というタイトルのみが書かれたまま、アンドロイドに保存されたメモは終わっていた。当然、文学フリマそのものも終わっていた。だが終わってはいない。始まっていない、仕事用の思考回路。シフトチェンジせぬままにでかいマッチ棒が〝文学〟につき刺さったままだった。
周辺車両から高らかなるクラクション。文学的発想は、社会的労働に於いて省かれるべき、無駄な思考である。結論から述べること。ビジネス定型文を紡ぐこと。とりいそぎご要件まで。そこに必要以上の個性や工夫は必要とされず、生まれついての受動態としては私らしく思考すること、それ自体が社会では迷惑なのだった。鈍くさいことであった。
ああ、色が綺麗だ。なんてことは知ったことではない、考える前に電話をとれ。大衆の好む色を〝綺麗〟と規定せよ。飯喰うな。残業しろ。無休で無給し続けろ。潰れっちまうよ、むきゅう。
さても文学フリマである。告白するが、これは告白なのだが、私はあの場でどう振る舞ってよいのかちょっとわからない。私はいつも本を販売して口に糊している。編集でもない、製作でもない、レイアウトでもない素寒貧の、販売。気楽なものだ。客観を尽くせばいい。客観を尽くし売り尽くせばいい。そこに責任は、あるけれども必要以上の重荷は、負いたくても負えない。私が拵えていないからだ。
身に覚えのない叱責に頭を取れるほど怒られるのはかなしいことである。だが、自己が全否定されたわけではない。いや、全否定するほど叱責してくれない、というのが正しい。気楽なものである。
だが、だからこそ、自身が書いた本を眼前で品定めされることには、身の震える思いがする、まったく気軽ではない。しかも取れた頭をアスファルトに擦りつけるが如く販売と、私にとって文字を紡ぐことは狭窄している、真逆の対岸にあるのである。従って私は、ブースのなかにいながらにして思考は彼方と此方に分断されている。右脳が左廻りに、左脳が右廻りにと高速回転する狭間で、時折火花のように擦れあうちりぢりの蛋白質、この飛沫だけで思考するものだからまるで白痴なのだった。
そこへまず、ともにブースに立つ深城巧祐氏への返答が、おがくずとなった。彼は翌日からアメリカへ発つというのにどうして私が疲弊できよう、と思ってみても万能感と劣等感が交互高速に明滅しちゃって、あかんのである。彼は繁忙を縫って昆虫にまつわる掌篇などをまとめてきたのだが、私が彼をaikoみたいにおがくずまみれにしてしまった。原価を度外視した文庫はすこぶる面白くて、きっと願えば瞬く間彼は手許へ届けてくれるだろうが、有体に云えば宣伝したいのだけれどもいつもと名義が違うのでリンクを貼ってよいものか、判じかねた。
右隣は太田和彦氏とBegan氏の営むブース、笑半紙。太田氏が早速に弊ブースの新刊二部を購入してくれて、すぐにこちらも『笑半紙』の続きの続きを購入すればよいものの瞬間上の空になってしまい、かねてから気になっていたラカンへの言及について訊ねていたところ来客があった。あの、と次のタイミングにも来客が。えっと、またもや来客。尋常ならざる集客力に「太田君はみんなのもの、だもん」と乙女心めいた、特に志村貴子めいた着想に憑かれてしまう。吉野朔美の話ができ嬉しかった。
「清風さん」
「どうしました」
「小平が、仲間にしてほしそうにこちらをみている」
おや、どうしたことだろう。半年前に倒したはずの小平哲也が甦っているのである。しかも昼食にでている間に購入してくれたらしく、私はというと、彼になにもしてあげられなかった。同様訪ねてくれた大学時代の友人まつにも、ふり返ればやけにふんわりと応対してしまい、方々の不義理に後悔が絶えない。後悔を公開することであの、おがくずを握りしめて蹲っていた文学フリマは戻ってこないのだが。
カオスカオスブックスの富永夏海さんも、繁忙の前にすっと本を購入して下すった。ブースは斜向かいで超美麗な装丁と、平素ドラクエを唱えている彼女による幻想世界がどんなものなのか、楽しみでたまらない。まだフリマで購めた本を一冊も読めていない。そして私が買ってしまってよかったものか迷うほどに売れていた『双星譚 バンゲリブラ小史』なのだから、これはおがくずの頭で読んではいけない。ゆっくりと味わいたい。
だんだん感想文らしくなってきた。自由時間を得て、向かう先はストカストさんと西瓜鯨油社さんのブース。ストカストを営む木嶋氏の本は第十二回文学フリマに客として、初めて赴いたときから買っている。今回の新刊は表紙に楽譜を配しており、なにやらグールドに憧れる少女のような気持ちで抱きしめた。おかま、ではなくて音符から察するに現代音楽或いは楽譜表記をアートとして読み解く試み、といった感じだろうか。なにせおがくずなのでいまは無理だ、半年後にご本人に訊いてみようとその場を離れた。
西瓜鯨油社を主宰する牟礼鯨氏には数ヶ月前、突如メールを送りつけたことがあった。東京国際ブックフェアのひとブースを数名の同人でシェアし、同人誌の熱量を焼きつけてやる。そのような告知がブログでなされていて、有志を胸にメールしたのだった。ご本人に結果を伺うと、現在ひとりあたりの出展料は十万円程度とのことだった。これも東京都で買ってくれたらいいのにと思ったが、それを云う代わりに「何処かに呑み会はありませんか」と訪ねてみた。
すると氏は自然な動作で私の肩を抱く、ようにつぎつぎ佐藤氏、BLANK MAGAZINEの吉永氏をご紹介下さり打ちあげに誘ってくれた。乙女心めいた頼もしさを感じたが、おかまではないこととはまったく別に、クロネコヤマトの発送にまごついていたら酒宴に遅れてしまった。いったいどんな神経をしておるのだ。
このようにして不義理の文学フリマは終わりを告げた。しかしまだ終わっていないところには、すべての戦利品をまだ読んでおらず世話になったひとびとの、つつましいけれども心ばかりの紹介をしたいというそのことと、そしてもう、なにもかも不義理によって終わっているという可能性、あとは間に挿入しようと思っていた文章もいつしか忘れたままだ。リンクを伴う紹介はおがくずを踏み固めたるのち書くことにして、いまはひとまずの終わりをただ、認識したい。おちにしようと思っていた前日の、中川翔子レベルアップについても「猫好きのマッチョが好み」というニュースの見出しですべてふっ飛んでしまった。もう、とにかく、書いておいた文章を入れてしまおう。
アンダンテ。音楽記号で「歩くような速度で」という意味。或いは小花美穂の著作。私がしばしば忘れがちでたびたび思いださねばならない、文章を書く上で気をつけているのは「話すように、唄うように、奏でるように」そう、音楽をしていた時分は考える前にできていたことを、社会にでてから兎角忘れがちになっていた。今回の本を作るあたってまず考えたことである。
言葉は無力で、
伝えるべきを伝えるために何度も何度も、
何度でも説明していいと思っている。
私の書く〝海〟は、果たして読者のなかで
私の思う〝海〟を結ぶだろうか。
そして私の書いた〝黒い海〟は
正しく読者のなかで〝黒い海〟を
結像しているのだろうか。
信用ならない、というのであれば
読者ではなく、言葉である。
それでいて愛おしくてたまらない、
読者と言葉。
語りかけるときも言葉を紡ぐときも私たちは結句、
言葉を尽くす以外にないのである。
だから私は二重形容があってもいいと思う。
擬音と動詞のしつこい説明だって、
あさはかにかつ責任を言葉に押しつけて、
「言葉の力を信じている」などと嘯くよりも
書き手ができる唯一正しいことだと私は思う。
共同幻想では癒されないひともいる。
だから私は定型を用いることで
説明を省略するのは暴力だと思うのだ。
二次元的な作法、ポピュラーミュージックの列挙、
食に関するあさはかなる描写。
そこから零れた感覚は、読者は、設定は、
誰が拾い集めてくれるのだろう。
小説はシナリオではない。小説は楽譜ではない。
小説は年表ではない。従って説明のみに尽くすこと、
勝手な解釈で補完されてしまうような
ありふれた内容を意味しているのでは
たとえば、テキストが本の体裁とることさえ
そのレゾンデートルを揺らすだろう。
私が手にしている短歌集の表紙には
楽譜が印刷されているが、それは楽譜であって
しかし楽譜を否定しているようにみえる。
〝ただ音の配置を記述する〟これが楽譜であるならば。
その記述は、あまりにも〝唄っている〟のだった。
楽譜を超えてゆく表記、そこに記されているのは
聴覚で知覚しないがしかし、純然たる〝音楽〟だ。
小説もそのようにあって欲しい、唄って欲しい、
読者の心に聴覚と視覚と嗅覚と味覚とを、
触覚するものであって欲しい。
中川翔子さん
二十七歳の誕生日
おめでとうございました。
http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20120506
【あらすじ】絶え間なく自転するモーメントへの求心。いや待てよ、と私は思うのだった。なぜなら夢は毎夜みているとされるが、追憶なしには“夢をみていたこと自体忘れて”しまう。翻って夢の記憶とは「(なぜかは知らぬが)青い蝶に触れてはならぬ」だとか「(現実ではまったく興味がなかったのに)中曽根のことが気になる」などローカルルールながらも“自分が思考した記憶”として覚醒後、再生される。そういえば追憶とは、記憶を追いかけるということだ。つまりひとは、夢中に考えていたことだけを覚えているのである。「豆のためならなんでもするズラ」「お、豆ゲバか?」固定観念は裏切るためにある。なぜ撃たない?それは既に成立している“前ふり”なのだ。やわらかい男根としての村上春樹。つまり、日本人ではないのである。文体は主語に尽くす。おしなべて距離感、わたくし率の増減である。ぽつねんと失念された。「なんとか社長にやわらかく伝える方法はないものかな」「こういうのはどうでしょう」「云ってみなさい」「生きてる場合じゃないんじゃないですか?」言葉とは素晴らしいものだ。ただ致命的に残念なのは、それが伝達手段ということ。物語は一行一字に人生をなぞらえる。文字は日日を記するのみに非ず。きみよ、文学なさい。メトロが川下に停まっている。どうせもう間にあわない。筑豊川を井上陽水が流れてゆく。信念なき二元論は容易に逆流する。俯瞰すれば二元とはそれ自体、一元に構成されているからだ。心にいつも中指をたてなさい。そっとファックを唱えなさい。「豆のために人を殺したズラ!」「豆ゲバなのか?」人は誰かに生かされている、私は珈琲に起こされている。大人の心は穴だらけ。遺失物の悲しみはなにものにも埋めがたく、過去とはすなわち心を穿つということだ。風通しのよい心は求心力に満ちて、互いに引きあう力を昔のひとは、孤独と呼んだ。心臓を掴む、悲しみもたいがいにして。穢されることによってしか私は浄化されず、穢されることでのみ浄化される自己と過去。自己とは事故であり、おおむね未来もまた穢されるものである。心の三段活用は「ホップ・ステップ・ジャンプ」であり「ホップ・ステップ」ではただのスキップである。ルンルンなのか?それは所謂社会の闇、黒い報告書として日々テレビジョンなどに垂れ流されている。ひとが恒常的に二面性を持つ生物であり、より高次に少なくとも好奇心を抱いていることは疑いようがない。誰もが一国の王であり、鳥よりも高みをゆく想像神である。さりとて何処までも奔放に枝葉を伸ばす想像力には、ひとの二面性の多くが他者へ向かっての行使を目的とされていることからも、核保有国たる協定を設けることが責務とされる。不倫はするが、殺人はしない。そういうことだ。私はそれでもなお、想像力のテロルを望んで止まない。それは社会に残されたもうひとつの暗黙であり、私はその可能性に於いてのみ人間である。ひとたりうる。言葉がひとを傷つけただとかそういうものは百年前に超越したい。唸りて捻りぬ物語は宙を結び、やがて屁の実際となって現実へとひりだされる。









