かなり昔の事になりますが、私が主宰した「中山道・愚渓寺ツアー」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10577544515.html の際にこの様な碑が見つかりました:
「在原『黄門』行平『卿』之古墳」
黄門は中納言の「唐名」で今回のテーマ、そしてなぜ『卿』なのかは第1回http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10569023272.html を御覧になればお分かり頂けると思います。
この碑が岐阜県御嵩町に在ったのは、在原行平が美濃守だった事と関係しているから(碑自体は江戸時代のもの)なのですが、それを見た参加者の中には
「黄門って水戸黄門みたい!」
という発言をされた方が居ました。
そして、今度は水戸偕楽園の「徳川博物館(水戸徳川家13代当主徳川圀順公が開設)」を訪れた際の事です。水戸家の系図にて
「○印が黄門」
という記載が。それを見て、
「へえ、黄門様って何人も居たんだ!」
と驚いた方々の声が。
どうやら黄門という官職名が徳川光圀公のいわゆる「代名詞」だと考えている方々が多数いらっしゃる様です。
ですから、在原行平を「在原黄門」、徳川斉昭「も」「水戸黄門」と呼ぶ事に違和感や驚きを感じられるのでしょう。
「太閤」が豊臣秀吉、「内府」が徳川家康の「代名詞」と考えられている事も同様であり、恐らくこれらが「日本の(正式な)官職」ではない事が原因しているのだと考えられます。
確かに先日の歴史エピソードでの「尾張大納言」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10595546741.html ですと、誰も普通は個人を指すと考えないでしょう。これは大納言が日本の律令制(律は刑罰、令は刑罰以外を指します)下のポピュラーな官職名だからです。
一方、「太閤」などの官職名を「唐名(とうめい)」と言い、日本の官職名を中国の官制下の官職名に当て嵌めたものです。
大宝律令制定の頃にはすでに気取って自称する人が出始めました。極めつけは奈良時代の藤原仲麻呂の政策で、政権を掌握した翌年の758年(天平宝字2年)に全ての官職名を唐名に置き換えるという事に。仲麻呂はまもなく失脚し、官職名は元に戻されますが、この政策のために唐名がその後も通用する事となってしまったのです。
現在でもよく知られている「唐名」と「正規の官職名」との関係は以下の通りです:
「太閤」・・・「前関白」(現関白は阿衡が比較的有名)
「相国」・・・「太政大臣」(または左大臣を相国、太政大臣を大相国)
<例>入道相国(平清盛)
「内府」・・・「内大臣」 ※同様に、「左府」は左大臣、「右府」は右大臣。
「黄門(侍郎)」・・・「中納言」
唐名は他にも数多く存在します。相国寺が足利義満(太政大臣)に由来するなどの例も色々と残されており、こういったものを探してみるのも面白いと思います。