江戸時代には現在の憲法にあたるものが「法度」という形で公布されていました。法度には「武家諸法度」「諸子法度」などがありました。民法にあたるものは「公事方(くじかた)」、刑法にあたるものは「吟味筋(ぎんみすじ)」がありました。これらの法は、「高札」「触れ」「達し」などの形で、その都度公布されていました。

 

武士と武士以外の裁判は別体系になっていました。武士以外の裁判は、現在と同様に刑事裁判と民事裁判が行なわれていました。刑事裁判は「吟味筋」、民事裁判は「出入り筋」と呼ばれ、出入り筋は金銭や契約関係の訴訟である「金公事」と仲間内などの利益配分などの訴訟である「本公事」に別れていました。

 

武士には最上位の身分として庶民よりも高い行動規範が求められていました。例えば庶民が窃盗を犯した場合は10両以上が死罪だったのに対し、武士の窃盗は金額に限らず全て死罪となりました。庶民が武士を訴えることも多く、裁判では武士が不利だと言われていました。庶民と武士が裁判で争った場合、武士に少しでも武士の規範に背くようなことがあれば、武士は敗訴になっていたようです。それだけ武士には、人々の手本となるような振る舞いを求められていたということです。

 

審理は、寺社奉行、勘定奉行、町奉行が各自の担当部門の裁判を行い、重要なものは現在の最高裁判所にあたる「評定所」で裁かれました。評定所には、寺社奉行、勘定奉行、町奉行、目付、若年寄や老中が出席して議論を行なって判決を出していました。目付とは、旗本や御家人の監視、諸役人の勤怠などをはじめとする政務全般を監察する役職のことです。

 

放火、殺人、強盗、関所破りなどの重大犯罪の場合には拷問をすることが可能でした。江戸時代の犯罪捜査では自白偏重だったこともあり、結果として拷問によって冤罪となることもあったようです。しかし、犯罪捜査能力は高く、一般的には江戸時代の裁判は公正に行われていたようです。オランダ商館のツェンベリーは自著(江戸参府随行記)に「(日本のように)法が身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は(世界中に)ない」と書いています。

 

訴訟の数は、1719年には年間の訴訟受理件数が47千件(そのうち公事は36千件)になっていました。裁判が公正に行われ信頼されていたため、多くの人が訴訟を起こしていていたのでしょう。また、印紙などの手数料がなく、訴訟費用の敗訴者負担もなかったので、無料で利用できたこともあって多くの訴訟が起こされたようです。

 

裁判が膨大な量になっていたため、八代将軍吉宗のときに過去の判例をまとめた「公事方御定書(くじがたおさだめがき)」が出来て、裁判のときに前例を調べることが容易になりました。これは幕末まで活用されていたようです。

 

法の運用については、奉行の裁量部分が現在よりもずっと大きかったようです。悪事に関しては厳正で公正に行われていましたが、「情け」という意味での酌量が多かったようです。また、法は基本的には極めて厳正に施行されていましたが、社会全体の道徳常識に即さないような「お触れ」や「お達し」を幕府が出しても実効性は極めて低かったようです。5代将軍綱吉によって出された「生類憐みの令」によって処罰された人は、江戸では24年間に69件だけで、江戸以外では実際に法律として執行されたことはほとんどなかったようです。

 

江戸時代には統治者に都合がいいように勝手に法律を曲げることもなく、権力者の専横に左右されることはありませんでした。江戸時代には、日本は既に法治国家だったということです。日本人が法律や規則を守るのは、昔から法に則って国が治められていたことが影響しているのではないでしょうか。


(日本人が知らない江戸時代)
○日本人が知らない江戸時代
○江戸時代の農民は収入が増えたが年貢は増えなかった
○大規模な治水工事が江戸時代に行われていた
○都市が発達し街道が整備された江戸時代

○江戸時代に整備された上水道
○江戸時代に森林が保全された


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