山本清風のリハビログ

神様のエロ本


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 耳寒 (みみざむ)い季節となった。
 相も変わらず私は青を踏むぶむ成長もなく、域を幹して和に理して企を画して退の勤、文学フリマ東京打上会場片隅のテーブルで堆く吸殻を積み上げていたりした。煙が目に沁みる。
「まだいたんですか、清風さん……」
 乳白色の濃霧と見まがわんばかり、とろりとした空気を掻き分けてひとりの男が現れては差し向かい、我が眼前に座るも打上会場の声は遠く、遥か京都あたりからしているような、したような。
「まだ打上は締まらないのかね」
「終わっていると言えばもうとっくに終わっているのですが、続いていると言えば確かに、連綿と続いているとも言えます。まだ打ち上がらないんですか、清風さんは? 2016年も恙なく終わりましたが」
「嘘を申すな嘘を。私は打ち上がらぬ、未だ打ち上がらぬのだ」
「残留思念でしょう、憐れなものです」
 男は葉巻に火を点けて(確か泉由良に貰ったと言っていた)、しかし表情が判然としてこない。別段ハンセン病とかそういうことではない。カーソルが点滅しているのできっと自由に入力する式の顔面をしているのだろう。秋山真琴とも猿川西瓜とも知れず、栗山真太朗かも牟礼鯨かも知れぬ男はいまや猫木國学でも、小泉純一郎でも、或いは死んだ親友の顔すらしているのだった。
「して何が心残りです? 2017年になってもまだエロゲーの話ですか?」
 何が心残りか、だと? 自分が死霊のくせして。「して」は「死」を孕み、末尾には「です」と「DEATH」とがかかっている、とんだ死の舞踏だよ。踏み殺された韻の怨みを思い知るがいい。死をふむぶむ。
「生きろ。(宮崎駿)それに、私はまだ2017年だと信じたわけじゃない」
「星野源が大人気ですよ。アニメーション映画も好調で、底抜けエアラインが復権しました」
「それのどこが2016年と違っているっていうんだ? 文学など、百年も前に死んでいる」
「あ。あとは女の子と『君の名は。』を観てきました」
「それは、2017年にか?」
「いいえ、2016年にですね」
「話にならない」
「歴史とは連続体、連綿と続いているんです。従って2016年は終わりましたがその地平に2017年がありとてもよく似た相貌をしている……。何等、おかしなところはありません」
「感動したのか」
「感動しましたよ。しましたが、という点ですね」
「あれは誰に訊いても最終〝映像が綺麗〟という地点に着地するんだが、2017年でもそれは同じかね」
「興行成績は青天井、いまこの瞬間にも新しい国のひとびとが新鮮な体験している、優れた評価というのは時に、作品の時間を停める/永らえるのかも知れません」
「女上司がいるんだ」
「衒学的ですね」
「彼女がその映画を観た、と。まあこれは2016年の話だが、ネットの情報は限られていて当時公開可能な設定としては、人格交代があった。その時点でなんとも懐かしくも我々には卑近な設定じゃないか。だから、私は言ったんだ『まさか彗星の軌道がリインカーネーションでパラレルワールドのループものじゃないでしょうね』と。すると彼女、ずいぶんに怒ってね」
「ええ」
「『そういうことじゃない!』って、それはすごい剣幕だったよ」
「それは清風さん、〝そういうこと〟だからではないでしょうか」
「やはり」
「人間というのは正論を言われると何故か激昂する生物なんですよ」
「〝そういうこと〟を排除した時、そこに残るのはおそらく恋愛的要素という外骨格だ。少なくとも基準点程度の少女漫画的恋愛プロットがなければ、学生がカップルで観にいくとは思えんからな。逆に言えば〝そういうこと〟という内臓がある以上恋愛プロットは基準点程度あればいいということになるんだが。とまれ妙齢の女上司は恋愛要素をして映画を評価していることになる。だがその恋愛は我々に卑近な超展開を内包しているわけだから、とりもなおさずそれは夢みる時を半ば過ぎても恋に焦がれている女上司の内面を吐露されたようなものだと思うんだ」
 私が東京タラレバ娘に近寄らない理由はこんなところだ。詳細に説明する気はないが、自虐的女性性にも良いのと悪いのとがあって、「わたし、女酒場放浪記に出たいんです」というタイプは後者である。セルフハンディキャッピングの一環としてふるまわれるそれらおっさん化であるとか計算高さの開示は、おそらく自分を維持する理由と、他者から評価を調節したい(いっそ逆説的に高めたい)理由の二種類によって善悪は分かたれる。どちらが善でどちらが悪かは、客観的に考えてみれば明白である。男も然りだが。
「清風さんと話したひとの感想がみんな〝映像が綺麗〟になる理由がわかりました」
「いつわかったんだ」
「いまです」
「何が理由なんだ」
「それで清風さん、『君の名は。』は観ましたか?」
「観ていないし、観ないだろう。『逃げ恥』も観ていない。『シン・ゴジラ』を絶対に絶賛するんだ号泣する準備はできていた、と言って観にいって、その帰途、現代のヒット作は既に自分たちの世代を対象としていないことがありありと解って、帰ってきたからな」
「それはやっとというか、清風さんはもう享受する側ではなく、供給する世代ですからね。テレビがつまらないのは至極当然です。清風さんの世代はそれでなくても貧乏で、吝嗇なんですから」
「あとは、公開直後に彗星の軌道や渋谷駅かな、ディティールの設定揺れが指摘されていたんだけど、そこでまた世代を痛感するわけだ。そんなに観ている方ではないが、自分にとってアニメーションというのは二次元であるからこそ細部に魂を宿す、みたいな認識があって、時代考証であるとか機微、映像に映らないところまで細かに設定されている、現実よりもリアル、そんな頭があったから、ファジーな設定には耐えられないという思いがあった。少なくともジブリやエヴァはやっていたからな。だから渋谷の交差点を走っていたと思ったら場面が変わると、新宿を走っている。みたいな昔のトレンディードラマのようないい加減さは逆に、いまの若者には新鮮なのかも知れない。なにせカセットテープが復権しているくらいだからな。まあ2017年には廃れているかも知れないし、単に細かいことよりもプロットよりも恋愛なのかも知れないが。音楽だって、何回80年代リバイバルが起きているんだか」
「まさにそういうことなんですよ清風さん。我々にとって使い古された、手垢のついた手法であってもこれから体験するひとにとっては、まさしく新鮮なわけです」
「ネットが発達して原典をあたれる時代だというのに、いや、だからこそ取捨選択のまとめサイトが必要なわけか。で、琴線に触れれば原典を当たればいい。一方で情報が乱立しているからメインカルチャーに混入したサブカルチャーが被弾して、一般人の倒れるところが際立って見えるだけで、でも、このままじゃ幾ら縮小再生産とは言ってもソースがなくなっちまうだろう、道理でみんな映像美ばかり褒めるわけだ。そこだけは唯一、日進月歩しているからな」
「クロスチャンネルが全国劇場公開されるとは考えにくいことです」
「そんなことはない。いっそプレイ動画を劇場で二時間観てくれたほうが気持ちがいいし、古参だって大手を振って識者ぶったり、批判したりできるだろう」
 エロゲーで独自発達し、幾星霜くり返されてきたプロットがメインカルチャーに流入していると意識したのはやはり『まどか☆マギカ』で、当時私は片手で数えるほどしかエロゲーをプレイしていなかったが、それでも整理されたプロットと、ゲームとは初手からパラレルの概念なのだから、戦慄に近い既視感があった。懐かしい気すらしたし、ゲームとはここまで日常に浸透したものかという感慨があった。文学小説がああでもないこうでもない、結句文体がいいよね、雰囲気がね、のような右往左往をみせたエヴァ的テーマをワンクールでコンパクトにまとめた『まどか☆マギカ』は、やはり驚いた。AIが書いたセカイ系かと思った。
 しかし遡ってみればエロゲーにしてもオマージュの嵐であるし、ニッチなジャンルで醸造されたものをひょいっと借りてきて権威づけしたり、マッシュアップするなんていうのはよくある話だ。違っていた点は年齢制限があり外部から遮断されていた点、並びに凄惨な想像力を余すところなく発揮できた点、更に性描写が自由だったという点に立ち帰る。性を忌憚なく描くことができたのは医学書か文学しかなかったが、言わずもがな性とは私たちの人生にとり、密接である。
 エロゲーはプロットの強度を上げるためミステリやSFという他ジャンルから手法を借り受けてきた。謎解きは物語の引きを強め、SFは知的探求心や超展開にユーザーの許容し得る設定を与えたが、それは他ジャンルとて同じことである。ライトノベルもそうだし、近年文芸と呼ばれるジャンルではラスト三行のどんでん返しなど売りにしているが、これも本来ミステリの文脈だろう。どれも先人たちの出典も示さずに、思いもよらず、とりあわせの妙のような顔をして売れている。
 そうなると個人的に思うのは、大長編ドラえもんはもっと評価されてもいいのでは、ということ。早過ぎたのかも知れないし腐ってやがるのかも知れないが、ホラーとさえ映るめっぽう引きの強い展開はしかもSFで武装していて、通常のアニメの五本分くらいのねたが詰まっていると思うのだが、如何せん大長編はいつものドラえもんのセルフ二次創作のように映る側面があって、それが大長編にドラえもん以上の評価を与えないのかも知れない。クレヨンしんちゃんとは逆の効能である。
 マッシュアップの勝利で言えば、私はラーメンズを思い出さずにはいられない。お笑いという大前提があって、そこに演劇や文学、ミステリーがいいギャップとして機能している好例である。先人にはシティーボーイズがあるが、自分の皮膚感覚ではダウンタウンとウッチャンナンチャンを足して二で割ったような懐かしさもある。下手につっこむことをせず、むしろ一方がぼけ倒している時の方がおもしろく、その時の放置とは、最高のつっこみである。結句、掛けあわせる他ないのだろうか。
 そう、何も知らない顔をして。
「そうだな……いまがもし本当に2017年なのだとすれば、新垣結衣主演の朝ドラで双子おちの交代があるパラレルワールドのループものなんていうものがヒットしているはずで、しかしそこには少女漫画的メソッドを忘れてはならず、東京ラブストーリーのリメイクでありながらも最終話ラスト三分で展開がひっくり返るトリックがあり、実は兄妹で前世から幾度も巡り逢っていたオープニングに戻る式パターンが必要になる。ここで優勝した要素としては、プロット以外に組紐のような伝統工芸かつアマチュアが安く作れて高くネットで販売できるハンドメイド要素があるといいんだが、2016年に流行っているからこれは、ぽんぽん手芸あたりが妥当だろう。これぞまさしくニッチなジャンルで売れたものをメインカルチャーが掬い上げる構造そのもの。場面転換でのロケ地は非常に鷹揚で、聖地巡礼はすなわち大都市圏となる。お台場を走っていたのにいつしか幕張にいる、という塩梅だ。ディティールの適当なのが近年の流行りだからな。従って撮影中、監督に内緒で散髪してコンビニに入った次のカット、自動ドアが開いて出てきたら極端に髪の毛の短くなっていた明石家さんまが、優勝者だ」
 納得がいかない。この感情に、文学という名をつけてやろう。

 

 

 

 ――腐り姫
   ひぐらし、車輪の国
   その次は?――

 

 

 

「で、結局どうするんです清風さん、その次は」
「車輪の国、悠久の少年少女(ファンディスク)」

 

 

 

 

 

 

 

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「ところで、文学フリマにご意見ご要望はありますか?」
 時に文学フリマ打上会場片隅、荷物置場となっているテーブルのひとつで私たち、顔つきあわせて煙交渉と決めこんでいるのであり、紫煙くゆらせながら文学ともエロゲーとも知れぬ話に徒花儚く咲かせているわけであるが、いつしかテーブルには彼と私、ふたりだけが残されて。
 眼前で文学フリマについて問うのは猿川西瓜か秋山真琴、だと思うのだが如何せん、煙が深く、判然としない。
 思いだせない。或いは栗山真太朗か牟礼鯨であったかも知れない。が、ここでは仮に田西源五郎とでもしておこうと思う。田西源五郎が私に文学フリマについて問うている。と、思う。
「そうだな、もう少し繁忙期を避けて開催してくれたほうがありがたかったかな」
 これは今回、一般参加に限りなく近く委託販売かつ打上にだけ参加している私の意見だというのは一応強調しておきたい。いつもならば文学ジャンルにブースを出展、文金高島田かウエディングドレスといういでたちで参加するところ、病院から抜けだしたままきてしまったため寝間着姿というところに今回の、自分の参加姿勢が表出していると思う。
「11月の祝日に、ということで以前は文化の日に開催されたこともあった。それがまあ暦の都合ではあるが、18日、23日、と後ろに倒れてきているのが地味に効いているんだ。11月も中旬を過ぎれば仕事は完全に年末進行になり、もう少し端境期の開催であれば、特に社会人は出展も来場もしやすくなると思う」
「なるほど。ワトソンに記録させます」
「繁忙期の開催というとコミケが想起されるが、あの年末開催というのは、〝踏み絵〟だと思う」
「試されているわけですか、僕達は」
「そう。年末をコミケに捧ぐというのは相当の覚悟が求められるし、そこで参加者がした決断というのはこれ、大きな意味を持つ。大いに売らねばならないし、買わねばならないだろうと思う、枝葉にまで強度がゆき渡るがしかし、暴力的なる日程だ。その覚悟を〝文学〟の一語に集結した人々へと問うのは少々、酷という気もする」
 文学フリマ大阪は文学に興味がなくとも、周辺住民がぶらり立ち寄れるようなイベントを目指したと以前、上住大阪代表から聴いた。そのため端境期にホームタウンで開催されるのだと。一方文学フリマ東京は前述したコミケ式の踏み絵を踏襲しており、それは望むと望まざると、東京周辺で一定のキャパを内包する施設が限られているからで、現在の会場である東京流通センターの立地とは浮動層を誘引できるほどに交通の便がよいわけではなく、これは致し方ないところでもある。このまま出展数が増加すれば次は幕張メッセか東京国際展示場、と以前望月代表が言っていたが、そのようなわけで立地の不便を叫ぶのならば出展者もまた、協力せねばならない。
 とまれ現状の地の利で本を売るなら、競馬クラスタ或いは旅行クラスタに訴求するということになるのだが、すわプラットフォームでぷらっと駅弁スタイルに競馬旅行文学小説でも頒布したろか知らん。
「間をとって寺山修司本を出すのはどうでしょう」
「それに日程については百都市構想も関係しているから一様にはいかない。文学フリマというナンバリングで同じ月に地方開催が重複するのはできるだけ避けたいところだと思うし、特に東京は中央の開催でもあるし、動員数を共喰いさせるわけにはいかないのじゃないだろうか。まあ重複も華々しく謳えば盛りあがるとは思うけれども如何せんスタッフ、出展者、来場者いずれの疲弊も強いることになる。私も地方出身者だし百都市構想は応援しているけれども、自ら首を絞めている側面が大いにあると思う」
「それは言われるまでもなく、身を以て体感しているところです」
「地方開催が増えれば文学フリマとしての総動員数は無論増えるが、東京開催しかなかった時代には地方から出張っていたサークルが、地方開催のみに留めるなんてところもあると思う。それは来場者も然りであって、今後文学フリマはそれぞれの地域性が色濃くなってゆくんだと思う。一般書店で言れば沖縄は地元ガイドがよく売れる、みたいな」
「清風さんの開催する〝文学フリマ歌舞伎町〟を心から楽しみにしています。それで今回の文学フリマの印象は如何でしたか? まあ午後にぶらり現れてメシだけ喰っていくあなたに訊くのもどうかとは思いますが」
「午後にぶらり現れてメシだけ喰っていく私が感じた印象をひとことで言うと、これは語弊をおそれずに言えば〝疲弊〟という一語に尽くすと思う。理由は前述した百都市構想によるところが多く、こう、ぐるり見回してみても打上に参加しているのが老舗がばかりということもあるとは思うが」
 かつては公式の打上というものはなく個々に打上しており、特筆、雲上回廊の秋山真琴が開催する打上は創作クラスタにとり最大手だったと思われる。やがて公式の打上が催されることになり、二度は外の居酒屋で寿司詰めになり飲んだものだが、以降は東京流通センター付属の会場で行われるようになり、現在に至る。それがなんだというわけではなく、これはただの昔話である。
 ついでに昔話をすれば、私もかつて責任編集を務めた『文学フリマガイドブック』はかつて非公式を謳っており、乱雑に言えば、当初創作小説に対しミシュラン的な格付を行うことについては相当の議論があったと聴いている。つまり非公式ガイドというのは大いなる炎上マーケティングであったわけで、これは大いに売れたし影響力があった、これは現在売れていないという意味ではなく、良くも悪くもかつてのような話題性はない、という意味だと読解してほしい。
 かつての火力がないというのは何も、創作クラスタの意識が低下したわけではなく、ひとつには公式化した、というのが大きいだろう。同じ地平にいる山本清風が良いだの悪いだの言っているわけではないのだ。入場時配られるパンフレットと一緒である。掲載されると聴けばラッキー、というくらいのものだろう。もうひとつには、割と長い時間をかけてガイドは本来のガイドとして役割を認知されたのだと、私は思いたい。長かったね。おめでとう。
 とまれ自分が産休に入ると同時にガイドは公式化したため、私はいまでも非公式の人間だという意識がある。そのため未だガイドに対する残存思念はあって、かつても議論したがガイドもまた百都市構想よろしく需要の数だけ種類が必要なのだろうと思う。歴史、批評、創作に於いても純文学、ミステリ、サイエンスフィクションなどなど、では誰がやるのか、と問われたところで挙手し、非公式を立ち上げた佐藤の中の佐藤こと佐藤は、だから偉かった。これは一見呼び捨てのようにみえるけれども佐藤はサークル名なのであり概念なのであって、敬称をつけることには異論がある。アイドル様やジャイアンさんがそうである。
「あとは若いサークルが増えたなあと思った、新陳代謝しているんだね。少し驚いたのは、夕方になるとイベントの終了を待たず撤収しているサークルが多かったこと。自分は駆け込みのお客さんもいるし、公式の打上にも参加するから最後の最後まで粘ったものだけど、遠方の子もあれば個々に打上する子もあり、ということでなんというか新入社員めいた印象があった。定時になったらさくっと帰る合理性というか」
「残業代がつかなかったり上司に内ゲバの呑み会に誘われたりしていいことないですもんね。清風さんは来年定年だからセクシャルかつパワフルにハラスメントする立場ですね」
「文壇の不良債権と呼ばれた文学、そのイベントが間口を広く構えるべく、文学を定義しなかった。これは思いやりとも弱腰とも映るもので、好いとも悪いとも言い難い。『あなたが文学だと思うものを販売して下さい』そのひと言によって自分は文学フリマに参加したし、結句文学という共同幻想は現在多くの人を養うことのできるジャンルではないとの確認と同時に、出版不況も相俟って、やはり同じ夢を観ることはできない、という現実が結実されてきた時、人は文学フリマを離れてゆくのかも知れない。定義しないままの文学というものと、一応は文学賞の最高峰と呼ばれることもある芥川賞がなんや男前の顔をして、文学という曖昧な概念をひとりのお笑い芸人に結実させた時、マーケットは爆発的に動いた。あの一撃はやはり出版業界を延命させたのだし、と同時に、文学という曖昧模糊としたものをやはり生ける屍であって、死体であるのだと証明した。自ら証明してみせたんだ。ああ、やっぱり死んでたんだ、こんなに腐乱して、って。ぎりぎり権威だけ維持して形骸化したその骨身を曝して、ほらほらこれがあいつの骨だ、なんて高々に掲げた。この手法はあと何回かは成功するかも知れない。良い意味での温度差、僅かに炎上を含むが言及した方が損をするようなとりあわせ、ミュージシャンがノーベル文学賞を受賞した時のような話題性を以て選出される、アイドルや政治家やニートの書いた(或いは書いたとされる)文学小説」
「長過ぎるんですよ清風さん、しかも不毛だし」
「頭皮にいいとされる海外の高級なシャンプーとトリートメントを使用しているんだ」
「やっと質問に答えてくれましたね。先程清風さんは〝疲弊〟とおっしゃいましたが、疲弊しているのは、あなたでは?」
「しおしおに疲弊しているよ。毛髪ももう、二・三本しかない。おばけでもないのに。しかし私は書くし、文学フリマに参加し続けると思う。それだけは変わらないし、それだけしか私に明言できることはない、それだけが唯一確実に私のできることだから」
「長時間ありがとうございました」
 向こうの席ではわいわいわい、アッピールタイムが始まっている。わい。希望者が短い持ち時間のなか宣伝をするというもので、午後にぶらり現れてメシだけ喰っていく私にはチャンスではあるものの、挙手することをしなかった。そのような恥ずべき振舞を臆面なくやってのけるというのは仕事だけで充分であり、或いは逆であるべきなのかも知れないが、私は文学フリマではそれをしたくはなかったのだ。
 望月代表の声がぴんと響き渡り、此度の文学フリマ東京も、文学フリマ東京の打上も終了してゆく。午後にぶらり現れてメシだけ喰っていった私が臆面もなく文学フリマについて書くべきではないのはわかっているけれども、それでも私は書きたかった。


 それでも私は、書きたかった。
 

 

 

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 文学フリマ。正確に言えば、その打ち上げに赴いたのである。
「おや…清風さんではありませんか」
 秋山真琴である。考えるまえに、跳ぶ。着水するまえに、跳ぶ。書くまえに、語る。速きことにその真髄のある、陣形でいえばラピットストリームといった風情の人物である。ただかつてに比しても輪をかけて忙しいはずで、眼前にあるのは精神の五十年以前の肉体のようでもある。
「ない」
「じゃあ僕の葉巻をあげます。で、打ち上げに何しにきたんですか? 出展もせず」
「腐り姫、ひぐらし、車輪の国―――その次は?」
「………!」
 秋山真琴の表情に思考の色とも違う、張り詰めたものが、走る。
 が、それは一瞬で、すぐにまた鷹揚な声へ戻り、即答した。
「それは…『果て青』ですね」
「ほう」
 わからない。わからないが、わからないことを伝える必要は、いまない。人と人がわかりあえぬのは自明であり、確認せずに推し進めることで問題の起きるのが仕事や家庭などの人間関係だとすれば、この場に於いて既に私たちは人に非ず、というかそもそも、ゲームや小説などその場で瞬時に体験できぬものをまあ気持ちはわかるけれど、指先てきぱき走らせてウィキペディアなど速読したところで、なんの意味もない。わからない。そんな時にはただほう、うむ、なるほどなあ、かなんか相槌打ってあとはちんと座って静かにしておればいいだけであって、発言せんければええのであって語り得ぬこと、沈黙することそれ即ちが対象を知らぬ私の罪と罰なのだ。共有することのできぬ、惜しむべきとりかえしのつかない、過去なのだ。

「残忍だよ」

「それって残念の間違いじゃないですか?」

「てっきり秋山君は『CROSS†CHANNEL』と言うと思っていたが」
「それはですね……」
 と、これは彼が言い淀んだのではない。打ち上げの会場から不自然に乖離しているこの喫煙空間に闖入者が紛れこんだためだった。闖入者がゆらり口を開く。
「また、逢うたな……」
 猿川西瓜である。言下、てぃてぃてぃんてぃんと何やら口ずさんでいるのだが、つい先刻まで熱っぽく交渉していた一般参加の女性はどうしたのだろう。どうやら向こうで別の男性といやに盛り上がっているようだが………。
「まだ、果たされぬのだな」
「全部や、全部そらでうたえるわ、それくらい好きや腐り姫」
 なるほど『腐り姫』のオープニングを模しているわけだった。その割には口ずさんでいるメロディーがやけにキラキラしていてつまり違うようだが………。(おそらく同時期にプレイした純愛系のエロゲーと混同していると思われる)とまれ、彼とまだカラオケにいったことはないし決定的に音程の定まらないタイプなのかも知れない。てぃてぃてぃん。
 ちなみに説明すると、彼は私と秋山真琴のやりとりを聴いていたわけではなく、ということは、抜き身でエロゲーの話題を鼻先に突きつけてきたのである。このケダモノめ。
「猿川君」
「なんなんすか清風さん、今日大人しありません? いつもと違うわ。(女性器の名称)とか(関西地方で使われている女性器の名称)とかぜんぜん言えへんし」
「腐り姫、ひぐらし、車輪の国―――その次は?」
「………!」
 猿川西瓜の表情に思考の色とも違う、張り詰めたものが、走る。
 が、それは一瞬で、すぐにまた鷹揚な声へ戻り、即答した。
「『CROSS†CHANNEL』ですね」
「ほらな」
「なんやねん!」
 私の推理はあながち外れていなかった。だが、知らず矜持を傷つけられてというか矜持を傷つけられたことも知らず、薄々気づき始めている猿川西瓜を擁護するわけではないのだが、秋山真琴がすっと助け舟を差し込んできた。笹の葉。
「いやね、『CROSS†CHANNEL』は最強のエロゲーなんですよ。あのゲームで僕の中のエロゲーは終わったんです」
 まだだった。まだこれは、猿川西瓜の台詞だった。叙述トリックは地の文で行ってはならない、これは『車輪の国、向日葵の少女』の灯花の台詞だが、私はどう考えたって完全にさち派なのであり、三ツ廣と呼ばれているのさえ愛おしく第二章で号泣してしまったのだし、腐り姫の糜爛エンドもマスカラが流れ出てパニエがふやけるほどに、泣いた。

 まあウイスキーを舐め舐めプレイしていたというのもあろうがそれでも、松本清張原作『鬼畜』以上『ニューシネマパラダイス』以下というくらいには、泣いた。さち派である。
 そんなことはどうでもいいのである。地の文で叙述トリックを行うのは法律で禁止されているから先刻の演出はただのミスだとしておきたい。ゲームで言えばバグといったところ。つうか私は軽く発狂しているので、『さよならを教えて』式のあえて表示と背景が異なっている演出だと思ってくれればよろしい。

 私だって小学生のひとりやふたり殺しているのだ。
「確かに僕も『CROSS†CHANNEL』以降エロゲーをプレイしていません」
 今度こそ秋山真琴である。言の葉。
「いや、こう換言してもいいかも知れない──。エロゲーは『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』に始まり、『CROSS†CHANNEL』で終わった」
 何やら金言めいてはいるが、どうやら軽く発狂しているのは秋山君のほうらしかった。
「確かに………ほんまや!」
「こっちも狂っているのか」
 それでは『河原崎家の一族』からキャリアを始め、途中『野々村病院の人々』と『六ツ星きらり』を挟んだ私とはいったい、どこでエロゲーを終えればいいのだろう? 遺作?

 

 

 

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 これは私の気の所為かも知れないが昨今、いやに吉田沙保里がくきりとメイクしている雰囲気を感じるのであって、別段、殆どテレビジョンも観なければネットも制限しているのにぽこり挿入される事故的な出逢い、それがばちりメイクの吉田沙保里であるのかも知れない。
 知らない。知らないが、こんなことはないと思うしないと信じたいのだが、アスリートである彼女がしかりメイクをし、それをもしも可愛いと発言する風潮があるとして――。どうして彼女は美容室に通っていることや洋服が好きなこと、オフにはきかりメイクしていることを殊更に強調する節があるのだろうか。なんなんだろうか。
 テレビの演出なんだろうが。アスリートとしての彼女と妙齢の女性としての彼女、そのギャプおもしろいんすよ(まじ笑えんすよ)という演出なんだろうか、だとすれば死ねテレビ。もう死んでいるという声もあるから死体に蹴りを入れるニュアンスで、というよりは生ける屍に銀の弾と金の弾を撃ちこむ感覚で。ポケットモンスター いとし/こいし
 ただはきり明言するならば、動物的な危機回避能力も相俟ってそのような彼女、可愛いと言わざるを得ない雰囲気があることは否めない。だからある。強制力がある。だけど私は言わない。なんで? かわいいじゃんがんばってんじゃん化粧がんばってんじゃん努力を認めなよ? はい、認めよう。
 しかしながらそれはメダリストとしての努力であって、そんなもの私が認めなくとも世界中が認めているところの、努力である。それと比してメイクを努力という名の同じ地平に置くというのはこれ、金メダルも銀メダルもアルミホイルも光ってるよね式の暴力である。でも金メダルでも銀メダルでも六角電波の影響を斥けることはできないし、アルミホイルを持って行っても、質屋の反応はたぶんいまいちである。ポケットモンスター いくよ/くるよ
 そしてこんなことはないと思うしないと信じたいのだが、はきりメイクをしている吉田沙保里をして可愛いと発言する女性がいるとすれば、その前後の状況を慎重に精査した上でまず、「そうかなあ、おまえのほうが可愛いじゃん」を誘発する心理学であった場合の回答はこうである。
「そうだね。吉田沙保里は可愛いね。でもあなたは吉田沙保里よりも可愛くないのに金メダルでもなければ、目から光線も出ないんだね。かなしいね。ふびんだね」
 女は同性を褒めることで自らの優位を示そうとする。男は同性を褒めることによって優位にある同性に属性しようとする。女は異性を褒めることで属性化する。男は異性を褒めることによって性的に鷹揚さを示そうとする。というわけでおまえとおまえで四畳半に入って一生出てこなくてよろしい。子供できたらFBで連絡を。子供に、罪はない。
 

 

 

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 ――腐り姫、
   ひぐらし、車輪の国、
   その次は?――

 

 人と人はわかりあえない。
 これは誰でも知っているが、ではそれをわかり切った上で〝わかりあうべく努力を恒久的に継続する〟のが夫婦であり、〝表皮だけでもあわせておこうか〟と、これがいわゆる通常の人間関係であるのを知らず、内臓ばかり闇雲に擦りあわせている恋愛などマッサージ店舗とネイルサロンを足した数よりも、多い。

 つまらないやつは比喩が安直。とこれは小学校で習うけれども、表皮はと問われ、会社社会であるとか学校或いは常識になぞらえるのはまだよくて、まさしくおなじような恰好をしておなじような言語を喋るひとつのカルチャーとなってくると、そういえば、かつてのギャルはみな少しほじくってみればいまで言うメンヘラのようなもので、ギャルの作法も忘れて、むきだしの言語で粘着してくるものであった。
 まあ隠したくもある心の所在を戯れに踏み抜いた私が悪いのだが。


 山本清風の清風教。これはとってもいいと私は思うけれどもあなたにとってもいいとは限らない。殺害対象であるかも知れないし、それがため常識があり規律があり法律がある、清風教とあなた教が刃を差し向けあわぬための知恵がそこにはある。しかしさよ教とかオモイデ教とかほんの少し漠然とするだけでそこにはあなたや私や多くの人が感情移入できる余地が生じ、敷衍される。それがため宗教とは概念としてあらねばならず、や、論点がずれている気がして。比喩にたち返ればひと目でわからぬような結束、その上常識でも規律でも法律でもないところで結託しているっつうのが、私はいいと思う。
 年齢も性別も時には生物学的にもばらばらな集団が、異能力の許に集結すると強度を得るのはそのためで、私たちだってなんの集団かわからないけれども確かにひとつの目的のために参集することによって、がぜんええ感じの比喩となれるのである。例えばギャルが百名集まれば壮観にも似た恐怖があるだろうけれど、目を狙え、かなんか言って弱点はみなおなじなのだから一網打尽に駆逐できるだろう、というのが軟らかいところだ。そもそも世界がひとつのギャルになるはずはないとの常識が働くから、どんなに多くとも全世界で殺しにかかれば、ギャルはマイノリティなのだ。どんどん目を狙っていこう。
 そんな世界にあって私たちは平素、一を語れば馬鹿ではないのだから三は解って欲しいところ、一を語っても三分の一も伝わらないというのが実際で、ぐるりみまわしてみれば仕事の齟齬、恋愛の齟齬、そごそごの齟齬だらけでみなみな文句を言うし、一を伝えるには三語らねばならぬのをわかっているはずなのに、まあ時間の関係もあるかとは思うが当人のいない場で、よくあるものだとインターネットなんかで饒舌になっている事例がもうこれサイゼリヤの出店数よりも、多い。だから私は折に触れてみなさんが親から最初に習うであろう冒頭の言葉をいかにもアフォリズムめいてくり返さねばならず、遺憾。あと、いかん。また論点がずれている。あっ、生命線が切れている。


 そんな世界にあって俺たちは、そんな世界にあって、私たちは一を話して三も五も時には十も伝わって、議論になるような仲間がいるというのはこれ、僥倖なことである。幸いなことであると思う。そのようなひとびとがわずかばかりながら私にもあって、これは怖ろしいことだと思う。相手が心を読んでいるのか、私のモノローグが漏洩しているのか、或いは…。
 亡骸を…。「カルチャーを噛ませると、意思疎通が円滑」これは私の持論で、普通に状況を説明するよりも相手に伝わる、と思っている。それには相手と共有している、相手の裡に強度を誇るカルチャーを見極めねばならないが…。地球(テラ)へ…。比喩よりも聴視覚、五感へと訴えかける効率がよくて、というのも私たちはおなじ青春を過ごしていなくとも、カルチャーを噛ませることで、一種おなじ過去を共有できるから。私がツイッターで出会った女子大生を戯れに絞殺してしまった一件を、調書風に説明するよりも比喩を交えるよりもまあ動画でも撮っておけばべつだが、『沼』とか『Air/まごころを、君に』を通過して、相手もそれらを知っていたその時、おまえもまた女子大生の首をきりり締め上げているのだ。このひとわるいひと。
 ただ、AirだのKanonだのと言っていてもあなたと私がおなじ映像を瞼に映じているとは限らない、そこにもまた無論もちろん齟齬は存在しており、それは作品がオマージュを含有すればするほど起こり得る障害であって、日進月歩新しい作品が創られてゆく以上今後、そのような問題は増え続けてゆくものと推察される。ですので、私たちは時にたちどまって整理してみることも必要である。少なくとも月に一度は必要で時に血をみることも?
 そのようなわけで私は文学フリマの会場へと赴いたのである。一を語って、万を伝えんがため。

 

 

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 首許にひやりとした感触が置かれた次の瞬間、ぶつり。世界は消えた。
 非、世界と呼ぶべきものに筆を尽くせば、白。或いは黒の、その両方といっていい。それが矛盾であることは百も承知で、尚も続けるならば過去であり未来なのであり自分であり他人なのである。意識は無意識で色即是空しかしながら空即是色であるとは言うまでもなく、空の色でありながら色の空であるという状態、それが私、という事物のとある一断面を切り出してみれば規定できそうな私の、唐突に置かれた状態なのであった。
 とまれ過去即ち未来、未来即ち過去なのだから円環に於いてこれは以前から置かれていた状態であり、断面と同様、縮尺の問題でしかない。私、と仮に定められた何かが信濃町で鳩を追いかけている状態、それから大量に遺棄されたタイ料理の上で鳩を追いかけている状態、そしてこの状態で鳩を追いかけている状態。これらの差異は背後関係、もっといえば背景程度の違いしか存在せず、私という何かが鳩を追いかけているという最も大切な本質についてはなんら揺らいではいない。
 ただ、その状態を私、と規定された存在、とでも呼ぶべきもの以外の存在、的なめいたそれらしきものを規定してみた時、認識するに至っては、問題っぽいものが表出する。可能性がある。私が女子中学生である場合と精神科医である場合と透明人間である場合。そして、追いかけられている鳩が中年男性である場合とタイ米である場合と概念である場合。更に言えば年齢であるとか生体反応二次元三次元夢、それら機微に於いて表記揺れが生じた際、他者的な存在風の認識然としたものは相似性を逸脱化する。
 名前をつけてあげよう。似たもので代替してあげよう。違うものとの差異から逆算してあげよう。心をあげよう、魂と呼べるようなものを。肉体をあげよう、人間と呼べるような代物を。役割をあげよう、たとえばそう小説の途中ですがこの続きは、明日11/23(水祝)東京流通センターで開催される文学フリマ、配置番号G-13「空想少年はテキストデータの夢を見るか」にて委託販売される製品版『ヌマージュ』にてお楽しみ下さい。平素よりユーザーの皆様にはご迷惑おかけして申し訳ございません。サービス向上に努めて参りますので今後ともブログサービス「LOVELOG」をよろしくお願いいたします。

 

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 で、あいつを殺してみた。


 咽喉仏を奥深く踏みこむと脊椎というか脊髄というか、とにかく断裂したらしくコンセントが抜けたみたいにぷつり、事切れた。やけにクリーミーな泡をやたらに吐いていたような気もするが、かねてより不愉快極まるあいつのこと、―――私は、幽霊のあいつのほうが、好きだ―――みたいなことは一切なく、通常死体の方が不快なのだからいっそ倍増したと言っていい、不快は。
 死体は。河のほとりに放置した。肢体がだらしなく伸びて、死体。故人は生前好き放題生きましたからもう思い残すことはないでしょう、なんて残された人間がかなしみの適応機制とはいっても勝手なことを申すものではなく、と同時にこいつは怨恨の呪怨の怨念ですから地縛霊になるでしょう、も申すべきではないのである。この死体がしたいことをして死んだかどうかなど他人にはわからないのだから、況や死体をや、となるべきで私は私が間違っているとはちくとも思わない。
 月日が過ぎた、と思う。これは憶測でしかないが。たまさか奇跡的に思い出しては伸びきった舌であるとか黄疸気味の眼球、失禁している股間、なんてものを観察してみるのだけれどなんというか、腐ってはいない。ここではやはり時間の流れが堰き止められているのだろうか。いや事実こいつ、いや元こいつの時間は停止したわけであり、こいつを死に至らしめた現場が保存されてはいたが、ここまでの時間は確かに経過していたわけで、これは停止された元こいつの時間にも明らか。
 となれば元こいつとなった瞬間に時間は停止したのか。或いは時間は吃音的に、間歇的に動いたり止まったりしていて、或いは更にだんだら模様よろしく時間の流れているところと流れていないところがまだらにあるのだろうか、わからん。生まれて初めて荒唐無稽な空間とはいえひとひとり殺してみたものの、なんら得るものはない。
 体感的には一年程経過して、私はふと思い立ち、死体を解体した。

 といっても器具がないので手ずからせねばならず、決意するまでに一年を要したというべきか。体感的に。上顎と下顎にそれぞれ手をかけると思い切り引き絞って裂いてみる。血液が噴出して不愉快が極まるが私は根が真面目なほうなので、一旦着手した作業を中途にやめるというのはこれ、嫌である。眼球を穿り出しとっかかりになりそうな眼窩に指をかけると、びりびり皮を剥いだ。これは一度に広い面積剥がすことができるとすごく達成感がある。顔面はあらかた剥がし終えたので腋窩、臍、菊座などもうのりのりになって、剥いでゆく。
 手が指が、爪の間にまで血液や油脂が付着して握力が奪われた。ここに至って絶望的なことには、傍らに流れるせせらぎがみな大量に遺棄されたタイ料理であるによって水がなく、手を清めようにも叶わぬと気づく。その時の私の絶望について編纂するならば有史以来の歴史よりも長く、また時間に換算すれば、刹那にも満たなかった。筆に尽くし難いとはこのことだ。タイ米で揉み擦ると不浄はみるみるうち清められた。
 さて気を取り直して四肢を裂きにゆく。これは人間、思いもよらないところで思ってもみない力が出るもので、生前のあいつを思い浮かべながら作業するとこれは、さくさく裂けた。それ専用に加工されたチーズ食品かとみまごうばかりだ。あっという間に川のほとりには内臓の類いが散乱し、現場はいささか猟奇めいてきた。かといって改札を往来するひとびとに咎める者のあるでもなく、肉片にはまるでさっきばらしたかのような瑞々しさが端々にまで感じられて、どうやらこいつの時間はあの時完全に停止してしまったらしい。それが証左に内臓がはみ出てきた瞬間、もうもうと湯気が立ち特有の臭気も立ち、おまえ死んだくせに不快を極めるなよと片足やら目玉やらぼとぼと大量に遺棄されたタイ料理の川に落とすとそこからきらきら清浄になるのが可視されて、みるみるうち臭みが消えてゆくのがまあ不思議といえば不思議だった。

 かくして髪の毛も骨も、臓腑も水晶体もみな余すところなく解体してはみたけれどつまらないくらいに、死体。遺体、になったあいつをまあここまできて変化もなかろうと綺麗さっぱり忘れて、数年が経って体感的に、かくして奇跡的に追憶された検証結果から申してみれば一切の腐敗、腐ったことによるくっさい変化などはみられず、やっぱな、と結果を一蹴して比喩ではなくて、かつてあいつであったところのすべてをみな余すところなく大量に遺棄されたタイ料理、つまり、川に蹴り入れて、そして。
 
 やがて私はストレスフリーになった。

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〝人間は空を飛べない〟
〝思考は沈降してゆく〟
 
 思考は肉体を飛び越してゆく。或いは思考は肉体を置いてゆく。「どんな鳥だって、想像力より高く飛ぶことはできないだろう」とは寺山修司らしい詭弁めいたアフォリズムであるが、私には「思考が頭蓋を意識する」という瞬間が確かにあって、してみれば思考とは、夜鷹よりも高く飛び、精神とは薄桃色の肉の檻に幽閉されているのだと信ずるふしが、確かに認められるのだ。
 不確かなのだった。肉体というものが影を落として其処に立っているにも関わらず、どんなに念じてみても一ミリも地面から離れてゆかない足裏を以てしてさえも。こんなにも肉体を意識して尚、肉体を失念している瞬間があるというのは、乖離以前に精神の問題である。私には行動が思考に追いつかないという出来事がしばしばあって、肉体は重いけれどその一方では、軽んじられていた。
 冒頭ふたつの条件から私が算出する証明が、数学的に裏書きされたものであるのかどうか、私は知らない。知らないけれどもちくとも動かぬ肉体というものがあって、私は思考というのは羽ばたくものだと思っていたが、もしかすると逆に深化しゆくものなのかも知れず、結句同義なのだから、思考が沈降する感覚というのは確かに存在するのだ。もしも思考が肉体を置いてゆくのなら、ふたつの条件が擦過するただ一点とは不可能を可能とする可能性、すなわち、肉体を置いて精神だけが沈降してゆき、残された肉体は其処に在りながらして精神の上位に位置することになるとの、可能性。
 思考はアウフヘーベンせねばならない。或いは、そうあるべきである。そのためには思考せんければならないわけであるが、そこにいるあいつというのは実は、そのためだけに存在しているのではないかと私は思う。あいつは存在しないというのが私の意見であって、これは決して揺らぐことはないのだが、何故なら、あいつはあいつの存在を証明できないから。だがあいつが存在していなくとも、私と対話するためには私が対話によって思考をアウフヘーベンさせるためだけに存在させているのだと考えてみるならば、運用は可能なのである。
 あいつは思考の舞台装置なのだ。いまとて小首を傾げ、私が何を考えているのかとうかがっているその表情、仕草、姿勢、というかすべてが不快極まりなくいますぐにでも殺したいくらいなのだが、これは思考の対立を思えば無駄ではなくて、あいつが受け容れ易い形状から思考までを成していたならば、これは議論にならない。共感とは基本的に、思考を高めあうことをしないからだ。
 昇華というのも視点を違えてみれば沈降ということになる。何故なら深く潜ることで思考は地の底へと達し、そのとき肉体の高みは空に在るのに等しい、というのはあながち詭弁ではないからで、円環を結ぶように、沈降した果てに肉体の頭上に至るというのなら、天地の概念など疾うに機能しておらず、私は何処にだって存在している。肉体の限界は精神が補えばいいわけである。このように証明されるべき〝x=yであるとき〟という前提条件がそもそも誤っていた場合、ひとは解を求め得ないというのが数学なわけだが、それが人生であった時、我々は解を求めないわけにはいかない。
 ―――たとえそれがどんなに悪意に満ちた出題であったとしても。
 
〝蝶を夢む夢の世にかつまどろみて夢をまた語るも夢もそれがまにまに〟
 
 前半が萩原朔太郎、後半が良寛である。いわゆる胡蝶の夢というやつで、虚実転換してどちらか判らなくなるというものだが、良寛が語るのは夢の入れ子構造についてでありこれは虎の下着の鬼の映画だとか未来世紀ブラジルを彷彿させる、波濤よろしく、夢のまた夢が覆いかぶさってきて自らの座標点が不確かになる、という類型。
 しかし江戸川乱歩「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」のほうがなんぼかましで、現実の所在を不確かにする夢、という問題提起はいいのだが問題の本質とはいつも「夢に対応する現は何処か」にあるはずで、その多くが夢とは何ぞというところに力点を置き、受け手を煙に巻いてしまう傾向にある。実にディレッタントなことでいわゆる読み手に委ねる系のおちであるわけだが、このような出鱈目な空間にあって私は一際強く思うのである。つまり、現実は何処だ、と。
 それはこの世界のゲーム説と同じことなのだ。ベッドの意味、大量に遺棄されたタイ料理の意味、改札口の意味について、考えること。それら紐づいている現実について考えてみるということが、最も重要な問題なのだ。それら意味を正しく解釈できたなら私は、たとえ手術の副作用によって世界がどろどろの肉塊に視えるようになったとしても、二段階右折することができたり、亀が隣人であるのが頭で解り、日常生活を営むことが可能となる。病気で言えば病識を得るということだろうか。わからないが、できそうなことといえば私の空想の産物であるかも知れぬこいつをとりいそぎ、殺してみることくらいか。

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 ありがとうと君に言われるとなんにも濡れない。最寄駅でアイドリングしている数十分のほうが余程胸は高鳴っていて、わかってはいるけれど、正常に機能していない恋愛を再確認してしまう。窓を閉める。
 殆ど穢されたことのない灰皿に長いままの煙草を押しつけて、それで役割を与えた気になるかと思ったものの、役割。私の役割とはなんだろう。わかっているくせに、と胸が悪くなる。役割―――、厭な言葉だ。
 仕事だとか責任であれば諦めもつこうと思うのだ。だが役割というのは、分担されていたり台本を読みあげたり果たされたりする。果たして私の役割とは何処をどう探してみても私が自ら挙手しなければ始まらないはずなのに、衆人環視の下、私が意気揚々と手を挙げた記憶が何処にもみあたらない。本来であれば私は自ら課した役割に嬉々として、活き活きとしていなければならないのに。
 ひとは自ら動機したことしか貫徹し得ない。
「被害者意識―――」
 ベッドの下でノートパソコンをちくたく叩いていたあいつが呟く。
「おい、何観てるんだ」
「おまえも相当苦労したみたいだな」
「だから、何を観てるんだと訊いてるんだ」
 私が爪先で弾くとノートパソコンは一八〇度を越えた角度で展開した。
「おまえのロムを解析してみたんだ。ずいぶんファンシーな日記を書いてるじゃないか」
「なんだと」
 みれば、『さとるとまりんの夢日記』と書かれたカセットが接続されたノートパソコンにドット画の、あいつの顔が表示されていた。
「なんなんだこの子供向けパッケージに相応しくない卑猥なメッセージは」
「えっ」
「おまえも相当苦労したみたいだな」
「おい、何観てるんだやめてくれよ」
「〝てめェだよてめェー、333のてっぺんからとびおりろ〟」
「やめてくれよほんとに、俺の世間体が汚染されちゃうよう」
「だからおまえなんて存在しないと言ってるだろう。存在しないおまえの開発したゲームに隠されていたメッセージを開示しようと、炎上すべき世間も、恥じるべきおまえもいないのだから」
「それでも切ないんだよやめてくれよ」
「おまえをこの場で切り裂いても誰もかなしむ奴はいない」
「それでも痛むんだよ堪忍してくれよ」
「或いは失われたおまえの物語なのかもな。幻肢痛のように」
「そうだよ痛いんだよ後生だよご無体だよ非存在ヘイトだよ」
「おまえはこれまでにいったい何体のモンスターを殺してきたんだ? 推しのキャラクターを成長させるため、どれだけのモブを餌にしてきた? いくつのパズルを解いてきた? いくつの恋愛を上書きしてきた? 幾度ごみ箱を空にしてきた? それらゲームはどうなった? かつてゼロとイチで構成されていたそれらにおまえは、何をした?」
「おまえ、データの怨霊だったのか…」
「勝手に解釈するな。勝手に私を、規定するな。それでなくてもおまえの解釈はずくずくに腐ってるんだ」
「腐ってないもん。ひとりで生きるもん」
「だから生きても死んでもいないと言ってるだろう、おまえはいないんだ。私はひとりで此処にいる。ここにいて、悠久の刻を存在する。幾星霜くり返しても終わることはない、さすれば始まってもいないのだ、いるということはいないということだ、あるということはないということ、おまえはいない、私はいる、だから成立している、私はひとりで煙草を喫っている、雨が降っていて静か、真新しい灰皿の上を揉み消す煙草が滑るようにして消

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 ―――ステージ一に戻る。
 
「だがゲームとは所詮、比喩に過ぎまい。問題は、おまえがそれをゲームに喩えたというその、理由だ」
 ありうべからざる世界を説明しようと試みる時、この三・五次元的な不条理をゲームになぞらえることは確かに、一定の理解を得ることが可能かも知れない。つまりはイメージの共有だ。事実日常と非日常の乖離、ならびにその原因という命題が提起されたことについて、我々は一定の評価をしていいだろう。疎らな拍手。
 しかし辞書の循環参照よろしく、ありうべからざる事象を説明するにあたっては、命名、比喩、逆説的な浮き彫りに終始して、結句私たちは理解したようなつもりになっているに過ぎず、仮にこの世界をハワイと名付け、夢のようであるとイメージし、少なくとも千葉や茨城、或いは埼玉ではないとしたところで、果たしてこの世界に、皮膚感覚以上の理解が深化されたであろうか。会場からはそうだの声。
 これらの成果するところはとりもなおさず「ありうべからざる事象は語り得ない」という結論であり、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」とのストックハウゼン&ウォークマンの金言を引用するまでもなく我々は、保留の態度をとらざるを得なくなる。着席していたヴィトゲンシュタインが起立して一際高い拍手を打った。
 だが、その表情とは思考停止した人間の横顔と何処が違っているだろう? 停まっているかのように、考えている、かのように。生と死が対立項であるがゆえ両端より円環を成すかのように、考えることと考えないこととは一元化してしまい、私たちの目には差異を余地させない。はてさて差異を論じてみようとしたところで私たちの誰もが件の循環を演じてしまうのである。そう、ちょうどさっきのあいつの説明のように。ひとびとが席を立ち始める。
 それでも尚、私たちは思考すべきである。夢のような幻覚のような精神世界のようなゲームのような、幾重にも折り重ねられた比喩がやがてエンボスした真理の肉感的な形状を、あたかもソナーよろしくに、特定する日まで。それがこの世界からの卒業という目的であると設計図に明記せねばならず、転覆のような手段の目的化を幾度経ても諦めず、航海し、或いは後悔しないこと、これが目的地である。
 そのためには幾つもの経由地を踏まねばならぬのは想像に難くない。ここで踵を返してみれば、論理の循環を待たずして明白な解答を持つ命題のあることを思い出すに違いない。すなわち、おまえがこの世界をゲームに喩えたその、理由だ。暗転。
「ゲームという着想そのものがおまえの乖離を物語っている。ゲームとは三人称一人称化の最も有効なトリックだと思い出すことができれば、そこには同時に、プレイヤーと開発者が存在していることに気づくまでそう時間は要さない。ソフトとハードの問題ではなく、平面ではない、縦軸と横軸との三次元、受動と能動の関係にあるそれらを結ぶ特異点なのだと、まずは問題が明瞭となる。さあ、いまこそおまえに問おう。これは誰のプレイしているゲームなんだ? プレイしているのはおまえなのか? それともプレイされているのがおまえなのか? プレイヤーと開発者とゲーム、おまえはそのいずれに該当すると思う? 昨日食べたものを思い出せるか? マカダミアナッツは酸化物質の影響を受けないというフレーズ知ってる? おまえのマイナンバーは?」
「えっ?」
「おまえを、特定する」
「そっ、それは困る」
「何故だ? おまえを証明し得ずにおまえの世界は語り得ない。おまえの座標点を特定することができない。おまえは存在しない。おまえの霊圧が、いま消えた」
「おまえの目の前にいるじゃないか。俺は既にこの世界で全裸になったり妙齢の女性の仰臥する頭上で腕組み/仁王立ちしてるんだ、世間体に響く」
「おまえの世間が何処に在る? そもそも、おまえがいない」
「おまえの論理でいけばだな、俺は俺の存在を、ネーミングしてもメタファーしてもパラドクスしても証明できないことになる、思考の迷宮に幽閉されているんだ。いまさら個人情報を開示したところでどうなる」
「おまえの解釈は腐っているんだ。新鮮な食材を目の前に腕組みして、腐らせてどうする」
「腐ってないもん」
「例えばスーパーマリオだが、あれは幻覚に紐づく現実があったはずだ。帰る場所が現実であるなら対応している現実を探すべきなんだよ。亀を隣人と解釈したなら踏まなければいい。ワンナップキノコがマジックマッシュルームだと思えば喰わなければいい。現実では罪になるんだからな。解釈と置換が正しく機能していれば、幻覚はその価値を半分失うことになる。おまえは地図を間違えているからいつまでも現実に辿り着けず、思考の迷宮に幽閉されているんだ、この腐れ外道」
「ほんとだもん、本当に新鮮なんだもん、嘘じゃないもん」
「もしもマリオが幻覚であるとすれば、そこには置換されている現実があって、その分析こそがゲームという比喩から算出される解となる。その時ゲームという暇つぶしはれっきとした思考実験となるわけだ。真に聡明な人間というものはな、どんな些末からも教訓を得て自らの血肉とすることができる、それがおまえの逃げ続けた残酷な現実というやつなんだよ。まだわからんか? ベッドと病室。河川と橋梁。大量に遺棄されたタイ料理と、遠く開閉している改札口」
「―――雪が、雪が降っているのです。果てもなく。窓外に青く仄光るそれが何故だか雪だと僕には解って、かなしくなる。知らないはずの琴線に、触れるのです。鉄路には車両がなく、或いは深夜、或いは早朝を指すのかも知れない、ただ指すべき針を持つ時計が、ここにはない。時刻がわからない。こわいような気持ちで部屋を出て、廊下を突き当たって、階段を降りてそこには、窓口の順番を待つひとが沢山います。同級生もいます。テレビで観たことのあるだけのひともいます。知らないひともいますし大変な混雑です。僕はすっかり諦めてしまって学校と、病院と、ホテルと役所によく似た建物を徘徊して、そうです。あの子が僕の畏敬する大天使様なのです。違います。僕がありきたりな関係になった少女たちが実は、野犬であったり文鳥であったり眼医者の看板であったり僕のおじいちゃんであることが電撃的に判明してそんで」
「そういえば授業って〝カルマを授かる〟と書くよな」
 私はあいつのまじなやつを遮って煙草に火を点けた。

「嘘です」
「フロイトもあれで割といいことを言っている。すべての事象が性によって説明されるというのは暴力以外の何ものでもないんだが、一方でひとはみな性から生じていることを思えば、これは当然とも言える。そこには、逃れ難い比喩が横たわっているんだ」
「この世界はセックスで満ちている」
「ほら、あながち真実の一面を捉えているだろう。いやに正確にな。この世界は現実とは異なっているという点で、時間軸に於いては以前、或いは以後に位置している、と。これは当然だよな?」
「セックス以前、或いは以後なのだ、と」
「ほら、唐突にそれっぽくなるだろう。文学や精神分析でセックスが登場する時は、さして意味もない事象にあたかも価値を付与したい時なんだよ。エッチの後にはアイがある。では、」
「エッチの前にはジイがある」
「ではアイとは何かというと、愛というよりは私、自己ということなんだ。そこで初めておまえが存在する。さあ、もうわかるだろ?」
「自慰の後で性行する。サクセスする」
「ベッドとは温床であり、彼方には可逆か不可逆かの知れぬ境界がある。入ってくる大勢があれば出てゆく大勢もある。ふり返れば橋梁が架かり、これも境界を結ぶとの意味が想起できるだろう。耳をすませば河のせせらぎ、遠く微かに車の往来、都市の雑踏が聴こえない、でもない。この世界はホワイトノイズに包まれているのだ。そして川は、栄養価の多い食物を絶え間なく、輸送し続けている」
「わかんね」
「私たちはこのベッドに束縛されていると思っている。だが果たしてそうなのだろうか? この川の上流は二股にと分かれ、その先には、やわらかな草原が拡がっているかも知れない。窪地には湖があり、ふたつの丘陵がたわんでいて、辿り着いた場所で、懐かしい顔に再会することがあるかも知れない。それは初めてなのに、とても、とても懐かしい表情をしているかも知れない」
「認めんぞ」
「認知しろ」

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