歴史エピソード(第1回:紀州・尾張藩主ドラマはなぜ定番にならなかったか) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

いよいよ新シリーズ「歴史エピソード」のスタートです。

※ここでの『エピソード』の語の使い方についてはhttp://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10592719964.html を参照して下さい。


今回はテレビドラマ「殿さま風来坊隠れ旅」。

1994年4月から10月までの半年間、「暴れん坊将軍」の休止期間中に放映された時代劇でした。


登場人物は「紀州大納言・徳川治貞」と「尾張大納言・徳川宗睦(むねちか)」という異色の組み合わせ。

うまい具合に、徳川治貞は「紀州の麒麟」、徳川宗睦は「尾張の中興の祖」といわれる名君で、藩政の改革に努力された方々。しかも同時代の人物(治貞の方が5歳上)でした。

確かに勧善懲悪の主役(ダブル主演)にはふさわしい組み合わせの様にも思うのですが、2クールで復活なしに終わってしまいました。それはどうしてなのでしょうか?


御両名が「徳川光圀(水戸黄門)」「徳川吉宗(暴れん坊将軍)」に比べて余りにも無名だったからと言われればそれまでなのですが・・・


(1)「治さん」と「宗さん」という呼び名が有り得ない。

徳川将軍家の歴代を列挙します:

康②秀忠③光④綱⑤綱吉宣⑦継⑧吉宗重⑩治⑪斉⑫慶⑬定⑭茂⑮慶喜

・・・という様に、足利将軍に比べて漢字変換がかなり楽です。いえ、冗談ばかりを申している積もりではなく、こちらの方がかなり馴染みが有るのではないでしょうか。

そして、これからも分かるかと思いますが、紀伊藩主貞は10代将軍・家、尾張藩主睦は8代将軍・吉から「偏諱」を貰ったものです。

※偏諱につきましては、歴史用語の基礎「偏諱と通字・前編」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10584394617.html を参照してください

なお、両者は同時代の人物なのに偏諱を貰った将軍が異なるのは、治貞が分家を相続していたために宗家を継ぐのが遅れたからです。(御三家分家では将軍から名前はもらえません。)


それはさておき、「治さん」の「治」も「宗さん」の「宗」も共に将軍から頂戴したもの。両者の「アイデンティティー」はそれぞれ「貞」「睦」のはずです。

もちろんそれでも「貞さん」、「睦さん」と呼ばれる訳ではありませんが、少なくとも将軍(吉宗・家治)に対する不敬になってしまうという意味で、有り得ない呼び名です。


そして、決定的なのは・・・


(2)徳川治貞は「紀州大納言」ではない!

宗睦は早々に権大納言に任官された一方で、治貞は分家からの相続という事も有って紀伊藩主になった時は既に48歳。細かく言えばここもキャスティングと大きなずれが有るのですが、とにかくこのため出世が遅れてしまい、結局は「権中納言止まり」だったのです。

高齢であっても亡くなる前に権大納言になっていればまだ良かったのですが、謳い文句の「大納言」が明らかに史実と異なる・・・この無茶苦茶なキャスティングはどう見ても致命傷でしょう。


時代劇に或る程度の虚構は付き物だとは覚悟しているのですが、虚構もせめて史実をベースに構築して貰いたいものです。

同時代の尾張・紀州の両名君を推戴するという意図で作られたにしても、「紀州大納言・徳川治貞」と聞くたびに鳥肌が立つ(これが本来の使い方!)様ではいけません。(おわり)