問題は、「200字論述新研究44(問題17・18)」で確認してください。

 

 

問題18 解説

 

守護制度の確立

 

平安時代末期(平氏政権期)にあたる1180年、後白河法皇の子以仁王(もちひとおう)と源頼政が平氏打倒の兵をあげると、伊豆の源頼朝や信濃の源(木曽)義仲らも挙兵し、内乱が全国に広がっていった(1180~1185、治承・寿永の乱)。

 

平氏を打倒しようとした諸勢力のうち、もっとも強力な東国武士団を率いる頼朝は、上京を急がずに、鎌倉を本拠地として新政権の樹立に努めていく。

 

具体的には、平氏が都落ちした1183年には、東国の事実上の支配権を後白河法皇に認めさせ(寿永二年十月宣旨)、平氏が滅亡した1185年には、守護と地頭を設置する権限を獲得した

そののち、頼朝は1192年に征夷大将軍に任ぜられ、ここに名実ともに鎌倉幕府が成立することになる。

 

鎌倉幕府成立期の守護は、有力御家人が各国に一人ずつ任命され、一国内の御家人を動員して大犯三カ条(だいぼんさんかじょう)などの職務を果たした

守護は、荘園・公領(国衙領)に介入することを原則的に禁じられており、全体としては軍事・警察という限られた分野を担当する存在だった。

 

大犯三カ条とは何か

 大犯三カ条

大番催促(京都大番役の催促など)、謀叛人・殺害人の逮捕の3項目をいう。

 

 京都大番役

皇居などの警護にあたる御家人役をいい、守護が御家人の召集・統率(催促)を担当した

 

御成敗式目と守護

 

承久の乱(1221)後、北条義時北条政子らがあいついで亡くなるなかで、3代執権になった北条泰時は、御家人による集団指導体制で政治を運営しようとしていった(執権政治)。

 

こうしたなかで1232年には、合議のための指針、公平な裁判のための基準として御成敗式目(貞永式目)が制定された。

 

そこには、「一、諸国守護人奉行の事 右、右大将家(うだいしょうけ)(源頼朝のこと)の御時定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人(付(つけ)たり夜討・強盗・山賊・海賊)等の事なり」と記されている。

 

すでに守護のなかには、国衙を指揮して行政事務にあたったり、大田文(おおたぶみ)一国内の荘園・公領ごとの田地面積・領有関係を記した文書)を作成したりする者も登場していたが、御成敗式目は、守護の職務を改めて限定し、「大番催促・謀叛・殺害人(付たり夜討・強盗・山賊・海賊)等の事」以外の行為を禁止した

 

続きの解説は、「200字論述新研究49(問題18を考える➋)」をご覧ください。