山本清風のリハビログ リターンズ

この作品は、地域住民の反対を押し切って帰ってきた。

【あらすじ】絶え間なく自転するモーメントへの求心。いや待てよ、と私は思うのだった。なぜなら夢は毎夜みているとされるが、追憶なしには“夢をみていたこと自体忘れて”しまう。翻って夢の記憶とは「(なぜかは知らぬが)青い蝶に触れてはならぬ」だとか「(現実ではまったく興味がなかったのに)中曽根のことが気になる」などローカルルールながらも“自分が思考した記憶”として覚醒後、再生される。そういえば追憶とは、記憶を追いかけるということだ。つまりひとは、夢中に考えていたことだけを覚えているのである。「豆のためならなんでもするズラ」「お、豆ゲバか?」固定観念は裏切るためにある。なぜ撃たない?それは既に成立している“前ふり”なのだ。やわらかい男根としての村上春樹。つまり、日本人ではないのである。文体は主語に尽くす。おしなべて距離感、わたくし率の増減である。ぽつねんと失念された。「なんとか社長にやわらかく伝える方法はないものかな」「こういうのはどうでしょう」「云ってみなさい」「生きてる場合じゃないんじゃないですか?」言葉とは素晴らしいものだ。ただ致命的に残念なのは、それが伝達手段ということ。物語は一行一字に人生をなぞらえる。文字は日日を記するのみに非ず。きみよ、文学なさい。メトロが川下に停まっている。どうせもう間にあわない。筑豊川を井上陽水が流れてゆく。信念なき二元論は容易に逆流する。俯瞰すれば二元とはそれ自体、一元に構成されているからだ。心にいつも中指をたてなさい。そっとファックを唱えなさい。「豆のために人を殺したズラ!」「豆ゲバなのか?」人は誰かに生かされている、私は珈琲に起こされている。大人の心は穴だらけ。遺失物の悲しみはなにものにも埋めがたく、過去とはすなわち心を穿つということだ。風通しのよい心は求心力に満ちて、互いに引きあう力を昔のひとは、孤独と呼んだ。心臓を掴む、悲しみもたいがいにして。穢されることによってしか私は浄化されず、穢されることでのみ浄化される自己と過去。自己とは事故であり、おおむね未来もまた穢されるものである。心の三段活用は「ホップ・ステップ・ジャンプ」であり「ホップ・ステップ」ではただのスキップである。ルンルンなのか?それは所謂社会の闇、黒い報告書として日々テレビジョンなどに垂れ流されている。ひとが恒常的に二面性を持つ生物であり、より高次に少なくとも好奇心を抱いていることは疑いようがない。誰もが一国の王であり、鳥よりも高みをゆく想像神である。さりとて何処までも奔放に枝葉を伸ばす想像力には、ひとの二面性の多くが他者へ向かっての行使を目的とされていることからも、核保有国たる協定を設けることが責務とされる。不倫はするが、殺人はしない。そういうことだ。私はそれでもなお、想像力のテロルを望んで止まない。それは社会に残されたもうひとつの暗黙であり、私はその可能性に於いてのみ人間である。ひとたりうる。言葉がひとを傷つけただとかそういうものは百年前に超越したい。唸りて捻りぬ物語は宙を結び、やがて屁の実際となって現実へとひりだされる。
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 というタイトルのみが書かれたまま、アンドロイドに保存されたメモは終わっていた。当然、文学フリマそのものも終わっていた。だが終わってはいない。始まっていない、仕事用の思考回路。シフトチェンジせぬままにでかいマッチ棒が〝文学〟につき刺さったままだった。



 周辺車両から高らかなるクラクション。文学的発想は、社会的労働に於いて省かれるべき、無駄な思考である。結論から述べること。ビジネス定型文を紡ぐこと。とりいそぎご要件まで。そこに必要以上の個性や工夫は必要とされず、生まれついての受動態としては私らしく思考すること、それ自体が社会では迷惑なのだった。鈍くさいことであった。



 ああ、色が綺麗だ。なんてことは知ったことではない、考える前に電話をとれ。大衆の好む色を〝綺麗〟と規定せよ。飯喰うな。残業しろ。無休で無給し続けろ。潰れっちまうよ、むきゅう。



 さても文学フリマである。告白するが、これは告白なのだが、私はあの場でどう振る舞ってよいのかちょっとわからない。私はいつも本を販売して口に糊している。編集でもない、製作でもない、レイアウトでもない素寒貧の、販売。気楽なものだ。客観を尽くせばいい。客観を尽くし売り尽くせばいい。そこに責任は、あるけれども必要以上の重荷は、負いたくても負えない。私が拵えていないからだ。



 身に覚えのない叱責に頭を取れるほど怒られるのはかなしいことである。だが、自己が全否定されたわけではない。いや、全否定するほど叱責してくれない、というのが正しい。気楽なものである。



 だが、だからこそ、自身が書いた本を眼前で品定めされることには、身の震える思いがする、まったく気軽ではない。しかも取れた頭をアスファルトに擦りつけるが如く販売と、私にとって文字を紡ぐことは狭窄している、真逆の対岸にあるのである。従って私は、ブースのなかにいながらにして思考は彼方と此方に分断されている。右脳が左廻りに、左脳が右廻りにと高速回転する狭間で、時折火花のように擦れあうちりぢりの蛋白質、この飛沫だけで思考するものだからまるで白痴なのだった。



 そこへまず、ともにブースに立つ深城巧祐氏への返答が、おがくずとなった。彼は翌日からアメリカへ発つというのにどうして私が疲弊できよう、と思ってみても万能感と劣等感が交互高速に明滅しちゃって、あかんのである。彼は繁忙を縫って昆虫にまつわる掌篇などをまとめてきたのだが、私が彼をaikoみたいにおがくずまみれにしてしまった。原価を度外視した文庫はすこぶる面白くて、きっと願えば瞬く間彼は手許へ届けてくれるだろうが、有体に云えば宣伝したいのだけれどもいつもと名義が違うのでリンクを貼ってよいものか、判じかねた。



 右隣は太田和彦氏とBegan氏の営むブース、笑半紙。太田氏が早速に弊ブースの新刊二部を購入してくれて、すぐにこちらも『笑半紙』の続きの続きを購入すればよいものの瞬間上の空になってしまい、かねてから気になっていたラカンへの言及について訊ねていたところ来客があった。あの、と次のタイミングにも来客が。えっと、またもや来客。尋常ならざる集客力に「太田君はみんなのもの、だもん」と乙女心めいた、特に志村貴子めいた着想に憑かれてしまう。吉野朔美の話ができ嬉しかった。



「清風さん」
「どうしました」
「小平が、仲間にしてほしそうにこちらをみている」
 おや、どうしたことだろう。半年前に倒したはずの小平哲也が甦っているのである。しかも昼食にでている間に購入してくれたらしく、私はというと、彼になにもしてあげられなかった。同様訪ねてくれた大学時代の友人まつにも、ふり返ればやけにふんわりと応対してしまい、方々の不義理に後悔が絶えない。後悔を公開することであの、おがくずを握りしめて蹲っていた文学フリマは戻ってこないのだが。



 カオスカオスブックスの富永夏海さんも、繁忙の前にすっと本を購入して下すった。ブースは斜向かいで超美麗な装丁と、平素ドラクエを唱えている彼女による幻想世界がどんなものなのか、楽しみでたまらない。まだフリマで購めた本を一冊も読めていない。そして私が買ってしまってよかったものか迷うほどに売れていた『双星譚 バンゲリブラ小史』なのだから、これはおがくずの頭で読んではいけない。ゆっくりと味わいたい。



 だんだん感想文らしくなってきた。自由時間を得て、向かう先はストカストさんと西瓜鯨油社さんのブース。ストカストを営む木嶋氏の本は第十二回文学フリマに客として、初めて赴いたときから買っている。今回の新刊は表紙に楽譜を配しており、なにやらグールドに憧れる少女のような気持ちで抱きしめた。おかま、ではなくて音符から察するに現代音楽或いは楽譜表記をアートとして読み解く試み、といった感じだろうか。なにせおがくずなのでいまは無理だ、半年後にご本人に訊いてみようとその場を離れた。



 西瓜鯨油社を主宰する牟礼鯨氏には数ヶ月前、突如メールを送りつけたことがあった。東京国際ブックフェアのひとブースを数名の同人でシェアし、同人誌の熱量を焼きつけてやる。そのような告知がブログでなされていて、有志を胸にメールしたのだった。ご本人に結果を伺うと、現在ひとりあたりの出展料は十万円程度とのことだった。これも東京都で買ってくれたらいいのにと思ったが、それを云う代わりに「何処かに呑み会はありませんか」と訪ねてみた。



 すると氏は自然な動作で私の肩を抱く、ようにつぎつぎ佐藤氏、BLANK MAGAZINEの吉永氏をご紹介下さり打ちあげに誘ってくれた。乙女心めいた頼もしさを感じたが、おかまではないこととはまったく別に、クロネコヤマトの発送にまごついていたら酒宴に遅れてしまった。いったいどんな神経をしておるのだ。



 このようにして不義理の文学フリマは終わりを告げた。しかしまだ終わっていないところには、すべての戦利品をまだ読んでおらず世話になったひとびとの、つつましいけれども心ばかりの紹介をしたいというそのことと、そしてもう、なにもかも不義理によって終わっているという可能性、あとは間に挿入しようと思っていた文章もいつしか忘れたままだ。リンクを伴う紹介はおがくずを踏み固めたるのち書くことにして、いまはひとまずの終わりをただ、認識したい。おちにしようと思っていた前日の、中川翔子レベルアップについても「猫好きのマッチョが好み」というニュースの見出しですべてふっ飛んでしまった。もう、とにかく、書いておいた文章を入れてしまおう。





 アンダンテ。音楽記号で「歩くような速度で」という意味。或いは小花美穂の著作。私がしばしば忘れがちでたびたび思いださねばならない、文章を書く上で気をつけているのは「話すように、唄うように、奏でるように」そう、音楽をしていた時分は考える前にできていたことを、社会にでてから兎角忘れがちになっていた。今回の本を作るあたってまず考えたことである。



言葉は無力で、
伝えるべきを伝えるために何度も何度も、
何度でも説明していいと思っている。
私の書く〝海〟は、果たして読者のなかで
私の思う〝海〟を結ぶだろうか。
そして私の書いた〝黒い海〟は
正しく読者のなかで〝黒い海〟を
結像しているのだろうか。



信用ならない、というのであれば
読者ではなく、言葉である。
それでいて愛おしくてたまらない、
読者と言葉。
語りかけるときも言葉を紡ぐときも私たちは結句、
言葉を尽くす以外にないのである。
だから私は二重形容があってもいいと思う。



擬音と動詞のしつこい説明だって、
あさはかにかつ責任を言葉に押しつけて、
「言葉の力を信じている」などと嘯くよりも
書き手ができる唯一正しいことだと私は思う。



共同幻想では癒されないひともいる。
だから私は定型を用いることで
説明を省略するのは暴力だと思うのだ。
二次元的な作法、ポピュラーミュージックの列挙、
食に関するあさはかなる描写。
そこから零れた感覚は、読者は、設定は、
誰が拾い集めてくれるのだろう。



小説はシナリオではない。小説は楽譜ではない。
小説は年表ではない。従って説明のみに尽くすこと、
勝手な解釈で補完されてしまうような
ありふれた内容を意味しているのでは
たとえば、テキストが本の体裁とることさえ
そのレゾンデートルを揺らすだろう。



私が手にしている短歌集の表紙には
楽譜が印刷されているが、それは楽譜であって
しかし楽譜を否定しているようにみえる。
〝ただ音の配置を記述する〟これが楽譜であるならば。
その記述は、あまりにも〝唄っている〟のだった。



楽譜を超えてゆく表記、そこに記されているのは
聴覚で知覚しないがしかし、純然たる〝音楽〟だ。
小説もそのようにあって欲しい、唄って欲しい、
読者の心に聴覚と視覚と嗅覚と味覚とを、
触覚するものであって欲しい。



中川翔子さん
二十七歳の誕生日
おめでとうございました。







http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20120506
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 新型うつ。という仮名称みたいなものをやけに耳にするなと思っていたら、どうやら病名らしいということになり、国会が騒然とした。私の脳内の。「帰ってきたウルトラマンは新マンという名前なのだ。ゾフィー、みたいにセブン、のようにだ」と知ったときと同様の腑に落ちなさが私の永田町を包む。



 しかし国会をもっと騒然とさせたのは、私の永田町にある、新型うつの病状がそっくりそのままかつて、擬態うつと呼ばれていたものと同じだということだった。擬態うつ、擬態している、鬱を装っている、とつまり鬱の偽物ということである。それをテレビでは新型の鬱病だと云っていたのである。うわ、とんでもねえ偽物語始まっちまったなこれ。



 いやいやそんなわけないだろう、と或る日国営放送を観ていたらば精神科医が「新型うつは他人に理解されにくい心の病です。抗鬱剤も利きにくいし」そりゃそうだろう。擬態なんだから。薬がんがん処方して金儲けしやがって、こいつ自分の儲けのためにみんな精神病にしちまうつもりだな。かつて自律神経失調症は診断不能、つまり心の病ではない患者に対して安心と、金と、体面のために用いられた屑籠(くずかご)的病名だった。いまはこの新型うつってのがそうなのだろう。



 知識が俄かでおっかなびっくり、しかし書いてしまうけれども、自分の認識では鬱病というのは脳の疾患が原因であり、そのため疾患に働きかける投薬が効果的なのだと精神科のホームページで読みました。翻って新型うつとは擬態なのだから疾患に薬は作用せず、クリニックに飛びこんでいる時点で確かに心に問題はある。問題はあるが、たとえば仕事以外で溌剌(はつらつ)とするならそれは仕事が楽しくないだけで、楽しい仕事に就けばよい。それができぬからみな苦労しているのだが、そしたら一億総うつになってしまう。うつになると医者が儲かります。



 もし仮に、自分の職場に新型うつがいたらどうなるだろう。困る。非常に、困る。学生時分であれば強いて話す必要もないし黙殺すればよいだけなのだが、仕事となれば嫌でも接せねばならぬ強制力が働く。働く、即ち仕事とは多くの場合が共同作業である。それは現場作業然り、流れ作業然り、夫婦生活然り。そこで新型うつが社会弱者の顔で周囲に迷惑をかければ、これは仕事が滞るのは必定であろう。集団に於いて愚痴は伝染する。悪意は瞬く間にオフィスの雰囲気を害する。同様に、怠慢かも知れない社会的庇護の下での休暇が、周囲に与える影響を考えると慄然とする。病気合戦なんて始まったらそれはもう仕事どころではない。





 近親憎悪の可能性、もないではない。つまり新型うつに私は自分の嫌なところを鏡のように見て、自分が許せぬ怒りを八つあたりめいてぶつけているのではないかと。だが精緻に考えを煎じ詰めれば近親憎悪という躓(つまづ)きはそこかしこにある。だって人間だもの。多くのひとが飯を口から喰い、菊から吐く。それは良しにつけ悪しにつけ中庸につけて、目を凝らせば凝らすだけ差異が明らかになるように思考を巡らせば巡らしただけ、近似を感ずるその然るのち、思考停止へ至る。



 〝ひととひとはわかりあえない、全く別の存在である〟



 という大前提なくばひとはすぐさま、一を云って十を解れと思うし、家族だから恋人だから友達だから自分のことを解ってくれると思うし、その結果大切にすべき相手に言葉が足りず、離婚したり傷つけたり孤独になったりするのである。同様に類似点を探したところで結句別の存在であることを、都合よく忘れてしまえばその人生は安楽なものとなるだろう、幾多の他者を踏み台として。「あなただって仕事のこと考えると鬱々とするでしょう?」と云いながら、同じ馬鹿なら踊らねば損とばかりにひとに仕事を押しつけて、休んでいるような不快を新型うつに覚える。凡庸かつ弱者、という仮面をかむって特別かつ勝者の待遇を得る。病気で休むのが普通であるなら、もしかしてここが休みの国だったのか?



 私は決して胸を張らない。就職活動もせず根拠なしに音楽で喰えると確信して、マジックマッシュルーム喰ってレトルトカレーばかり喰って月十万足らずのアルバイト代でふらふらしていた、へらへら人間だもの。そうだったもの。しかしながらどんなに鬱々しても、フローリングに直に敷かれた万年床に吸いこまれそうなくらい、失恋貧困不安に孤独をびしばし感じても、周囲にやばいよどうにかしろよと云われても尚、精神的なクリニックの門を叩くことはなかった。何故か。私は狂気を尊敬しつつ畏怖した。狂うことで天才になれるのならばそれをしたかった。だがまだ足りない、こんな発想では失礼だ無礼だ凡庸だ、と至高の思考を志向し試行して嗜好してもやまず歯垢もとらずに思考した。結果、私は狂えなかった。才能がないのだった。狂人を天才と等しくするのが不謹慎であるならば、私はそのとき極めていただろう。考え詰めたとき、乗り越えられる問題があった。だから私は思考を停めてはならないのだった。



 翻(ひるがえ)って新型うつってばどうだろう。天才の奴をみたことがない。どいつも表面ではひとの心を想ったりして思慮深げだが、一歩踏みこむと下手に考えているだけに却って馬鹿みたいである。最終的に上手くゆかぬことを初手で大いにがんばり、果てにはがんばったけど駄目、みたいな顔をして被害者ぶっておる。お前、始めから解ってたんじゃないのかこの野郎。不可能への努力が努力、みたいな顔でその場所から一歩も動かぬ言い訳にしやがって。周囲のひとを馬鹿にしやがって。天才は、停まれない。凡人は、動けない。お前は、動かない。



 私がクリニックへいかなかった理由はいまひとつ、もうちょっとましなやつがあって、私は私のぐうたらを知っている。それすら知らなかったらやばい。折角ずるして も得がないだろう。で、知っているしクリニックにゆくと名前をつけてくれることも知っている。にゃー。捨て猫じゃないんだよ。病名をつけてくれるんだよ。だってそれが仕事なのだから。薬を処方してくれるだろう、それが収入になるんだから。そして安心しちまうのだ。自分はまともではないことの言い訳、という理由ができて。狂気を学んでいたなら問診の折、そこそこいい点を採れるだろう。なにしろ狂気というのは案外、紋切り型なのだ。



 どうせ自分が臭い気がするんだ。汚い気もする。自分でこれだけ思うのだから他人はどうだろう、気を遣って云わないだけで内心顔をしかめているに違いない。あいつもこいつもそう思ってるに違いないのだ。何故わかるかって? 俺にはわかってしまうんだよ、なにしろ特別だからな。お前もお前もお前もお前も俺が臭くて醜くて悪口を云っているだろう、知ってるんだからな、わかっているんだぞ。俺はひとの心が読めるんだ。やや、どうして俺のモノローグが漏洩しているんだ? もしかして俺の読心術とは諸刃の剣、思考が全開になっていてひとの心が聴こえるのと等価値に俺の心も聴こえてしまうのか? 先生、こんなことってあるんでしょうか?



「あなたは統合失調症、かつての精神分裂病の可能性があります」



 なんて、頼めばパキシルくらい処方してくれるかも知れない。狂気の定型を学ぶほど、トリガーとなるべき良くも悪くものスペシャリティは錬磨されてゆく。その前では「会社に着くと眩暈がして思考が混乱を来す」なんてものは凡庸過ぎて恥ずかし過ぎて言葉にできない。或いは本当に心配りのできるひとであれば、金など理由にせず会社を去るべきではないだろうか。



「新型うつの症状としてはこれこれこういうものがあります」
「えっ、それって俺がなまけものなだけでは……」



 とはならないのだろうか。そこまで客観視できない主観の人生は、確かに辛いことも多かろうけれど端から見ればしあわせものではないのか。悩んでるわりに筋少でも聴いてるのかと思えばそういう手合いに限ってEXILEとか聴いてるのである。或る種救いようがないが、それは医療や社会保障の範疇ではない。命名されることの安心は所在のなさを逆説している。だが話を訊く限り、その椅子は心身襤褸(らんる)よろしくになり獲得せねばならない悲劇というよりは、友達がいないとか家族と向き合っていないという初歩的努力の欠落だろう。お前等は心の壊れたひとを前にしてもその、会話と同等の最初期に於ける人間的努力を怠ろうというのか?



 って、うわーっ。俺のソウルジェム真っ黒じゃねえか。おかまか。そのようなわけで新型うつのことを考えると私は、怒りがそこかしこ反響し増幅濾過還元して、無限増殖してしまうのである。だから近親憎悪、というよりは羨ましいみてえな気持ちなのかも知れない。図々しくって楽しいだろうね、人生。楽しくない、って顔するのがお仕事ってわけかい? ぐはーっ、真っ黒なんだよ俺の飛行石がよ。LCL液がよ。





 そのようなわけで私は近道に片側をマンションのブロック塀、もう片側を駐車場のブロック塀に挟まれた一本道を急いでいた。足許は踏み固められているものの石ころ交じる土であり雑草が踏みにじられ、陽の射さぬ狭い道により湿気を与えていた。心が狭窄してしまう。こんなところで焦っているのだ。前方からひとがきたらどうなろうことか、というきゅんきゅんに締めつけてくる道である。



 果たして前方に人影が現れた。どちくしょう、急いでおるのにすれ違うのに難儀するのに。ちむちむに舌打ちしながらソウルジェムを汚しているとやがて、前方より迫る人影の面立ちが明らかになってきた。なんというかそれは、その表情は、説明に困るなあ。ふむ、QRコードだったのである。



 急いでいるのに早足なのに、その上QRコードとすれ違うのではもうどきどきしてしまう。先方はずんずく歩調を全く緩めようとしない。あいつ、もしかして避けないつもりなのか? 心拍数が高まる。どげんかせんければならぬと私はまず射程距離を計算し、眼前に携帯電話をかざした。そう、ライブラ(バーコード読取)だ。
〝新型うつ〟



 しっ、新型うつがあらわれた……!



 コマンド?



 とりあえず、と私は先制攻撃に口先の寸鉄で以て斬りつけることにした。
「いちどきに色々の問題が起きるとお前は混乱するよな、俺だってそうさ。人間には処理能力ってもんがあるんだからな。だが処理落ちってのは個々人の能力如何であって、至らないことは恥だろう? 叱責の対象であったりマイナス評価だったりするだろう? だから俺は落ちこむよ。自分が不甲斐なくってむかついたり哀しみに暮れたりするよ。お前だってそうだろう? ところが話を聴いてれば誰が悪い彼が悪い日が悪い運勢が悪い時代が悪い、しまいに病気が悪いとお前は決して責任をとらない。そんな奴が果たして心を病むものかな? 責任を逃れるスキルとは病気を退けるスキルであり、渡世の上手さであって、つまりお前は〝勝負できない弱者〟ではなく、〝勝負しない強者〟なんだよ。或いは〝勝負を保留している弱者〟とでも云いたいのかな? 結果お前は〝勝負にならない弱者〟に跳ねっ返りを浴びせているのになんでそんなに図々しくいられるんだ? お前の気遣いは表面上ゆき届いているが、よく聴けば〝話を聴いてやった代わり〟とばかり自分の言い訳を聴かせているだろう? しかもお前は決定的なときに限って、話を聴いた相手の側にはいないんだ。最後まで尻を拭わぬ気遣いとは果たして気遣いなのかな? 救えないのであれば話を聴かない選択だってあったはずだろ? お前は〝一度吐(つ)いた嘘は生涯明かさない〟という嘘吐きのエチケットすら守らずに、会社を病欠して海外旅行へでかけている」



 手応えが、なかった。新型うつはぬるりと自身の顔面を撫で廻すとむりむりむり、ふんふんに腹を振って通行しようとした。最早言葉すら届かぬか、と般若モードにギアを入れた私は絶対に退くものか、そのように仁王だちしたがくさ。ふんぷんに匂う香水が体中に塗りたくられているらしく、くさ。鼻がひん曲がりそうだと私はにゃん、猫になったつもりでブロック塀にしがみつくとつっかえ棒の外れた掃除ロボットみてえにあいつは、むりむりむーん行過ぎていった。香水の匂いに頭痛がした。



 ところで、私方は裏路地に面しているがためよく、イヤホンをして自転車で駆け抜けている手合いをみるのだが、彼等或いは彼女等はみな揃って爆音でミュージックを聴いている関係上、視野狭窄し、つまり周囲を気にしないため羞恥心の欠片もなく謳歌し、大声でミュージックを唱歌して、しかも爆音で聴くあまり自らの声が内側に反響せず、要するに音程がとれず酷い音痴になっているのであって、周囲にばびばびの音符を腹から撒き散らしておりすこぶる滑稽である。



 今日も今日とてびばびばの音符が窓にびしばし激突して、「なにごと」と何処かで耳を掠めたようなダンスミュージックであることだなあ、と胸に少しく感慨を抱いてカーテンを繰った。すると、眼下にアスファルトタイヤを斬りつけながら暗闇駆け抜ける、一条の光。もとい、自転車が発見せられた。ドップラー気味にそれらエクリチュールは音源化されてゆく。



   ゲワイエンタウ ひっとりでは
   解けない愛のパズルうお抱いて



 ふむ、この街で優しさに甘えていたくはない、というわけか。なるほど。でも近所迷惑だから田舎に移住して自給自足でもしていやがれ、とその上下する逆三角形のシルエットに向かって判決を述べた。タフであれ。



 独りでも、傷ついた夢をとり戻すように。






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 後頭部のかたちが綺麗だなあ、と私は思う。すっ、と手で制して店員を呼びとめたときの横顔は後頭部と黒縁眼鏡とのコントラストに彩られて、これはもう、黄金比なのじゃないかと思うのだ、私は。



 シャツの袖のボタンが外されて、きっかり二回、几帳面に折り返されている。思いのほか華奢な時計をしていること、爪が伸びていないこと、なんだか頬杖をついてまじまじと見詰めてしまう。どうせ見惚(みと)れてるな、とか思ってるんだろうなこいつ。女が選んでるんだろうなあ。もてる男の所作をしとるしなあ。



 私は見詰めている、けれども見惚れているわけではないのだ、べつだん。彼の背景に走る水道道路と車もときおり見ているし、周囲の客にだって興味をひかれている。照明落し気味の店内にはカップルが多い。男女のテーブルがほとんどだけれど、ぽちぽちと男性同士の席もある。誰もがぺちくちおしゃべりしているが不思議とプライバシーが保たれている。



 もうワインがきた。笹塚のキャンティ本店はドレッシングが売りだと思っている。そのつぎはドルチェだろうか。のっけからエスカルゴとワイン、という組みあわせは新鮮だった。意外だった。ギャップがあった。しかし敷居は高くないのでちん、グラスをあわせて綺麗な後頭部のなかにある灰色の蛋白質(たんぱくしつ)、その内訳を吟味するとしよう。お口が、大蒜(にんにく)くさい。



 フルボトルが心許(こころもと)なくなる頃、わかったことはつまりこのようなこと。彼は無言で女を殴りつける中上健次ばりのバイオレンスと、双子の女両方と関係を持ちあまつさえ裸身を並べ交差法を施し――間違い探しをするとき、交差法を用いると異なっている箇所がちらちらと反転する。これは校正作業にも応用できる――相違点を探るという試み。
「で、なにが飛びだしてきたと思う?」
「立体に?」
「そう。ああ、って納得したよ。……つまり〝バキューン〟が反転してたのさ!」



 嗚呼、なんという吉行淳之介めいた無邪気さよ、天衣無縫さよ、悪意のない男前! べつだん、エクスクラメーションマークをつけるほどのものでもなかったか。それにしたって抱いたり、殴ったり、並べてみたり、気持ちいいくらいの糞野郎だなこいつ。しかも交差法の落ちは親父ギャグの範疇じゃないか。女をなんだと思ってるんだまったく。



 しかし、真性の親父に比して魅力的と思えなくもないのはその、糞野郎とも断じることのできる中上健次ばり、であり吉行淳之介めいた、であって本読みの私としては話を聴いているぶんには愉快なのだがそれが我が身にふりかかることを思えば、すこぶる不愉快なのであって、両作家とも私は小説として好きだけれどもその世界観の顕現を、望む作家ではないと私は感想した。西村賢太もそうだし、太宰だって、だめだな! 無頼ってやつは!



 私は今宵、こいつに裸にされ平行法を施されるだろうか。そのとき私からはなにがエンボスされて、なにを思い、どんな未来を想像するだろうか。私とて、二十二歳にもなれば好奇心と恋愛とはべつのものである、ということくらい了解しているつもりだ。了解しているし、更に云えば恋愛とは好奇心や憎悪や無関心や、そのようなものの助力も借りつつ続いてゆくものだ、ということさえ知っているのだ。



 後頭部のかたちが綺麗だなあ、やっぱり私はそう思う。こんなに綺麗な後頭部のシェイプをしたひとが女を殴り、女を呼び、女を買い、あまつさえステレオグラムするのである。糞だな。社会ってのは、糞が幾重にも折り重なったようなものが仕事である、と過日思ったばかりだった。糞ミルフィーユめ。それに比してみれば眼前のこいつは糞ではあるが、立派ないっぽん糞であり男らしいと、云えなくもない。のかも知れない。お口が大蒜くさいです。



 けっこう、決定的なことを彼は云ったと思う。そしたら私ははっ、となって、ぽっ、となって、きゃっ、となって、ハンドバッグをひっ掴むと逆に壱万円札はぶん投げて、京王線笹塚駅へと向かって十号通り商店街をひた歩いた。



 笹塚発、鎌ケ谷大仏行の終列車は二十三時二十三分なのである。






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 学生時分、自分が肌身離さず携帯していたのは携帯電話ではなく、というか当時はポケットベルからピッチそして携帯電話、と目まぐるしくモバイルが日進月歩しておったためそもそも、ランドセルみてえなのか牛乳パックみてえな携帯電話しかなかったのだが。とまれ、私が持ち歩いていたのはミニディスクウォークマンとマイク、であった。



 ミニディスクウォークマン。登録商標であり、プレイステーションと併せてあすこの会社がどれだけ市場を独占し、かつ利益を得ていたのか。私は知らない。知らないけれども、ミニディスクウォークマンを知らぬ世代もあろうけれども、興味があればお手数ですが検索ボックスへぶっこんでいただきたい。これは二十世紀最後の頃のお話である。



 私は録音するのが好きだった。バンド活動を録音する、或いは多重録音するのもたまらなく好きだったのだが、ビデオカメラよろしく日常を録音するのもお好きだった。ですので学生生活という日常、突如マイクを向けられた少年少女たちは渋々訥々と語り始めるのだが、話の上手い奴は上手い奴でよろしくて、しかし、お話の不味い奴もいま聴いてみると相当に面白いのである。そういえばその後、ドキュメンタリーにも傾倒してゆくのだった。



 ともあれ私の録音好きは上京すると加熱して、その頃すでに二十一世紀を迎えていたのだが電車の音、空き地の音、雨の音風の音雷の音、あらゆる音を録音する録音魔と化していたことをここに、告白せねばならない。白状する。しかし「可愛い娘(こ)の声を録音してえなあ」みたいなのは、なかった。何故だろう。



 それは簡単で「音楽的に面白くなかったから」に違いない。可愛らしさとは平素、断面的には語られない。指先が可愛い、髪のつやが可愛い、履き潰している踵が可愛らしい、そのように私はフェティッシュになれなかったので、顔面の整った女性にマイクを向けることがなかったのだと思われる。尾篭な意味ではマイクを向けたいと思っていた、可能性は否定しない。だって男の子ですもの。



 十年前は私も精神がぴちぴちしていた。いまは脱法ハーブみてえにかさかさである。みたことはないが、ぴちぴちしたハーブを入手するもの維持するのも吸引するもの難儀であろうから、きっとこかこかに枯渇しているんだろう。青々としたのをすり潰して胸許に塗ったり、煎じ詰めて経口摂取したり、そんなことしてないよね?



 ここまでのお話は、私は音楽好きが嵩じて録音魔になった。そして録音好きが嵩じて日常の音声に現代音楽めいた価値を覚えるようになった。そして更に手ずから録音した風、雨、雷、電車、雑踏、あらゆるノイズを愛するようになった。当時私が下北沢で購(もと)めたぴっちぴちのパーカーにはまさしく〝I HATE MUSIC/I LOVE NOISE〟と手刷りされていた。と、ここまでが前回までのお話である。





 私は人並以上に音楽が好きである、という自負があった。それは勉強熱心なのもさることながら、ここまでの話をつらつら書き連ねてきたというのも、根源的な要素を愛することができるのだから好き、という感情としてはなかなかのものである。そのように自己評価していたのだったが、通り魔よろしく鼓膜に寸鉄突きたてる出来事があった。



 私は人並以上にライブが苦手である、という自負があった。それは人ごみで自分を喪失してしまいそうになる恐怖感、自尊心と同等のふり幅で跳ね返ってくる自信のなさ、十把一絡げの銘々に勿論自我があり思考しており自尊心があるということ、それらがまさしく我を忘れてステージ上に心身深く注視している、損をしても脊髄反射で拒否してしまう同様の馬鹿になって踊るということ、一周してやはり、忘我できない弱さが私を金銭的にもライブという儀式から、ミサから、ギグから遠ざけているに違いなかった。



 野音で昔くるりを観たが、みな一様にTシャーツを着用し美大の学生みてえな自尊心を全面に、前面にふたつぶる提げて少女たちが、けっこう可愛らしい、汗に溶解した香りが弾けてどきどき、いますぐモッシュピットに身を投じたい……とは、ならなかった。ライブとは冤罪の反対のひとにとっての満員電車ではないのだし、彼女たちは自尊心の割りに音楽に詳しくなく、自尊心の一助としてかかる野外にいることが知れたからだ。



 合同コンパニーに参戦したことのない自分にとっては、特に野外ライブのそうした側面はまるで大正の乙女よろしく「ケダモノ……!」みたいな純真が、当時アジアの日本の江戸川区の南小岩にはあったのだし、事実『はいからさんが通る』を熟読していたのである。マリンカ……!



 そんな私にとって、故郷とはいえ北海道のど田舎で夜通しライブを観る、なんてのは乱交パーティーか、黒魔術のミサか、ライジングサンでしかなかった。大学には軽音楽部があり、私は当時そこに所属していたのだがそこの友人がゆく、と聴いた。更に私と同じく北海道から上京した友人もゆく、と聴いた。だから私はそれぞれに黙って帰郷し、地元の友人を誘ってライジングサンにゆくことにしたのである。



 約束の地で、友に逢う。それはいささか芝居がかった演出であるけれども、たしかにその後十年を経ても彼らとの交流は続いてるのだから、あの音楽とは全く関係のないどうでもいいようなサプライズもいま思えば意味があったのかも知れない。とは云うものの、私はなにしろ大正ロマンなのであるから、相当なクエストであると云わねばならなかった。





 北海道の夏は涼しい。だが、山間部は寒い。しかも夜ともなれば極寒である。夏とは思えぬ着衣を選ぶべきであったと私はすこぶる後悔し、ぶるぶるになり幾つかのステージを巡回した。大学の友人には『忌野清志郎&矢野顕子』あたりでひとりみつけ、メインステージで峯田が転がり廻るあたりでもうひとりみつけた。一緒にサブステージの『元ちとせ』を片耳で聴いて、しかして癒されていた。



 上京組の友人とは別のテントになっているステージで逢った。ステージでは『横山剣』がくるぐる廻り、彼も楽しい道中だったらしい。遠くでは『レンチ』の声が木霊(ディレイ)して、私もひとつくらい本腰を入れて観て帰らればならない、それがきっと思い出となるのだ、そうだ、と大正から明治くらいの革新的な気持ちでメインステージへと一歩一歩足を踏みしめていた。みてやる。間近でみてやるんだ。俺は、私は、僕はモッシュピットにこの身を投じるんだ、同じ馬鹿になるんだ、いくぞ。



 太陽を盗んだ男、みたいな平成の乙女になって私はとうとう行列に並んだ。やるぜやるぜ、俺はやるぜ。アルゼ、って大工の源さんだったっけか、それとも熱血硬派くにおくんだったろうか、やったろうか、やってやろうかモッシュってやつをさ、やるぜ俺は、ダイブするぜ、合掌しながら仏頂面して大仏になるんだぜ、そういえば民生が何回も登場したものだなあ、スカパラのところでもでてきたのだよなあ、にんげんだものなあ、ぐぎぎ。



 ほぼ最前列、犇(ひしめ)きあうひとびとの渦中に私はいた、ステージに一条の光。そう、登場したのだ。
『井上陽水』が。



 モッシュピットの面々はぴくりともしない、音楽がやけに静かだったからだ。照明は緩く絞られてステージでは『傘がない』が演奏されていた。田舎のひとには理解できないと思うのだが、都会では自殺する若者が増えているのである。そんなことはどうでもよくて、歓声ひとつ上げれば個体を特定できそうなまでに静寂とした、その曲の一番が終わる、と思うやギターのフィードバックがフェードインしてきて、しかもそれは加速度的に音量を増してあかたも耳をつんざくが如く轟音で以て、ギターソロが始まった。



 緊張と緩和、静と動、前ふりと落ち。ひとつの事柄が配置ひとつでこんなにも際だつものかと思えるほど効果的に、その効果のほどはご覧、隣にいるいかついでかい、たぶんレンチの頃からモッシュピットに居座っていたみたいな鼻ピのハードコア野郎がぽかん、と口を開け放って指弦されゆく電気ギターを仰いでいるではないか。



 いいものをみた。近くで。私はほくほくしながらしかし、肉体的には極限にまで磨耗してメインステージを離れた。坐りたい……。私を連れてきてくれた地元の友人は、ずいぶん前に車のなかに蒲団を敷いて熟睡していた。きみはなにをしにきたのかね。しかし運転の疲労もあったのだろう、我輩は無免許である。
 免許はまだない。



 疲れ果てて私は最果ての会場にたどりついた。そこでステージは極ちいさく、楽器はみあたらず、傍らでは酒を販売しており私はビールを所望した。BPM150程度の四つ打ちが鳴り響いている。オーディエンスが犇いている。だが、私はここで苦手意識をちくとも発動しなかったのである。



 どうしてなんだろう。みれば、眼前では酒、以外のものも摂取しているかもわからないお嬢さんがばっきばきに踊っている、独自の、独特のステップで。しかしながら、忘我に違いないのだが、視線はステージとは異なる違ったステージを観ていることがありありと知れて、かつ、そんなに踊っているのにまるで座席があるみたいに決まった範囲でしかばきばきしない、のである。



 ひとに迷惑をかけてはいけない。
 私はきっと、大正時代からそう思っているのである。ライブにゆくと「むしろ家でごろごろしながら聴きたいわ」と思ってしまうのは、ライブ会場のオーディエンスが私のごろごろ感を阻害している、と主観的に考えてみれば辻褄があう。ですからいつもはヘッドホンに大音量で好き勝手しているのだが、野外で周囲に孤独を感じるか感じないか絶妙な感じ、で好き勝手に聴けるというのは楽しいものだと、やっと私はライブという儀式のミサのギグの入口にたったのらしかった。



 黎明。つまり、夜が明ける。この夜明けを待つという行為がライジングサンの由来なのらしいが、誰も彼もみな音楽を聴きにきているはずである。進行が押し、大とりはメインステージのみで行われ、北海道なのにステージ上では『THE BOOM』が『島唄』を唄っていた。どうもおかしい、はじめから周囲は漏らしていた。



 まず彼らがステージに登場したときから空気がぐにゃり曲がり、MCであるところの「とうとう一緒に朝を迎えてしまったね……」なんか薄目でアンニュイに、の時点で周囲からは「おい、やべえぞ」「あいつぜってえキメてるよ」ざわざわ感が上昇してゆき、そしてアンセムであるところの『島唄』である。



 ざわ、ざわ、ざわ。
「おい、〝でいご〟って二回云ったぞ」
「二回云った……」
「なんで二回云ったんだ? 〝でいご〟って」
 三線(さんしん)からスルド(太鼓)まで、つまり沖縄音楽からサンバまで広い音楽性同様にあらゆる楽器を操る宮沢氏が、唄いだしとなる部分をやけに間を置いて、二度、ア・カペラで歌いあげたのである。



 でいごでいごの花が咲き、風及び嵐がくるかも知れないのでみな、早々に帰宅した。これが私の長過ぎる、エヴァンゲリオンくらい長過ぎる夏のクエスト。一生忘れられない夏になるね、「今日は熱帯夜、身体が火照るの」沖縄の四人組はイエモンのカバーか、渋いね、と思ったら違った、というのも携帯電話がカステラぐらいでかかった頃の思い出。



 おい、いったいいつのクエストの話をしてるんだ。そろそろ新しいクエストの話をしようじゃないか。というひとには、五月六日に勃発する『文学フリマ』というイベントが、魔界塔士sagaくらいの難易度とシステムで、おすすめなのである。







山本清風のリハビログ リターンズ-文学クエスト
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 たとえばここに、
「男のひとってなんでいつも『バナナブレッドのプディング』を解釈したがるんだろう」
「『バナナブレッドのプディング』読んで、自分は少女漫画を理解してます、みたいのが一番たちが悪いのよ」
「『バナナブレッドのプディング』には女性にしかぜったいに解らない感覚が描いてあるのに」
 と、云っている女性がいた、とする。



 私はひねくれ者なので、つい反射的に「本当にそうだろうか?」と考えてしまう。男性がおんなごころを解さぬのは当然ではあるけれども、男だって少女漫画を読みたいし大島弓子さんの作品でも、思春期のジェンダー揺らぐ季節にある少年が同性に恋をし、女装して、彼のあとをつけまわす女の子たちのなかに混じって「この気持ちが、彼女たちのいだいている恋心とどれだけちがうものか、ためして」みたいと考えたりする。



 おかまではないのだ。ではどうして男性は『バナナブレッドのプディング』を解釈したがるのだろうか、それは前回書いたようにヒント(めいたもの)が多いからではないかと思われる。ライナスの毛布、ドッペルゲンガー、精神分析、心理学、そのような興味だけでも読み切ることのできる作品であり、それら知識があれば逆算することで物語を読み解ける、気がしてしまうから。同時にこれらファクターは〝深読み〟とも同義であるから、論じるにはちょうどいい作品ということではないだろうか。



 私自身この作品のタイトルはぴちぴちしていた頃から聞き知っていた、気がする。それこそレビューだとか心理学関連の本で読んだに違いない。しかし、得意満面で『バナナブレッド~』を論じている男性というものに私は遭ったことがない。それはそれは不快なものだろうし、私のなかで『バナナブレッド~』はそのまま吉野朔実という語に置換できる。それは、相当うざいに違いない。



 では『バナナブレッド~』には女性にしか解らない感覚が描かれているのだろうか? たぶん、描かれているんだろう。私は男なので解らない。解らないけれども、不可解な言動をする役割を与えられた主人公の行動逐一を、女性だからといって理解できるとは云えないだろう。例えば私には弟がいるけれども、妹が姉に、或いは弟が兄に対して抱く尊敬、恐怖、憎悪、愛情、規律、エトセトラエトセトラを、私は兄であるゆえに「完全に理解しているよ」とは、明言してはならないと思うのである。そのようなわけで主人公の思考の根幹を成す部分を私は、想像こそすれ完全には理解できない。



 或いは、化粧をした姿を男性にみられて
「お化粧なんて人に見せるもんじゃないのに!」
「ヌードを見せたんじゃないんだからさあ」
「ヌードよりも露骨よ、髪に花つけてくちべにぬってほおべにつけて、自分がいや!!」
 と泣きぬれてしまう主人公なのだが、これは「髪にジェルつけてリップクリームぬってエアマックスはいて、自分がいや!!」という男の子の思春期に於ける羞恥心に置き換えてみれば解らない気がしないでもない。だが、女性にしか解らないのだとすれば〝いつしかそんなことも恥ずかしくなくなる自分がいや〟ということなのだろうか。私はデートに誘おうとすると心臓が破裂するので弱音を吐き「そのうち鼻糞ほじくりながら誘えるようになるよ」と云われて非常にショックだったのだが、すでになにか間違っているのか?



 私がまず思ったことは、〝化粧をした姿が裸身よりも恥ずかしいとは、男性にとって理想の女性像めいている〟つまり処女礼賛についてであり、男性が女性へ勝手に抱いている願望についてなのである。はっきり申しあげて〝化粧をした姿が裸身よりも恥ずかしい〟とは女性だからと云って理解できるわけではなくて、少女漫画的なモノローグと、エキセントリクスとしてのモノローグを読み分ける必要があるのではないか、という指摘だ。



 その解釈に於いて『バナナブレッドのプディング』はエキセントリクスの物語でもあるので、女性にとっても〝解釈はできるけれど理解はできない〟文脈を含んでおり、「女性じゃなければ」という言葉には独占欲と共犯意識が感じられる。つまり〝わたしたちにだけは解る『バナナブレッドのプディング』〟という選民意識とは、初手で鼻についた「おれには解るよ『バナナブレッドのプディング』と吉野朔実」という鼻持ちならない自意識と同じ臭気を放っており、ここで『バナナブレッド』と吉野朔実と『赤色エレジー』とつげ義春とついでにエヴァンゲリオンはグランドクロスよろしく串刺しにされて、つまりは近親憎悪ではなかろうか、との解釈に至るのである。



*



 こんなことを考えながら読みすすめるうち、よしながふみさんの対談集『あのひととここだけのおしゃべり』の各所で語られるウーマンリブについて、なるほどそういうことか、と膝を打つことがあった。『きのう何食べた?』も『大奥』も実に面白くて、同時に、実に男性的なのである。



 なにが男性的なのか。これは私は大嫌いなことだが、本質ではなくて社会的な側面としてジェンダーを考えたとき、非常によしながさんの漫画は男性的に思えたのである。実用性があり、ひきがあっておちがあり、誤解を恐れず有体に云うならば、お金に直結している。その感触の最たるものが安野モヨコさんで、ドグラマグラの登場人物から命名した彼女のたちふるまいその一切が金に直結しており、露骨で、個人的には苦手である。物語には金銭に左右されない座標軸に、理想としては、あって欲しいほうである。この時点で男性の本質が実は女々しくて夢々しいことが知れると思うのだが。



 よしながさんの作品で私が個人的に凄いと思ったところは、冷酷なところである。冷酷。歴史を背景にして、畸形を描く。料理をテーマにしてレシピを描く、同性愛を描く、眼鏡キャラを描く。冷酷でもなんでもない、真摯なのだ。まっすぐなのだ。わかるのである。しかし手塚治虫のようなまっすぐさ、例えば発狂を描く内臓を描く性を描く、これはもう感覚でしかないのだが、その理由が〝仕事〟であるときに私は男性性を感じるらしいのである。



 そのため、例えば同じ発狂・内臓・性を同じぐらいのデフォルメで描いていても、赤塚不二夫にはなぜか女性性を感じてしまう。或いはもっと露骨に男性の願望が描かれる吾妻ひでおさん、もっと最も露骨な山本直樹さんにもどうしてだか私は、女性的なものを感じてしまうのだった。私は病気なのだろうか?



 これのひとつ解釈として、社会的に役割されたジェンダーというものが挙げられるのである。それら表現のトリガーが〝仕事だから〟であったときに、どうやら私は冷酷さを感じ、女心めいた頼もしさを覚えるようだ。よしながふみさんの漫画には、そんな胸板の厚さを感じるのだと私は考えた。



 同時に考えたのは、社会的に役割されたジェンダーとしての女性性。これは唾棄すべき、旧世代的なしかし未だ根深く息づいている、差別とも思える女性性に違いない。家の内側に居ると書いて家内、奥方という意味である。女は家にいやがれ、べらんめえ、というわけで働きたい女性としては憤懣やるかたないのである。が、働きたくない女性にとっては「女は家にいやがれ、べらんめえ」が頼もしく聴こえてくるから不思議だ。そして更には、働きたくない男性にとっては羨ましく聴こえてきてしまう、のである。



 そう思うと、働くことの如何にも辛そうな漫画家、しかも働くことから乖離している漫画というものにだんだんと〝社会的に役割されたジェンダーとしての女性性〟が浮かびあがってきやしないだろうか。浮世離れした漫画、と云っても非現実を描けばそうというわけではなくそこはセンスの問題で、どんなに非現実で西洋で或いは二次元であっても、地に足の着いた浅はかな願望であるとか、金銭の問題から離れられない作品は佃煮にするほどある。そういうものは詰まらない。少なくとも、私にとっては。



 だから私が『バナナブレッドのプディング』に胸躍らされたのはその、労働の義務から解放されたような、或いは守られている、心地いい非現実にではないかと思うのである。日常遣いの台詞なんてものは無用であり、社会生活に於いてゆっくりと考える暇のない、むしろ唾棄すべきものとされている問題や恐怖を、思春期のように全身全霊で思考することのできるよろこび。思考することのできるよろこび! 漫画っぽく書くと。



 だから私は、正直に云えば羨ましいと思ってしまったのである。「だから男には理解できないって云ったのよ!」と云われそうなのだが、おたがいさまである。女の子だってスラムダンクを男の子がどきどきした切断面で読むことはできないと思うから。



 そして五月六日(日)の第十四回文学フリマ用の原稿を、入稿した。一度電話が掛かってきたが恐らく問題はなく、恐らく傑作になってしまった。今回表紙のため西村愛画伯に筆を執ってもらい、装丁としてもゼロ年代の印象派(的に解釈することもできる)としても恐らく、傑作になってしまった。夜が明ける。わりと精根尽きていて、締めのことばが思い浮かばない。ので、傑作を添付して今日はおしまい。







山本清風のリハビログ リターンズ-菌 くらびら
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 というわけで大島弓子さんの『バナナブレッドのプディング』を読んだ。



 私が読んだのは白泉社文庫版で、表題作のほかに『ヒー・ヒズ・ヒム』『草冠の姫』『パスカルの群れ』が収録されている。総合的には『パスカルの群れ』が一番よくて、個人的には『草冠の姫』が一等よかった。私は、「男性とは桐子(きりこ)のような女性が抗いようもなく好きである」という幻想を抱いているのである。



 わたしは三浦衣良(みうらいら)
 イライラの衣良と申せましょう



 じわじわくる台詞である。私は石田衣良、イライラの衣良と申せましょう。正鵠だ。正鵠を射ている。刮目しろ。悪口の、文章ではなかったはずである。これは悪口でもなんでもなくて、誰も得しないオマージュなのである。衣良の外見は月野うさぎに酷似しており、もしもオマージュだとしたら武内直子と冨樫義博と三石琴乃をみる目が変わる。本人曰く「猫の耳が発想のもと」らしいのだが。



 個人的に云えば彼女はふつうの女の子、思春期の。なのだが文脈を追うとどうやらエキセントリクス(変わり者)なのである。つまり吉野朔実さんが描くテーマの原型でもある。男性はわりと吉野作品が好きである。それは男性が読む少女漫画にしては〝感情移入すべき部分が多い〟から、かも知れない。無論女性ではないのでおんなごころは図りかねる。しかしながら精神分析モチーフを含むサブカルチャーに彩られているため、その興味が牽引してくれるのだと解釈できる。つまりそこでは移入される感情とは人物ではなくて背景、なのである。『バナナブレッド~』もそう読むことができる。



 地下を流れているのがフロイトであれば、あらゆる言動は性に帰着する、という偏見に基づきながらしかし、フロイトの精神分析に置換してゆけば少女漫画を解さぬ男性でも解釈ができてしまう、というわけである。本当にそうなのだろうか?



 と、石を投げかけたのはよしながふみさんである。『あのひととここだけのおしゃべり』という対談集は面白すぎて、文字通り一気呵成に読みぬいてしまった。漫画へ対する愛情と造詣の深さにびりびりしたが、多くの場面でつげ義春さんが引用されるのも楽しかった。名状しがたい、プロットでは分断できない物語の面白さを表すときに登場させていたような気がしたが、或いは山と落ちと意味のない漫画と直結させていたか。たしか前者の如く、漫画表現のひと分類として顔をだしていたよう記憶している。



 上手く説明できないのだが、例えば『赤色エレジー』は意味が解らなくても楽しく読めてしまうと私は考えている。青春の蹉跌、清貧と同棲、そう『同棲時代』と近似のテーマを実に解りづらく描いている、と云えないこともない。しかし胸を打たれるものは、プロットでは説明できない部分なのであり、そこが『赤色エレジー』の面白さなのだ、と無理くり説明できないこともない。つげさんも、『ねじ式』以降のいわゆるシュールと呼ばれる作品群はもう、シュールというだけでたまらない、のだとしか云い様のないところもある。かも知れない。



 猫が啼いていたのでお腹を撫でてきたら筆がぶれてしまった。いまはカリカリを食べています。ともあれそういう強引とも呼べる読みかた、楽しみかたで『バナナブレッド~』は乗り切ることも可能なのであるが、よしながさんは、たしか「男のひとってなんでいつも『バナナブレッド~』を解釈したがるんだろう」「『バナナブレッド~』読んで、自分は少女漫画を理解してます、みたいのが一番たちが悪いのよ」「『バナナブレッド~』には女性にしかぜったいに解らない感覚が描いてあるのに」というようなことを、仰っていたような気がする。猫が、細君の眠る寝室へ入っていってしまった。歯ぎしりが、聴こえる。



 潮騒が、聴こえる。どうやら猫は退屈しているようだ。もう引用が曖昧すぎて失礼の領域に突入しかけているため、上記は誰かがそのようなことを云っていた、ということにしたい。そのようにして、今宵は猫がうきうきしているので筆を置きたい。そして、置いた。






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 少女漫画が読みたくて読みたくてたまらない。



 さて、春である。
 唐突にトラブルから解放された私は花見に、或いはブックオフに赴いた。小花美穂さんの『Honey Bitter』を求めるためにである。或いは、『絶叫学級』の三巻を求めるために。『こどものおもちゃ』以来、いや『猫の島』以来、いやいや、『水の館』以来となるが相変わらずの小花節に打たれ思わず背筋が伸びた。



 思春期ど真中、一番多感な時期に浴びるようにして読んだ小花作品。『この手を離さない』『せつないね』『白波の幻想(イリュージョン)』いずれも阿呆(あほ)ほど読んだ。すり切れるまで読んだ。友人に貸すとCDがぼろぼろになって返ってくるから嫌だった。そんな生来の几帳面さから私の実家にあるりぼんマスコットコミックスの実際は、すり切れてはいないし帯すら付いている極上の保存状態ではあるがとにかく、読んだ。



 小花作品は設定が重く、キャラクターはひねくれていて、舞台は大人びていた。背伸びしたい年頃にはぴたりとはまったのだろう、暗くてよかった。そんな小花節は『Honey Bitter』でも健在で「悩むのが趣味なのでは」と指摘され「そうなのかも知れない」とはっとしたり自虐したり、他者とのずれを認識する根暗な主人公が登場する。設定・年代が私の多大なる影響を受けた『この手~』に通じるものがあって、それがため冒頭の「相変わらず」に至るのであるが、懐かしいの一語に尽くせぬものがある。



 小花作品は暗い。けれども、底抜けに明るいのだ。ユーモアがある、暗いことのゆり戻しに必ず笑いがあり、そのふり幅は『ときめきトゥナイト』の比ではなかった。そういえば『ときめきミッドナイト』をたち読みしたのだが、蘭世の相変わらずのいきあたりばったり具合に辟易したが、微笑ましかった。私もずいぶん年をとった。暗い話にばかり、矢鱈詳しくなった……。



 ではなくて、その「悩むのが趣味なのでは」感が私の根幹を流れていて、そこには「ユーモアでしか救済されないものもある」という教訓を得たような、そんな気がしないでもない・いま考えてみると・ともすれば。そういえば『この手~』のラストもユーモアが救済しているので、ユーモアに相殺されるほどの深刻さ、というものをいかに描くかによって物語の強度は増す、というようなことを学んだような、そんな気がしないでもない・いま考えてみると・ともすれば。



 やはり、温度差が肝要なのだ。



 近年、完結篇が収録されてつい震えながら買った『バラ色の明日』だが、いくえみ綾さんもまた思春期に、浴びるほど読んだ漫画家だ。『I LOVE HER』は本当にめがつぶれるほど読んだ。めがつぶれていないのでまだ読み足りないのだが、このひとのことを考えるだけで文体に変化が生じるほど、ことばの選びかたと特に、短編の切れ味が恐ろしいほど冴えている。本当に素晴らしい。名人芸だ。ブックオフで腰からくずれ落ちた。



 文庫になっていた短編集は、かつてどこかで読んだものもあったし未読のものもあった。日進月歩マイナーチェンジされてゆく若者像、とくに女の子の時代性が見事。しかし通奏低音されているテーマは普遍であり、すなわちいくえみさんは〝若さ〟というものを看破しているんじゃないかと慄然とする。漫画だったらここは傍点をふって〝りつぜん〟と表記すべきところだと思う。珠玉である。『潔く柔く』、ちゃんと買って読みます。



 ながくなったから、おわり。





                             つづく






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拙ブログは2004年3月くらいに始まった。



最初に記事は『ぼうけんのしょをはじめる』というもので、
ホームページ運営に飽きた私が当時黎明期だったブログを
時流に乗るのを恥じらいながら書いたものだった。



書店アルバイト中に発見した〝アメーバブログ〟は
現在のように「芸能人ブログといえば」ほどに隆盛ではなく
またアメーバというのも気色が悪いし、怪しいし、
プレステではなくセガサターンをあえて買った自分としては
決して主義に反していないと考えたのだ。



当時のランキング判定は書けば書くほどに上昇し
ゲーム感覚も相俟って非常に貴重な時間を投入したものだ。
だが、それは思い出ではあるけれども今回の論旨ではない。



このブログのURLには〝rehabilog〟とあるが
これは恐らく、リハビリとブログからなる造語だろう。
これまで幾度となくタイトルは変遷してきたが
ここはいつでもリハビログだった、というわけだ
このやろう。



べつに、怒ってなどいない。
あれから幾歳経たけれども私は、いまこそ、いやいつでも
リハビリが必要なのだと想到したのである。
リハビリ精神、みてえなものがこの社会を生きるうえでは
つねに通奏低音しているべきであると、そのように。



これは私が会社勤めするうえでも、あるいは文章を
書き続けてゆくうえでも必要な精神であって、
「自分はまともだ」なんて自己評価はいつだって
犬に喰われるべきものであると、そのようなことを
当時の自分は考えていたはずなのである。



確かに社会にでてみて解ったことは
学生時分マジックマッシュルームを喰った私が
余程まともな思考をしているのに対し
社会はらくをしようとし、他者を欺こうとし、
搾取しようとして、汚らわしいとさえ思った。



しかしながらそれが普通である以上は
まともという言葉は即ち、汚らわしいということだ。
いつだってひっくり返される可能性がある。
だから私はいつでもリハビらねばならない。



社会から文学へ帰るため、
文学から社会へ還るそのために。



これは自虐ではない。
これは物語ではない。
これは事実ではない。
これは革命ではない。
このやろう。



べつに怒ってなどいないのだが。
ちなみに下記はブログを始めた時のステータスと、
現在のもの。成長しているのか?





$山本清風のリハビログ リターンズ-せいふう-ステータス
$山本清風のリハビログ リターンズ-せいふう-とくしゅ
$山本清風のリハビログ リターンズ-せいふう-ステータス2012
$山本清風のリハビログ リターンズ-せいふう-とくしゅ2012
$山本清風のリハビログ リターンズ-リハビリ
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 ひとは恋をする、実に多くのひとが。そのため恋にまつわる表現一切はまこと多く、それはポップであることに逆説される。だから私も恋の物語を紡ぐことができるし、するかしないかはともかくとしてできるし、多くの物語は大なり小なり恋の要素をはらんでいる。ここまでは、よろしい。



 そのようなひとびとにとり、思春期のころの恋を追憶することは胸を切なくさせる行為だろう。そこには喜びも悲しみもがあり、思春期特有の価値でゆけば生も死もがあった。性もシモもあったろうが。これが、三十路のユーモアなのか。



 だが、私にはなかった。なぜと考えるに特段、中学から高校にかけての自らの恋をふり返ってみるだにそれは、やはり恋愛ではなく恋なのだった。一方向からの想いつまり片恋、両者互いに合意しなければそこに愛はないのだから、ただ恋焦がれて想い焦がれていたのである。そのときのことをつら、と追憶してみる。



 まず、憧れがあった。触れられない触れてはいけないものへの憧憬、身のほど知らずゆえ一方的に想い焦がれている。と、これは実に不毛ながらもホルモンの悪戯と恋の初期衝動であって、もしも叶っていたならいまの人生はなかっただろう。そのように大切であるけれども叶わぬことを前提とした通過儀礼、女性からすると「勝手に解釈するな」とうざったらしい男性特有の夢々しさもまた、これである。



 そんな季節を経ると今度は、損得を考えるようになる。というのもホルモンの悪戯かはたまた周囲への対抗意識か知らぬが、性欲がりんりんに増強されてしまうのである。夢中、それは苦しい。ここにあるのは前述の憧れではなくて、むしろ真逆にある感情が働いており、触れようと思えばいつでも触れられそうなものに惹かれてしまう、ひと押しすれば強引にゆけば後方へ倒れそうな女性性。傷つく側から傷つける側への転嫁。男性性の発露とも云えるかも知れないそのような季節のこと。



 損得、という言葉えらびは不透明だろう。だがこう考えてみて欲しい、周囲の友人がどんどこ売れてゆくバーゲンセールでひとり、ワゴンにとり残されているという焦燥感。そしてみんながスーファミをプレステを持っているのに、わが家だけ導入が遅れている。次のクリスマスを待たねば買ってもらえぬのだが、自身はアルバイトをしているため中古ゲーム屋で求めることができる、だが更に逆接して親は家庭の方針から自室にテレビを置くことゲーム機を置くことを禁じている。そこへ生じる反抗心、自立心、はやく大人になりたい年頃が、服を着て歩いている。



 憧れの対象であった少女に比べればまこと会話するにも気兼ねしない、そのような少女へと当人は知らぬうちに心が移り、赤札がついているのだからいま買ったほうが得じゃないのか、と移ろいがちの心は弱く、ぶりぶりに揺れている。損得で恋をおとしめている。かつての自らの想いに泥を塗りこめている。



 このような転機に少年たちあるいは少女たちは、小学生の時分ばつぐんに面白かった特異なる発想をぶち捨てて、恋に向かう。それは当然なことだ。冒頭に書いたようにポップということだし誰に責められるものでもない「だって、みんなやってるじゃん」と凡庸を背後にした時点で、常識を理由に自己を正当化した時点で、ここまで損得云々を伝えるため連ねてきた事柄を読んで明白なように、普通のひとになる。もしくは、なれる。命短しとは、明日のわが身も知れぬ時代の歌ではなかったろうか。



 私はどうだったろうか、童貞だった。思春期とは恋の切断面で云うならば、道程をまさに息せきかけて駆け抜けている最中であった。なぜか。それは私があまのじゃくだからであるそれは私があまのじゃくだからである。それは私が、あまのじゃくだからである。



 あまのじゃくとはどうも「私がこうありたい」という願望ではなく、骨の髄から湧いてきているようでつまり、私は心にあまのじゃくの源泉を持っているのである。めんどくせえやつだなあ。だがめんどくせえやつが自分なのだから仕方がなくて、そうとうに嫌なら切腹するしかない。私には葉隠理論が導入されていないので、それはしない。あと自ら死ぬのならそれよりも、死ぬ気でなにかやってみたいほうである。



 どうも筆が横滑りするが、あまのじゃくの私は三次元で録画したときにきっと、このようにふるまっていたに違いないのである。つまり、憧れの相手に対してへらへらとし、ビッチに対して純情になった。動作がテレコしており、友人たちは「清風はいったいなにをしたいのか解らぬ」「言動がおかしい」「はげかけている」など好き放題に云い、女性のほうとしても困惑極まりなかっただろう。



 結果現在があるのだが、私はこれでよかったと考える。つまり憧れの恋、あるいは損得の恋が結ばれていたならば、私は私が根本で唾棄すべきものと考えている思想に、囚われていただろうと思うから。負け惜しみとかじゃなく。高校時分、想いを寄せていた損得のほうの女性をふいに追憶して、こう思ったのだった。



 高校卒業後すぐ上京し、しばらくしてから地元の友人に「俺、○○ちゃんに手まんしたさ」と持ったばかりの携帯電話で聴いたころには、鼻孔の堆積物を除去しながら聴いていたのだから思春期の恋はあてにならない。統計学的にも、最初の恋が実りかつ永続することは稀であるし、それが叶ったときには大きいほうは映画化、小さいほうでも再現VTRになるほどの代物なのだから、何事もなくてよかったと現在の私は考えている。



 ちなみにどうしてそんなことを思いだしたかというと、人気のある前田さんが○○ちゃんにちょっち似ているからで、黒髪と頬骨、というよりもモンロースマイルの背後にある捨て身みたいな性に私はこれら着想を得た。モンロースマイルとは、書こうと思ったのだが紙面が尽きそうなのでググって欲しい。あと思いだすのは帝拳の前田さんだが、得意のアッパーカットが決まったはずなのに、倒れない鬼塚はあろうことか、口腔の出血をごくごくと「あいつ、血を飲んでやがる……」なにやっちゃられら、というわけなのだがそれを世界へ向けて発信するのは私の倫理が咎めるので、書かない。



 もし書いてあったとしたら、それはあぶりだしである。





 ―――斯様なる文章がちょうど二か月前にしたためてあったので、種々の隙間を縫って投稿してみた。松任谷さんが「男はいつも最初の恋人になりたがり、女はいつも最後の愛人でいたいの」と皮肉とも、ある種の貞淑ともとれそうな挑発的なことを唄っていて、私は思いだすといつも「そうかなあ」と思ってしまう。つまりまんまと挑発にのってしまう。



 だが、いわゆる大局的な〝恋愛という宗教〟を考えたときの、最大多数のつぶつぶとした種がみえる切断面だと思えば、自分にはもうさらさら関係のない話だから思考停止してもよいわけなのだが、それでも一瞬身構えてしまうのは恋愛がそれだけポップであることを物語っているだろう。



 友情と恋愛という狭間で「局部さえなければ」と苦悩する友人の気持ちは解るけれども、人間を三十年以上していればもう、そんなことでは悩まないのである。それ以外の問題については熟考できる彼らあるいは彼女たちにとって、友情と恋愛との間を揺れることとはきっと、私が飲酒することに似ているかも知れない。酒をひと口呑む。ふた口呑む。三本缶を空ける。まだ「今夜は文学してやろう」という決意で燃えている。四本目に入る。五本目を買いにゆく。まだ「今夜はとことん呑んでやろう」という決意で燃えている。人生のとある一夜が酒の名のもとに於いて蒸発してゆく。



 だがしかし、これが癒しだというのである。毎日そうではない、毎夜そうではないのだよ、とそのわりに食事するといつも酒を頼んでいるようだが、年齢の所為もあろうか最近はちょっとでも呑むとだるだるに弛緩してしまう。だるだるに弛緩してしまうけれども私は、友情と恋愛を混同することで起きる〝めんどうくさい〟に比べれば、げっ歯類くらい可愛いものだと思う。可愛いものだと、知っている。



 だから「常に考えること」を訴え続ける私だけれども緊張があれば弛緩が必要だと思うし、ただそのだるだるが他者と相対するときに発動してはいけない、そう思う。それは教科書めいているが、実に世のひとが黙殺している「他人に迷惑を掛けない」ということ、それに尽くすのである。



 他人に迷惑を掛けたことをふと思いだす夜ほど辛いものはない。そして伝家の宝刀である〝めんどくさい〟が、人生経験によりランキング作成されてゆくなかで、弛緩すべきタイミングを自ずと算出するだろう。それまでは恋愛と友情を穿き違えたり、漫画好きときいたので小花美穂について小一時間ほど語り、ひかれたりしなければならない。






posted by rehabilog
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 一本の電話が鳴る。と、そして私小説は壮絶なものになってしまう。
 そんなことさえもこのときの私は、まだ知らない。


*


 顛末から述べれば、叩き割られた鏡は騒音と破片とを撒き散らし、床をきらきらにした。または指をざくざくにした。或いは引越業者は大雪で六時間も遅れ、騒音と組合長からの苛烈な叱責を招いた。入居した早々に目をつけられた。
 ここまでくると、幾ら鈍化した鈍感の私でも流石に解るというものである。



 またか、と私は思う。また知らないうちにそうなってしまったかと、胸にしみじみ溶けだすものがある。壁につっ伏して数をかぞえているうちあれほど騒がしかった級友たちが、友達だと思っていた面々が跡形もなく、消え失せている。私は彼らを探すもやっとみつけたと思ったら、私を黙殺して一目散に壁へつき刺さってゆく。或いは空缶を蹴り飛ばしにゆく。しかもそのことによって、私は半永久的にこの状態であることを宣告される。



 あの残酷な遊戯で私が知ったことは、鬼は確かに異形であるけれども異常なのは、鬼をとり囲んでいる彼らではないのか、というそのこと。狩るものと狩られるものは容易に逆転し、狩られるのはそしていつも脆弱な存在なのだ。私が次に目を開けたときにはいつも、そうなっていたものである。



 或いは教室に於いても遊戯は続く。或る瞬間から呼び掛けは黙殺され、或いは包囲され或いは更に殴打される。閉塞した田舎の事件だと忘れていたがどうやら、鬼を定めるのは人間の習性であるらしい。徒党を組むのが人間のサガであるらしい。寿命を八〇分の一に縮めてやりたい衝動に駆られる。自分だけはそうあるまいと、矜持を尽くして生きてきた結果が、これだ。もう、この後の一文が続かぬほどに虚無が覗いている、私の足許には。



「これも人間のサガか…」



 チェンソーをふりかぶって、神にたちむかう。或いはチェンソーによって一刀両断されるところのロマンシングではない人間の性質。だがしかし最早私は人間ではないのだから、月の瞳ロンロンロンロン、だんだらつのツンツンツンツン、るんるんるるんぶるるんぶるるん。ジプシーよろしく地獄の荒野でも放浪しようか、るるぶ片手に。



 オニとは本来隠れた存在であるはずのものが、遊戯に於いては逆転してしまっている。狩る者、と云えば聴こえはいいが実際は〝隠れられる者〟であり〝避けられる者〟であって、そこに於いて受動と能動はまったく逆転しているのである。民俗学に於いて聖と卑はまるで等価であるごと容易に反転するが、遊戯のオニは持ちまわりだからこそ成立するのであって、もしそのルールが破られたときにはたちまち差別、いじめに発展するということを、ゆめゆめ忘れてはならない。



 ―――いっぽうその頃、環状七号線の立体交叉点では無言のひとびとが打ち眺めている方角から、車と車の間をかきわけ、巨大なひな壇が流れてきたところだった―――



「また鬼にされてしまったか」
 というわけで、この二週間後に発覚したできごとによって二件ほど訴訟になるかも知れない。





 その発想に応じるようにして前方の虚無が、私の顔面に納豆を浴びせかけた。






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