 

 

 前回は不正ワインの防止と上質ワインの信頼性確保のための産地画定経緯と法整備についてのお話でした。

 

 新たに、産地画定は司法に任せるとして、どのような内容の法律を創って産地の保護を図るか、政府は最も大きな生産者と販売者の組織である「ジロンド商業及び葡萄栽培協会」へお伺い?をたてることとします。

 生産者とネゴシアン(販売者)の代表らが出した1913年9月18日産地画定に関する合意は「ボルドーの合意」と呼ばれることとなります。 

 

 要点は

 

① 「原産地呼称~Appellations d'Origine」は「所有権の証明書~titre

  de propriete」である。関係者の紛争解決も裁判の手続きによる。

② 「アペラシオン・ドリジーヌ」で指定された産物は、その産地で造られた

  と言う理由だけではなく、その価値を与える品種・栽培方法によって価

  値が生み出されるという理由に基づき認定されたアペラシオン・ドリジ

  ーヌを保護する。

  

 ということとなります。ボルドー合意を基に下院議員ダリア~Dariacが「アペラシオン・ドリジーヌの保護に関する法案」を下院に提出し審議されることとなり(農務大臣パム~Pamsの1911年6月30日法案をベースとしたためパム・ダリア法案と呼ばれることとなります。実質ボルドー・合意法案です。)

 

 審議に付された「アペラシオン・ドリジーヌの保護に関する法案」第1条には「その産地(origine)、性質(nature)、品質(qualites substantielles)により従来からの慣習がその名称に貢献するものとは異なる地理的表示を為した者は如何なる者であっても罰せられる。」とされたのです。

 

 ボルドー合意の第1の眼目である「品質」に関して明示されました。

ところが、法律としては「品質」という文言を表記するときは品質に関する定義付けを行わなければならず、定義付けが困難であり、訴訟になった場合には「品質」の立証が困難となり合理的・短期間での解決が難しくなるとの理由から「品質」条項が削除されてしまいます。

 同じくボルドー合意の第2の眼目である「アペラシオン・ドリジーヌは所有権である。」に関してはアペラシオン・ドリジーヌは集団的権利であり、個人の権利ではないとされます。この点は所有権(独占的・排他的な権利)をアペラシオン内の各個人が持つということは理論上あり得ないので共有との意味合いであったと思われ、単に表現上・解釈上の問題であってこの点に関してボルドー合意は変更されたとは思われません。

 このことは画定されたアペラシオン以外の葡萄で造られるワインは画定されたアペラシオン名を名乗れないことを意味します。

 

1919年5月6日法(アペラシオン・ドリジーヌの保護に関する法律)AO法

 

 第1次世界大戦の終結後、1919年5月6日に1905年8月1日の「不正防止に関する法律」の一部を廃止し、「アペラシオン・ドリジーヌの保護に関する法案」が成立します。

 

 やがてアペラシオン・ドリジーヌの解釈を巡り争いとなり、破毀院の最終司法判断は「アペラシオン・ドリジーヌの保護に関する法案」に規定しているのは「原産地」だけを規定しており、品質保証には何ら規定されているものではないとの判決が下されます。

 そりゃー当然です。品質規定を全部削除したのですから。政府には法律案作成に関し点検する係が置かれますので余ほどのことが無い限りドジは踏まないようです。

 

 この品質に関する語句が法案に盛り込まれなかった結果は、ボルドーのアペラシオンとされたジロンド県内の全ての土地で栽培されるどんな種類の葡萄から造られたワインであってもアペラシオン・ドリジーヌ・ボルドーとして販売できることを意味します。

 

 結果、葡萄栽培には不向きであった湿地で栽培された葡萄や、フランス品種とアメリカ品種の交配種

 

 (接ぎ木は穂木の性質を受け継ぐので交配種とは異なります~ 

                             参照 接ぎ木は こちらへ  )

 

 が葡萄畑を占領する結果となります。この交配種は病気に対する抵抗力が強く、多収量が望めるものの理想のワインからは遠く離れた結果をもたらすものでした。

 

 アペラシオンを画定し、他地域の質の落ちるワインとのクパージュを避け、偽造ワインの防止策を設け、優良アペラシオン・ワインに対する評価の維持・向上が見込まれる筈が、肝心の優良アペラシオンが内部崩壊する事態となってしまったのです。

 

 このような事態となった要因は何なのでしょうか。当時の社会情勢と葡萄栽培者達の置かれた状況はどのようなものだったのでしょうか。

 

 1870年代から1880年代初頭のフィロキセラ禍により葡萄栽培者の多くは大打撃を受けます。なんとか葡萄畑を再開した者にとっても多くが多額の借金を負うこととなります。

 ワイン不足により収穫された葡萄は高値で売れたかと言うと、ネゴシアン達はアルジェリア、イタリア、ラングドックの品質の劣る低額のワインをいくらでも仕入れることが出来たので、売価は低額のまま推移します。

 また、1892年からフランスは保護貿易主義に回帰したため海外市場は縮小され、その分フランス国内に振り向けられたワインは余剰ワインとなるといった状況です。

 

 ワイン不足のピークが1879年頃とされており、僅か20年後の1900年は完全な過剰生産となっていたと言われます。

 その後も1914年から1918年の間は第一次世界大戦ですからワインを取り巻く情勢は暗いものばかりだったようです。

 

 このような情勢からネゴシアンにとっても生産者にとっても危機感は強いものがありました。ネゴシアンにとっては輸出市場を考えた時に、アペラシオン・ワインの優位性を強く打ち出したかった筈です。

 ただし、ネゴシアン達が一枚岩であつた訳ではなく、不法ワインに手を染めていた者達にとっては大きな痛手であり諸手を挙げて賛成とはいかなかったようです。

 

 さらに、政府は法案の施行に際してはワイン産地が適法なものである証としてのシール貼付策を発表し、関連経費は新税をもって充てるとしたため、販売者であるネゴシアンに課税されるので新法案反対意見も多く出たようです。

 このような情勢にも関わらずボルドー合意が出来たのは、彼らを取り巻く情勢が厳しかったことを伺わせます。

 

 なお、ボルドー合意はワイン取引に於いて弱者であり続けた小規模生産者達が団結(ワイン醸造販売協同組合の設立等を通じ。)し、かつての勢いを失いつつあったネゴシアン達と政治的に対抗する力を得た結果でありロビー活動の成果であったとの説もあるようですが・・・・。

 

 お話は戻って、アペラシオン・ワインの品質が著しく低下した窮状に対するべく政府も新たな法律制定へと動き出します。

 

 

ワイン法 その1 (不正防止に関する法律) 詳解はこちら
ワイン法 その2 (ボルドー合意)        当ブログ
ワイン法 その3 (AO法改正と混乱)     詳解はこちら
ワイン法 その4 (AO法からAOC法へ)    詳解はこちら

ワイン法 その5 (AO法その後・VDQS)   詳解はこちら

ワイン法 その6 (ヴァン・ド・ペイ等)     詳解はこちら

ワイン法 その7 (EC法と仏ワイン法)     詳解はこちら        

 

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