ペルーのお手伝いさん、家政婦、女中 | 南米ペルー在住、ピルセンの「ペルー雑感」

ペルーのお手伝いさん、家政婦、女中

現在の日本で生まれた時から、家に住み込み、あるいは通いの家事使用人がいるような家庭に育った人はたぶん稀だろう。それどころか都市部ではおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住んでいない家族の方が圧倒的に多いだろう。自分のことは自分でするのが当たり前だし、食事を含めた家事をする時間が節約できるように電気製品があり、コンビニがあり、インスタント食品があり、スーパーマーケットがあるのだろう。住宅事情にもよるだろう。日本の一般家庭であれば、家族以外が長期にわたって(時間的に)居るようなスペースなどないだろう。ペルーだけではないけれど、そうでない国がある。生まれた時から家事使用人がいる世界。別に特別に裕福な「華麗なる一族」に産まれたわけではない。住み込みの家事使用人の部屋やトイレがある家は珍しくない。日本語ではどのように呼ぶか。「お手伝いさん」「家政婦」「メード(メイド)」、「女中」、「使用人」「召使い」などなど。さすがに女中、使用人、召使は蔑視的意味合いが含まれているように思えるらしく現在では使わないかも。



ペルーにもいろいろな立場の在外日本人がいるけれど、雇用しているのであれば自分の生活の中で「家事使用人」と接する時間は決してすくなくない、多いだろう。ボランティアとか何かの活動で貧困層の生活に中に入っていく人はいるだろうが、そうゆう人は別枠だ。学生として勉学で滞在していても、下宿屋には掃除、洗濯、料理などをする使用人に接するだろうし、駐在員として家族で住む場合、家事使用人を雇うことはけっして、珍しいことではない。長期に定住している人(家族)ならなおさら使用人を雇っていることだろう。「女中」という言葉を使うことさえけっして珍しくはないだろう。長期に滞在している人ほど、子の言葉を使うし、日本から仕事などで来た家族は「おてつだいさん」という言葉を使う傾向があるようだ。人を仕事で使ったことはあっても、家事使用人を使ったことがほどんどない人が、直面する彼女(彼)らから受ける反応は結構一様なものがあるような気がする。


心優しき日本人は家の中で働く使用人を前にして、「女中」は極端な貧困や社会格差の象徴のように感じられ、厳しく使用するのがはばかれるように思う人がいる。逆に甘やかしたら調子に乗るからとの前任者や配偶者の意見を全面盲目的に受け入れ、やたら厳しくするのが当然だと思う場合もある。日本には一般的ではない「女中」がラテンアメリカ諸国やアジアの一部の国、西欧や米国ではけっして珍しくはないのはなぜか。

女中の話を通して、その国の気質や方向性、経済構造や教育まで語る日本人もいる。「こんな教育のない、女中がいるような国は発展しないよな」「女中は社会格差、貧富の差の象徴だな」「女性差別だな」なんていう日本人も少なくない。そして、女中を通じて社会を見るようになる人さえいる。悪いことをしても誤らない、みえすいた嘘をつく、時間を守らない、「割った」のではなく「割れた」、「落とした」のではなく「落ちた」と言い訳ばかりの責任転嫁ばかりする、物を盗んで平気だ、教養がない、つり銭をごまかす、見ていないと怠ける、他人のものを勝手に使う、腹いっぱい飯を食う、などなど。その原因は、教養レベルや貧困、国民気質に分析は落ち着くようだ。


逆に、自分の感情を入れ込む人もいる。レストランで食事をする人に給仕が腹をすかしているのでは、貧乏生活をしているのでは、子沢山で可哀想、なんて思う人はいない。レストランは食事を楽しむ場所だからだ。感情入れ込みに強い人ほど、あんなに「してあげた」のに恩をあだで返されたなんて逆ショックを受ける場合がある。


まとまりのない話になってしまった。我が家には20年来、来てくれている通いのおばちゃんがいる。メイド喫茶のように『おはようございます、ご主人様』『昼食ができましたよ。ご主人様』『それでは、失礼します ご主人様』とちゃんと言ってくれます。