問題は、「200字論述新研究44(問題17・18)」で確認してください。

解説は、「200字論述新研究48(問題18を考える➊)」をご覧ください。

解説は、「200字論述新研究49(問題18を考える➋)」をご覧ください。

 

問題18 解説

 

室町幕府と有力守護大名

 

長期にわたった南北朝の動乱も、3代将軍足利義満のころ、ようやく終息へとむかっていった。

1392年、義満は南朝を事実上吸収するかたちで南北朝の合体を果たし、全国政権を確立した。

 

ただし、こうして安定期を迎えた室町幕府は、有力守護大名との連合政権という性格が顕著だった。

足利義満は、奉公衆とよばれる将軍家の直轄軍を整備して守護大名の牽制にあたらせると同時に、有力守護大名の利用と統制に努めることになる。

 

利用と統制

 守護大名の利用

将軍の補佐役である管領には、足利氏一門の有力守護である細川・斯波・畠山氏(三管領)が交代で就任。

侍所の所司(長官のこと)には、赤松・一色・山名・京極氏(四職)が交代で就任した。

 

これらの有力守護は在京して重要政務の決定にあたり、また一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則だった。

 

 守護大名の統制

土岐康行(ときやすゆき)の乱(1390、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐)、明徳の乱(1391、11カ国の守護を兼任し「六分の一衆」と称された山名氏の勢力を削減)、応永の乱(1399、大内氏の勢力を削減)など。

 

守護大名と戦国大名

 

15世紀後半になると、京都を主戦場とする応仁の乱が発生し、その期間は11年におよんだ(1467~1477)。

このため京都は荒廃し、幕府の衰亡・荘園制の解体が決定的になった。

 

また、全体として下剋上の風潮が強まり、地域に根をおろした実力ある支配者の台頭が促されていった。

争乱の過程で、守護大名・守護代・国人などさまざまな階層の武士たちのなかから、戦国大名化する者が登場することになる。

 

応仁の乱以前の守護大名とは、世襲的地位にあったものの将軍の任命によりみずからの正当性を確保したに過ぎず、また土地を直接支配するには至らない存在だったが、戦国大名は、みずからの実力で領国(分国)をつくりあげ、独自の一元的な領域支配(領国全体の一円支配)を実現しようとしていった

 

戦国大名の領国支配については、指出検地貫高制寄親・寄子制分国法富国策などの点を説明できるようにしておく必要がある。

それらには過渡的性格が強いことを念頭におきながら、「200字論述新研究35(問題14を考える➊)」などで、内容を再点検しておいてほしい。

 

問題18 解答

鎌倉前期の守護権限は大番催促など大犯三カ条が中心だったが、室町時代には刈田狼藉を取り締まる権限や使節遵行権に加え、幕府が発令した半済令が拡大解釈されて土地そのものの分割が認められるに至り、また守護請も広がった。守護はこれらの権限を利用して一国内の荘園・公領を侵略し、有力武士を組織化するようになり、さらに任国の世襲化が一般化する中で国衙機構をも吸収して一国全体の支配権を確立し、守護大名化していった。

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