(引用開始)
余計なことは考えないようにしようと牛河は思った。皮膚を厚くし、心の殻を固くし、日々をひとつまたひとつと規則正しく重ねていくのだ。俺はただの機械に過ぎない。有能で我慢強く無感覚な機械だ。一方の口から新しい時間を吸い込み、それを古い時間に換えてもう一方の口から吐き出す。存在すること、それ自体がその機械の存在事由なのだ。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第16章 31ページ~32ページ)
これは牛河が深田絵里子との対峙のあと、虚脱して何もできなかった夜の、次の日の朝のことだ。牛河はここですでに立ち直っている。この数行あとにこういう牛河自身の描写がある。
「俺は複雑なディティールを持った単純なシステムなのだ」
ここで牛河自身の言葉で「システム」という言葉が使われる。しかし、牛河はどうだろう。単純なシステムになるには、あまりにも善良すぎたのではないだろうか。
「存在すること、それ自体がその機械の存在事由なのだ」
というのも意義深い。特別な価値とか自我同一性とか求める必要はない。「存在すること」。それだけがただ、重要なのだ。それは、生きている、ということに無上の価値を見る。
(引用開始)
「現実的な手間を惜しまず、情報を集めるコツを心得て、論理的にものを考える訓練を積んでいれば、それくらい誰にだってわかる」
「そういう人が世の中に数多くいるとは思えないけれど」
「少しはいる。一般的にプロと呼ばれている」
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第17章 45ページ)
タマルと青豆が会話している。手際よく情報を集める牛河のことを話している。
「一般的にプロと呼ばれている」
世の中には情報収集に限らず、プロと呼ばれているひとは居る。そうして、そういうプロはいつも、生きるか死ぬか、という土俵で相撲を取っている。土俵の外には剣が上向きに隙間なく立っている。負けた人間はその剣に放り投げられ息絶える。
もちろん現実にそういう土俵が存在するのではないが、プロの日常の心象を絵に描いてみると、上のようになる。
現実に、プロは一歩もあとには引かない。前にだけ行く。
(引用開始)
「定型がなければ人は生きていけない。音楽にとってのテーマと同じだ。しかしそれは同時に人の思考や行動にたがをはめ、自由を制約する。優先順位を組み替え、ある場合には論理性を歪(ゆが)める。今回の状況に即して言えば、あんたは今いる場所から動きたくないと言う。少なくても今年の末までは。より安全な場所に移ることを拒否している」
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第17章 48ページ~49ページ)
タマルが青豆に話しているところだ。個人情報を洗い直せば、その人間の思考や行動の定型を知ることができる。その定型はときに、その人間の弱点となる。牛河(その名前はまだタマルや青豆に知られて居ない)はその弱点を調べて、青豆の居場所を見つけることができるかも知れない、とタマルは考えている。例えば、ここで言う青豆の弱点とは、天吾だ。まさに牛河は、天吾を見張り、天吾を通して青豆の居場所を見つけ出そうと努めている。
僕が考えるに、人間の定型を作るのは幼少期に作られた、トラウマとも呼べる体験の数々だ。僕で言えば、贅沢なことをすると、どこか落ち着かない。家の電気でも小まめに消灯して、水の使い方でも、できるだけ無駄の出ないようにしている。食べ物でも、女房は別だが、自分自身としては極力ごみ箱には行かないように努力している。大本という教団でいう「菜の葉一枚無駄に捨てまじ」の精神だ。こういうものは、自分で作った定型というよりも、幼少期から来る深刻な体験から生まれる。
(引用開始)
坊主頭は間をとって、その前提が小松の頭に浸み込むのを待った。それから再び話を続けた。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第18章 67ページ)
さきがけの教団に拉致されている小松と坊主頭が話している場面だ。
ほかのところでも何カ所か出て来るが、理解には時間がかかる、ということを具体的に示している場面だ。
子供でもそうだが、人間を誘導する上でしかるべき理解を相手に待つ、というのは、ひとを導く上で重要な要件だ。しかし、人類の九割九分九厘の人間は、相手の理解を待つのではなく、相手を強制したり、脅したり、という方法を取る。僕もときに他人を脅すが、それは相手に理解を期待できないという条件に限られている。しかし人類のほとんどは、問答無用、斬り捨て御免、の世界なのだ。
話せば分かることを話さないで、怒鳴ったり、叫んだりするひとが居る。相手の理解力というのを推定できないひとが多い。それは言い換えてみれば、理解に基づいて話す能力の知性に欠ける、ということを示している。
(引用開始)
坊主頭は一度目を閉じ、十秒ばかり間を置いてから目を開けた。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第18章 72ページ)
これもさきがけの教団の地下で、小松と坊主頭が話をしている場面だ。「あなたは実際に地雷原の真ん中にいるんです」と坊主頭が言って、小松が黙って肯いたあとのシーンだ。
「十秒ばかり間を置いてから目を開けた」というのが要点かも知れない。だいたい、十秒ぐらいの間隔が相手の理解の助けに必要となる、ということをこのシーンは物語っているのだろう。ひとの理解に置ける重要な案件かも知れない。読者は覚えて置くといいだろう。
(引用開始)
「しかし教団は今でも存続している」
「教団は今でも存続しています」と坊主頭は答え、氷河の奥に閉じこめられた古代の小石のような目でじっと小松を見つめた。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第18章 79ページ)
これは、坊主頭がさきがけのリーダーの深田保、つまり『空気さなぎ』を書いた深田絵里子の父親が亡くなったことを小松に告げたあとの場面だ。小松の質問から、文章は始まっている。
「氷河の奥に閉じこめられた古代の小石のような目でじっと小松を見つめた」というのが、坊主頭の揺るがぬ信念のようなものを、物語っている。つまり、教団は絶対で、その存在が揺るぐようなことはあり得ない、という信念だ。
それにしても「氷河の奥に閉じこめられた古代の小石のような目で」というのが美しい。こういうオリジナルな表現に気付かない大多数の人間というのは、本当に愚劣だ。僕はそういう愚劣な存在をこの世から抹殺する。一点の曇りなく。
(引用開始)
「まったく奇妙な世界だ。どこまでが仮説なのか、どこからが現実なのか、その境界が日を追って見えなくなってくる。なあ天吾くん、一人の小説家として、君なら現実というものをどう定義する?」
「針で刺したら赤い血が出てくるところが現実です」と天吾は答えた。
「じゃあ、間違いなくここが現実の世界だ」と小松は言った。そして前腕の内側を手のひらでごしごしとこすった。そこには静脈が青く浮かび上がっていた。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第18章 92ページ)
深田絵里子の書いた『空気さなぎ』をもとに、小松と天吾がマザとドウタについて話している。話せば話すほど、真相が深い霧に覆われる。そこで発した小松の疑問が、上の文章だ。
なるほど、針で刺したら赤い血が出て来るところが現実、というのは、モラトリアムの天吾くんにとっては上出来の答えだろう。
じゃあ、現実って何だい? とあなたは言う。血も涙もない男が幼気(いたいけ)な少女をを強姦しているのが現実だ。この「憐憫」という文字が人類から消えてなくなって、幾世紀が過ぎただろう。マザーファッカーというのが、ぴったりの人類だ。
残りの12年の人生で僕は、この人類の愚劣の歴史に終焉を告げたい。
(引用開始)
これはおそらく魂の問題なのだ。考え抜いた末に牛河はそのような結論に達した。ふかえりと彼とのあいだに生まれたのは、言うなれば魂の交流だった。ほとんど信じがたいことだが、その美しい少女と牛河は、カモフラージュされた望遠レンズの両側からそれぞれを凝視し合うことによって、互いの存在を深く暗いところで理解しあった。ほんの僅(わず)かな時間だが、彼とその少女とのあいだに魂の相互開示ともいうべきことがおこなわれたのだ。そして少女はどこかに立ち去り、牛河はそのがらんとした洞窟(どうくつ)に一人残された。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第19章 104ページ~105ページ)
その昔「美女と野獣」という物語があり、アニメ映画にもなった。もっとも、ここでは人間の美醜を越えた、二人の人間の魂のやりとりが話題となっている。それは、恋愛ではない。男と女には、恋愛感情を越えた魂のやりとりが起こり得る、とここでは小説として描かれているのだ。それは天吾と青豆が十歳のときに手を握りあったときにも起こった。正直それは単なる男女の恋愛感情ではなかった。そのときの天吾と青豆には、深いところで魂のやりとりがあったのだ。それは絶望という言葉に限りなく近い、魂のやりとりだった。それは、何の約束もできないほど深い、魂のやりとりだった。
これに続く同ページの牛河の独白を引用する。
(引用開始)
少女は現れて,去っていった。我々は異なった方向からやってきて、たまたま進路を交差させ、束(つか)の間(ま)視線を合わせ、そして異なった方向に離れていった。俺が深田絵里子と巡り合うことはもう二度とあるまい。これはたった一度しか起こり得ないことなのだ。仮に彼女と再会することがあったとして、今ここで起こったこと以上の何を彼女に求めればいいのか? 我々は今では再び遠く離れた世界の両端に立っている。そのあいだを結ぶ言葉などどこにもありはしない。
(引用終わり)
「彼女は遥(はる)かに深いところで俺を理解したのだ、牛河はそう感じた」
という文章が、上の文章のすぐ前に出て来る。
深田絵里子は牛河の何を理解したのだろう。そしてそれはどういう訳で牛河とふかえりの間で起こったのだろう。読者には皆目、見当もつかない。ただ、ここで言えるのは、牛河も深田絵里子も世界の両極端で生きているとは言え、同じ種類の魂を持った人間だった、ということである。
一方は美少女であり、一方はひとが避けて通るような醜悪な男である。しかし、魂のレベルに於いて、牛河と深田絵里子にはある種の共通項のようなものがあった、と言える。それは純正にして世を偽ることのできないような共通項、と言えるのかも知れない。
「あの牛河が?」とあなたは言うかも知れない。「そう、あの牛河が」なのである。もちろん、生きて行く為に表面、世を偽るような悪事を牛河は重ねて来た。しかし、深いところで牛河は、自分自身を偽るような偽善は働かなかったのである。そういう意味で牛河は深田絵里子と同様、純正な人間と言える。
(引用開始)
彼の心には常に溶け残った凍土の塊のようなものがあった。彼はその堅く冷ややかな芯(しん)とともに人生を送ってきた。それを冷たいと感じることさえなかった。それが彼にとっての「常温」だったからだ。しかしどうやらふかえりの視線がその氷の芯を、一時的であるにせよ融かしてしまったらしい。それと同時に牛河は胸の奥に鈍い痛みを感じ始めた。その芯の冷たさがこれまで、そこにある痛みの感覚を鈍麻させていたのだろう。いわば精神の防衛作用のようなものだ。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第19章 106ページ~107ページ)
牛河にとって人生は冷たいものだった。その冷たい人生とともに、彼の心も堅い凍土にいつの頃からか被(おお)われてしまった。それはもの心が付く前かもしれない。彼は生まれ落ちたときから、異物として扱われた。それは醜いどこかの余所者だった。
牛河はふかえりから受けた視線の温かみとともに、その鈍い痛みも受け入れる。痛みと温かみは、分かつことのできないものだった。それは孤独な魂が唯一、共鳴できる魂に出会った温もりと言える。
牛河は、ふかえりの視線からある意味での寛容と受容、理解を感じ取った。それは牛河が生まれ落ちたときから得られることの無かったものだった。牛河には、自分と共感できる魂がこの世に存在できるなど、想像さえできなかった。
しかし、このふかえりから受けた視線によって、牛河はある意味での緩解(かんかい)を受く。それはどこか魂の深いところで、重篤な病が快方に向かうような緩解だった。
これにつづく、作者の美しい描写があるので引用する。
(引用開始)
午後の日だまりの中で、牛河はその痛みとぬくもりを同時に味わった。心静かに、身動きひとつせず、風のない穏やかな冬の日だった。道を行く人々はたおやかな光の中を通り抜けていった。しかし日は徐々に西に傾き、建物の陰に隠れ、日だまりも消えてしまった。午後の温かみは失われ、やがて冷ややかな夜が訪れようとしていた。
(引用終わり)
ふかえりの視線を受け、病から抜け出たような温かみを感じる牛河。その日だまりのぬくもりを受け、ある幸福感を感じる牛河にも、冷たい夜は容赦なくやって来る。僕は谷口水夜のペンネームで『「ノルウェイの森」論~エロスと自由の狭間に落ちて』と題して当『本格派「当事者」雑誌』に寄稿した文章がある。上の文章とも関連するので再掲する。
(再掲開始)
僕らはどうせ死ぬのだ。死がすべてを奪い尽くすこの現実の中で、虚無と不条理に闘いつつ、僕らは生きているのだ。これがこの『ノルウェイの森』に一貫して流れているテーマだ。そこはかとない、春の日だまりのような休息は時にあるだろう。しかし、僕らにある日常生活とは、ぬかまりの中を冷たい雨に打たれながら行く、その行程の連続なのだ、ということに尽きる。
(再掲終わり)
いま読み返してみると、その希望の無さに辟易(へきえき)とするのだが、ここで言う春の日だまりというのは、まさに上の牛河が冬の穏やかな日だまりのぬくもりに、幸福感を味わっているのと同じ日だまりである。
なるほど、小説『ノルウェイの森』には本当に希望がなかった。しかしこの小説『1Q84』では、この希望のない現実に変革を与えるような予感を読者に与える。
いまのままの現実には希望はない。しかし、この現実は変えることができる。その変革のための手引書とも言えるのが、この小説『1Q84』なのだ。そして僕の「1Q84」論は、その変革に確かな楔(くさび)を打つ。この現実は、変えられる。そう、望んだ人間のすべてに。
(引用開始)
これは好き嫌いの問題ではない。正しい正しくないの問題でもない。いったんやり始めたことは最後までやり遂げなくちゃならない。そこには俺自身の命運がかかっているのだ。いつまでもこの空洞の底で、当てのない物思いに耽(ふけ)っているわけにはいかない。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第19章 107ページ~108ページ)
牛河が天吾を監視するために居たアパートから、深田絵里子が荷物をまとめて出て行く。虚脱感と物思いに耽っていた牛河は、もたれていた壁から背中を引きはがし、いつものストレッチングをして、再び仕事や学校から帰ってくる人々の監視を始める。その場面だ。
「いったんやり始めたことは最後までやり遂げなくちゃならない。」
というのが、要点かと思う。世の中には、始めたことを途中で投げ出す人間の方が多い。それは言い換えてみると、人類のほとんどすべては、与えられた仕事を最後までやり遂げるということが、脳にインプットされて居ない愚劣な存在である、ということも意味している。重要な苦渋に満ちた人生の局面に立つと、人類のほとんどはその仕事を放棄して逃げる。
僕の職場のポーランド人の同僚でも、仕事を途中で投げ出すのは普通のことで、簡単に職場を変える。彼らには、何かの仕事を完結させる、というポリシーがないのだ。浮き草のように湖面を漂って、どこかに根を張るということをしない。
それはその精神性が、あまりにも軽薄であることを意味する。尻軽女を笑える男など、この地球上には存在しない。またそういう仕事を完結するぐらいの男なら、売春婦を侮蔑したりしない。ものの視点がどこかズレている。愚劣なのだ。
(引用開始)
九時半になって牛河はその日の監視の仕事を終えた。缶詰のチキン・スープを小鍋(こなべ)にあけて携行燃料の火で温め、スプーンですくって大事に飲んだ。それと一緒に冷たいロールパンを二つ食べた。リンゴをひとつ皮ごと齧(かじ)った。小便をし、歯を磨き、寝袋を床に広げ、虫のように丸まった。
そのように牛河の一日は終わった。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第19章 109ページ)
ハードボイルドな牛河の一日だ。外面が醜悪でなかったら、牛河のダンディーな一日が終わった、とも表現できそうだ。
食パンではなく、ロールパンを食べているところが、牛河の「実はグルメなのではないか」という一面を覗かせている。別の場面で桃の缶詰を開けて食べているシーンもあるが、桃の缶詰というのは、缶詰にしてはなかなか美味なものだ。その他いくつかの断片から読み取って、牛河は結構な食通なのではないか、という印象を僕は受けている。
(引用開始)
川奈天吾がアパートの入り口に姿を見せるのと同時に、どこかで扉が大きく開かれ、現実感が牛河の意識に戻った。大気が真空を満たすように、一瞬のうちに神経は研ぎ澄まされ、新鮮な活力が身体(からだ)に行き渡った。彼はそこにある具象的な世界に、ひとつの有能な部品として組み込まれた。かちんという心地よいセッティングの音が耳に届いた。血行の速度が上がり、適量のアドレナリンが全身に配られた。これでいい、こうこなくては、と牛河は思った。これが俺の本来の姿であり、世界の本来の姿なのだ。
(村上春樹著『1Q84』 新潮文庫 6 第19章 115ページ~116ページ)
僕も仕事で寿司を握っていると、現実感覚で満たされて行くのを感じる。そのことをここの本格派「当事者」雑誌の歌集『ゾバッチメ』に書いたので、再掲する。
(再掲開始)
陰口を言うも聞くのも疲れ来て寿司握るほど心穏(おだ)しく
(再掲終わり)
仕事というのは、こういうものだろう。だからこそ「ワーカーホーリック」みたいなことが生まれる。人間は仕事をしているときが、一番幸せなのだ。それはどこかの企業で働いているということが重要なのではない。いつでもどこでも働いて、何かの役になっている、ということが重要なのだ。僕がこの評論を書くことで、世の変革に一役買っている、ということも上の牛河のような生きる喜びとなっている。僕はこの評論を書くことで、僕の知性に偽りがないことを後世の人間に証明する。
それは、疑いようもない事実として、歴史に残るだろう。ひとつの歴史の変革の導引としての証拠も兼ね合わせて。
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