• 28 Apr
    • 【6月25日】難関大教室(英作文・竹岡先生)開催!

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   6月25日(日)に、竹岡先生の難関大教室(英作文・夏期講座)が開催されます(学研プライムゼミLIVE)。 情報の詳細については、↓ここをご覧ください。 https://gpzemi.gakken.jp/live/class-english/   竹岡先生からのメッセージを再録しておきます。   ■成功への指針を伝授■ 英語を伸ばすのは本人の努力によるものですが、その努力の方向を間違えると、なかなか成果が上がりません。   今回の授業では、まず、どのような方針で天王山の夏に向かえばいいのかについてお話をします。 また、英作文や自由英作文をどのように書けばよいのかを伝授します。   最後に、英作文の試験をして、それを英米人の先生に添削して頂き返却します。 努力を無駄にしないためにも是非、受講していただきたいと思います。   ネイティブスピーカーによる添削指導付きの本格的な講座です。 お楽しみに!

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    • 【新シリーズ】ムービー日本史・解説(予告)

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   『ムービー日本史』(山川出版社)という、広く知られているというわけではないDVDがあります。 このうち、第4巻(戦後編、2010年)に付属している解説書執筆の一部を数年前に担当しました。     ここに記した文章を紹介しようと思います。 NHKに保管されている映像を用い、おもに高校での授業の際に利用することを想定してまとめられたもので、値段がやや高いのですが、解説部分は受験にも十分役立つだろうと思います。   元原稿と完成版の照合作業を開始しました。 準備が整うまで、しばらくお待ちください。

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  • 27 Apr
    • 【東大教室】着々!

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   東大教室(春期講座・東京会場)が迫ってきました(学研プライムゼミLIVE)。 現在、当日配布用の解答例プリントを作成中(正確にはこれから作ります)。   何人かの方が東大教室のことをブログでとりあげてくれました。 ありがとうございます。   ■「とうだ いりゅう」さんのブログ 東大教室の賢い活用法を記してくれています。  → 明後日は東大教室   ■「ねこ」さんのブログ 予習の進行状況についての報告です。  → 東大教室の準備   入試とは、基本的に素手での勝負。 予習のもつ最大の意味は、ここにあります。   無駄に時間を費やす必要はないし、サンドバックになってもかまいません。 素手で未知との遭遇を楽しんでください。  

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    • 吉田茂(1878.9.22~1967.10.20)③

      ■「ものの現実(リアリティ)が見える人」   吉田政治の最大の焦点は、1948年から1954年まで続く吉田内閣期(第二次~第五次)、とりわけ、「軽武装・経済優先」路線が選択されていく、日本の講和・独立期にある。   ここで吉田は、西側自由主義陣営の一員になるという基本戦略を堅持しつつ、アメリカの要求する軍備拡大路線には意外な抵抗力を発揮する一方で、全面講和要求を無視して単独(多数)講和・米軍駐留容認路線を推進した。   それらは確かに、「ワンマン宰相」吉田の強力なリーダーシップに負うところが大きく、その際に顕著にみられた強権行使型の政治行動は、吉田の体内から戦前的体質が過ぎ去ろうとしなかったためだ、と解釈されることが多い。   この説明はわかりやすいが、しかし、必ずしも正確とはいえないように思われる。 吉田は、分裂気質を有する明治憲法体制が統帥権の重圧によって機能不全に陥っていった、昭和戦前期の政治の特質を身をもって体験した人物のひとりだったはずなのである。   首相時代の吉田は、高揚する労働運動の指導者たちを「不逞(ふてい)の輩(やから)」と罵(ののし)り、全面講和論を唱える知識人を「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と切って捨てるなど、数々の刺激的言辞を弄(ろう)した人物としても有名である。 吉田は、苛立(いらだ)ちや好悪の感情を表出しがちな政治家だった。   こうした個性は、彼について語る人をますます能弁にさせる要因にもなっている。 ここでは最後に、作家の今日出海(こんひでみ)による分析を紹介しておこう。   彼は弁解しない人であると同時に、気長に説明したり、辛抱強く待つことをしない。 何故だろうと訝(いぶか)ることはない。 これが彼の性格なのだ。 ……ものの現実(リアリティ)が見える人は、弁解も説明も、法螺(ほら)も吹けないものだ。 だから自己宣伝も出来ないし、言うことはいつも一言につきてしまう。 あとは冗談か、饒舌(じょうぜつ)で紛らすより手はなくなるのである。   *全面講和論 1951年のサンフランシスコ講和会議前後の時期に、理想主義的な立場から展開された、日本の講和・独立をめぐる議論。   吉田茂首相は、冷戦激化の国際情勢のもとではアメリカ主導型の講和もやむなしという現実路線を選択していったが、当時の社会党左派や共産党、そして知識人たちは、ソ連・中華人民共和国を含む全交戦国との講和をめざすべきだという全面講和論を主張。 しかし、革新陣営側の対立・混乱も激しく、政府に危機感を感じさせるような政治運動には発展しなかった。   【主要参考文献】 ■高坂正尭『宰相吉田茂』(中公叢書、1968年→中公クラシックス、2006年) ■猪木正道『評伝吉田茂』(全3巻、読売新聞社、1978~1981年→ちくま学芸文庫、1995年) ■今日出海『吉田茂』(中公文庫、1983年) ■ジョン=ダワー『吉田茂とその時代』 (全2巻、TBSブリタニカ,1981年→中公文庫、1991年・改版2014年) ■吉田茂記念事業財団『人間吉田茂』(中央公論社、1991年) ■吉田茂記念事業財団『吉田茂書翰』(中央公論社、1994年) ■北岡伸一『政党政治の再生』(中公叢書、1995年) ■原彬久『吉田茂』(岩波新書、2005年) ■井上寿一『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書、2009年)

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    • 日本史の基本106(23-5 天文法華の乱)

      23-5 天文法華の乱   1536年の天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)は、京都町衆(ちょうしゅう)を中心とする日蓮宗(にちれんしゅう)の信者と、延暦寺(えんりゃくじ)を中心とする荘園領主勢力とが衝突し、日蓮宗側が敗北した戦いである。   この時期、京都の町衆社会では、6代将軍足利義教(よしのり)のころに戦闘的な布教活動を展開した日親(にっしん)の力もあって、「題目の巷」(だいもくのちまた)と呼ばれるほど日蓮宗が大きな影響力をもっていた。   彼ら町衆は法華一揆(ほっけいっき)を形成し、1532年には一向一揆(いっこういっき)と対決して京都の自衛・自治を進めていたが、この天文法華の乱での敗北によって、法華一揆には終止符が打たれ、また数年の間、京都では日蓮宗を禁教(きんきょう)とする措置がとられた。

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  • 26 Apr
    • 吉田茂(1878.9.22~1967.10.20)②

      ■頓挫・横槍・独房・短命   1906(明治39)年、28歳になってから外務省に入省した吉田は、年齢上のハンディに加えて満州などでの勤務期間が長く、典型的な出世コースは歩めなかった。 昭和初期、田中義一(ぎいち)内閣時代に次官に就任したものの、英米協調の枠組を遵守(じゅんしゅ)しながら日本の大陸権益の防衛を図る外交路線(いわゆる強硬外交)は、内閣の崩壊とともに頓挫(とんざ)していく。   その後、広田弘毅が組閣を担当した際には外相に擬せられたが、陸軍の横槍で果たされず、1936(昭和11)年から1938年にかけての駐英大使時代には、日英提携の道を独力で追求するが、これも、大勢に抗する影響力はもちえなかった。   こうして1939年、吉田は外務省を退官する。 岳父(がくふ)牧野伸顕(のぶあき)(大久保利通の次男で内大臣などを歴任)との関係もあり、以後の吉田は、現状維持派の一員として動いていった。   しかし、ここでも挫折の色が濃い。 著名な事例に、宇垣一成(かずしげ)擁立工作や米駐日大使ジョセフ=グルーへの情報提供、そして戦争末期における「近衛上奏文」(共産革命を避けるために戦争を早期に終結させるべきだと提言)への関与などがあり、とうとう1945年4月には、憲兵隊に拘束(こうそく)され独房に放りこまれることになった。   敗戦後、外相に就任した吉田は、1946年5月には首相となって政治の表舞台に本格的に登場するが、その過程は多分に偶然の要素の強いものだった。   第一次吉田内閣は、鳩山一郎の公職追放によって成立した。 この内閣は、GHQとの信頼関係の点でも、社会的混乱への対応という点でも、その本領が発揮されたとはいえず、憲法の制定、傾斜生産方式の策定などを行ったが短命に終わった。   *広田弘毅(1878~1948) 外交官・政治家。   少年期から九州の国家主義的団体玄洋社との関係をもち、吉田茂と同期で外務省に入省。 斎藤実・岡田啓介両内閣の外相を経て、1936年の二・二六事件後に内閣を組織した。 この内閣は、陸軍統制派の圧力のもとで、軍部大臣現役武官制復活・日独防共協定調印などの諸政策を実施。   第二次大戦後、広田はA級戦犯容疑者として起訴され、文官ではただ一人絞首刑となった。   *ジョセフ=グルー(1880~1965) アメリカの知日派外交官。   1932年に日本に着任して以降、長期にわたり、日本の政界内の親英米派・現状維持派を鼓舞して日米対立の激化を防ぐという宥和的・妥協的立場から、両国間の関係調整に尽力した。 また、対日占領に際してトルーマン大統領に天皇制の存続を進言したことでも知られる。

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    • 【東大教室】テキスト到着!?

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   東大教室・テキスト➊が受講生のもとにほぼ届いたようです(学研プライムゼミLIVE)。 「奈々」さんに続いて、何人かの方がブログでとりあげてくれました。   ■「ねこ」さんのブログ  → 東大教室テキスト&Sapiens到着!   ■「未来の東大生」さんのブログ  → うちにも…   どうもありがとう。   「【受講生の皆さんへ】東大教室(東京)あれこれ」という記事で予習をするよう伝えましたが、そのための時間が必ずしも十分にはとれない時期のテキスト送付になってしまいました。   だれもが直ちに推測できるとおり、僕のテキスト原稿作成能力が迅速さに欠ける(客観的にみると多分「ノロい」)のが原因です。 大変申し訳ありません。   次回は、もう少し早く手元に届けられるよう奮闘したいと考えています(東京会場:6月18日)。 ただ、それはあくまでも願望で、自信をもってそう宣言できるかと問われると、何やらにわかに暗雲が……。

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  • 25 Apr
    • 日本史の基本105(23-4 堺・博多・京都)

      23-4 堺・博多・京都   自治都市としての性格をもつ代表的な都市として、堺(さかい)・博多(はかた)・京都などが知られている。   ➊ 堺 遣明船(けんみんせん)の発着港となり、大陸との貿易港として発展。 36人の会合衆(かいごうしゅう)が町政を運営した。   ➋ 博多 大内氏(おおうちし)による遣明船派遣の拠点。   博多商人たちも朝鮮・明・琉球・東南アジアとの貿易に従事した。 12人の年行司(ねんぎょうじ)が町政を運営した。   ➌ 京都 町衆(ちょうしゅう)(富裕な商工業者)を中心とした自治的団体である町(ちょう)が成立した。 それぞれの町は町法(ちょうほう)を定めて生活や営業活動を守り、さらに町政全体は、町衆から選ばれた月行事(がちぎょうじ)によって自治的に運営された。   【堺】

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    • 日本史の基本104(23-3 都市の発展)

      23-3 都市の発展   戦国時代には、商業活動の発展にも支えられて各地で都市の建設が進み、その繁栄が顕著になった。   ➊ 城下町(じょうかまち) 戦国大名の居城(きょじょう)を中心にして形成された。 家臣のほかに商工業者の集住も促され、領国の中心として発展した(朝倉氏(あさくらし)の一乗谷(いちじょうだに)、大内氏(おおうちし)の山口など)。   城下町では、しばしば特権的な商工業者の存在(市座(いちざ))を排除して営業の自由などを認める楽市令(らくいちれい)が発せられ、経済の活性化が図られた。   ➋ 門前町(もんぜんまち) 参詣者(さんけいしゃ)が多数往来する寺社の門前に形成された。   ➌ 寺内町 浄土真宗(じょうどしんしゅう)(一向宗(いっこうしゅう))の寺院=本願寺(ほんがんじ)を中核として形成された都市。 商工業者・農民など門徒(もんと)が多数群集して経済的に繁栄した。   都市周辺部には塀(へい)や石塁(せきるい)が築かれ、自由な商業取引を原則とする楽市として存在するものも多かった。 代表的な寺内町には、山城国山科本願寺(やましなほんがんじ)(1479年から1532年にかけて本願寺設置)、摂津国石山本願寺(いしやまほんがんじ)(1532年に山科から本願寺移転)などがある。   【山科寺内町要図】

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    • 吉田茂(1878.9.22~1967.10.20)①

      ■決断と個性と   太平洋戦争後の連合国軍による対日占領の開始から、日本が講和・独立へと至る時期に、通算七年余にわたって政権を担当した、外交官出身の政治家。   吉田が今日もなお、多方面から注目を浴び続けている理由は、いうまでもなく、彼の首相時代の諸政策が以後の日本の進路を決定づけた点にある。 しかし、そうした単純な事情だけでは十分ではないようだ。   吉田の場合、自らの政治行動はすべて彼独特の人格によって彩色されていた。 吉田に関する文献に収録されている写真や人物スケッチは、まるで専属の演出家が注文をつけたかのように表情の変化が激しく、それだけでも十分に、あれこれの人間像を連想させるものになっている。   吉田の政治姿勢は、「民衆蔑視」、「貴族趣味」といった形容句でしばしば説明されるが、一方、どこにでもいる庶民的な好々爺(こうこうや)の笑顔を浮かべた姿も印象に残る。 また吉田政治は、批判者から「アメリカ一辺倒」などといった激しい攻撃にさらされたが、いかにも「東洋の大人(たいじん)」的な風格を漂わせた、絵になる顔も少なくない。 決断と個性とが時に衝突しながらも分かちがたく結びついている、その魅力が何度かの吉田ブームを到来させた一因なのだろう。   外務省時代の吉田を一言で要約すると、政治的には中国通の親英派、経歴の点では志を遂げられなかった外交官、に分類される。

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  • 24 Apr
    • 藤山愛一郎(1897.5.22~1985.2.22)③

      ■泥と光沢と   第二のステージは、1960年代前半に続けられた自民党総裁への挑戦だった。 総裁選には2度出馬して敗北し、池田勇人首相引退後の1964年11月に、3度目のチャンスが到来する。   この時は、藤山政権が現実味を帯びた一時期も生まれるが、党内での「常識では判断できない複雑な動き」を経て、結局、後継総裁の指名獲得に失敗した。   この過程で、大量の株、品川区白金台の約1万坪の土地、ルノワール・ピカソ・岸田劉生・梅原竜三郎といった「各作家の代表作で一級品ばかり」の絵画など、莫大な財産が費消されていく。   藤山は「使い方という点ではほかの人と違いはなかった」と率直に述べているが、この戦略の欠如こそが、巨額資金の投入にもかかわらず、政権の座を遠いものにした要因の1つだった。   もしも藤山が、強力な政策ブレーンを組織したり、政界裏工作にたけた人物を集中的に同志化するなど、彼の政治家としての弱点が克服されるような行動を一貫してとっていれば、政界での評価も異なったものになっていただろう。   以後、失意の藤山は日中友好の推進へと政治的関心を移していった。これが彼の第三ステージとなる。   藤山は実業家時代にも何度か訪中を経験しており、中国との関係を戦前から育てていた。 日中戦争開始後には、上海日報社長を動かし、「中国の新聞・雑誌で日本に関する記事が載っているものをひとつ残らず集めて」いる(いわゆる「藤山シナ文庫」)。   佐藤栄作政権期に、藤山は、中華人民共和国政府との関係改善をめざした。 1966年、中国の国際連合代表権問題で佐藤首相を批判する発言を行い、1970年には超党派の日中国交回復促進議員連盟の会長に就任。 前後して、周恩来との会談も重ねた。   そこは当時、永田町の深海とは異なり、手練手管(てれんてくだ)があまり意味をもたず、藤山の素人感覚が十分効果的な未知なる世界だった。 泥に汚れた「絹のハンケチ」も、晩年にようやく、いくらか光沢(こうたく)をとり戻すことに成功したように思われる。   *池田勇人(1899~1965) 大蔵官僚出身の政治家。吉田茂のもとで政治基盤を築き、1960年7月、安保闘争直後に内閣を組織。   首相となった池田は、「寛容と忍耐」をスローガンに、政治の季節から経済の季節への転換を図り、所得倍増計画を提唱して経済成長を政策面から促進していった。 4年余にわたって政権を維持したのち、1964年のオリンピック東京大会終了直後に辞意を表明。池田は後継者に佐藤栄作を指名した。   *中国の国際連合代表権問題 国連の原加盟国で常任理事国の資格をも有する中国の正統政府を、中華民国(台湾)政府とするか中華人民共和国(北京)政府とするかという、国連を舞台とした論争をさす。   長期にわたって国連総会は議論と駆け引きを続けたが、ニクソン米大統領の北京訪問計画発表後の1971年10月、北京政府を正統と認めるアルバニア型決議案が可決された。   【主要参考文献】 ■藤山愛一郎『政治わが道』(朝日新聞社、1976年)

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    • 日本史の基本103(23-2 戦国大名の領国支配)

      23-2 戦国大名の領国支配   戦国大名(せんごくだいみょう)は、家臣団(かしんだん)統制や領国支配のための政策を次々に打ちだしていった。   ➊ 指出検地(さしだしけんち) 土地の面積・収入額・耕作者などを記した土地台帳を、家臣などに提出させる自己申告方式の検地。 これにより、戦国大名は農民と土地に対する直接支配の方向を強化していった。   ➋ 貫高制(かんだかせい) 領国内の土地・地代などを銭に換算した数値を貫高(かんだか)といい、領国の直接支配をめざす戦国大名は、この貫高を、農民から年貢(ねんぐ)を集め、また家臣に軍役(ぐんやく)を課す際の基準とした。   なお、この点については、「教科書の研究(貫高制)」も参照してみてほしい。 l ➌ 寄親・寄子制(よりおやよりこせい) 戦国大名は、家臣らの城下町(じょうかまち)集住政策を進めると同時に、家臣団にくみいれた多数の地侍(じざむらい)(村落指導者であると同時に大名などと主従関係(しゅじゅうかんけい)を結んで侍(さむらい)身分を獲得した者)を有力家臣に預けるかたちで組織化した。 これを寄親・寄子制といい、この制度を機能させることで、鉄砲(てっぽう)や長槍(ながやり)など新しい武器を使った集団戦の遂行を図っていった。   ➍ 分国法(ぶんこくほう) 戦国大名のなかには、領国支配の基本法である分国法を制定する者も現れ、多くの分国法には喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)が規定された。   喧嘩両成敗法とは、私的に武力を行使した者を、理由を問わずに双方とも処罰することをいい、そこには、国人一揆(こくじんいっき)などの私戦(しせん)を禁止し、大名の裁判による解決を強制することで、領国の平和を実現する意図があったと考えられている。 この姿勢は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)がうちだした惣無事令(そうぶじれい)にもうけつがれることになる。   ➎ 富国策 戦国大名は、(a)城下町の建設、(b)大河川の治水・灌漑(かんがい)、(c)商工業者の結集、(d)交通制度の整備、(e)商業取引の円滑化(関所(せきしょ)廃止・市場(いちば)開設など)、(f)鉱山の開発(→この過程で金銀の生産量が激増した)などを積極的に推進した。

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    • 【門戸開放】“東大教室”

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   「奈々」さんがブログで東大教室のテキストをとりあげてくれました。 どうもありがとう↓。   「奈々」さんはまだ高校2年生。 果敢に高いレベルをめざしてほしいと願っています。   昨年も、(自称「もうすぐ還暦を迎える」)「とうだ いりゅう」さんから、「まっくん」の娘さん(中学生)まで、幅広い層の参加がありました。   すでに10年以上前からひしひしと感じていましたが、このいわば教育の“無学年制”的傾向は、社会の仕組みとは関係なく(正確には仕組みをなかば公然と無視して)、今後もさらに加速していくだろうと思います。   いろいろな議論が可能です。 ただ、たとえどんなに早くても、またいかに遅くても、ヒトは学びつづけることができる動物です。   相変わらず、やや大げさな言い方で申し訳ないのですが、人類総体の運命も個々人の未来も、“学びつづけるヒトをどれくらい輩出できるか”に決定的に左右されることになるはずです。

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  • 23 Apr
    • 藤山愛一郎(1897.5.22~1985.2.22)②

      ■安保条約改定時の外相   彼の主な政治活動は、大きく3つのステージにまとめることができる。   第一は、安保条約改定時の外相である。 入閣を要請した岸との関係は、戦前の統制経済期に形成された。   1944年、重臣・海軍勢力とともに東条英機内閣打倒に動いた藤山は、内閣不一致をつくりだす工作を岸国務相に直接依頼したという。 両者の因縁は相当の深度をもっていた。   外相としての藤山は、1958年9月のダレス米国務長官との会談で交渉開始の合意をとりつけ、以後、帝国ホテルを利用した秘密交渉を継続するなど、新安保条約実現に努力を傾けた。   交渉過程での役割は決して小さなものではない。 にもかかわらず、今日、この問題が藤山とともに語られることは一般的に多いとはいえず、また、安保闘争時にも、当事者たる藤山外相はほとんど攻撃の対象にならなかった。   藤山サイドに視点をおくと、反岸感情に支えられた安保闘争の性格をよく見通すことができる。   *ダレス(1888~1959) 冷戦下におけるアメリカ外交の推進者。   トルーマン政権下で国務省顧問として対日講和を推進したのち、アイゼンハワー大統領のもとで国務長官に就任。 ソ連とその同盟国に対する「巻き返し政策」や、核攻撃能力の優位を前提とした「大量報復戦略」などを唱えた。

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    • 【例の新刊】“届いたーっ!”

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   「未来の東大生」さんが、綱島将人『現役東大生が伝えたい やってはいけない勉強法』をとりあげてくれました。↓   僕のところにも、昨日到着。 読破しました。 大学受験に真剣に向き合う者全員を対象にした、とても汎用性の高い本になっています。   何度もくりかえしてきたことですが、大半の高校生にとって、受験は基本的には短期決戦。   方法論を見定めたら、装備を整え、何度か迂回路を通る必要もあるだろうと覚悟しつつ、いいかえると、ココロとアタマの“しなやかさ”を失わないようにしながら前進しましょう。

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    • 【受講生の皆さんへ】東大教室(東京)あれこれ

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   東大教室(東京・春期講座、本日受付終了・4月29日実施)を受講する皆さんに、いくつか伝えます。   1 予習について   テキスト➊(春期講座用・東京会場)には、8題の問題が掲載されています。 そのうち、4題(予習問題)には“思考のためのヒント”・“解説”・“解答例”などが付属しています。   日本史の場合、入試本番で1題に使える時間は最大20分。 8題×(15分~30分程度)=120分~240分程度、を思考の時間にあてようと考えてください。 そのうえで、4題(予習問題)については、“思考のためのヒント”・“解説”・“解答例”を必ず熟読しましょう。   いうまでもないことですが、ここまでが受講の際の前提です。   2 論述の基本   第2章7に“論述の基本”(全時代)が掲載されています。 使い方は自由ですが、コピーをとっておくと自在度が拡大します。   なお、テキスト➊の構成については、東大教室・春期講座 テキスト➊(目次)を参照してください。   3 今後の日程   学研プライムゼミLIVE・東大教室(日本史・東京会場)については、前期講座・夏期講座の日程が決まりました。 取り急ぎ、伝えます。   ■前期講座(中世)  → 6月18日(日) 午前10時開始   ■夏期講座(中世・近世・近代)  → 8月7日(月)・8日(火) 両日とも午前10時開始   受講を検討している皆さん。 【緊急告知】東大教室(大阪)の日程にも同様のことを記しましたが、この日時を前提にして、“夏”の計画を立案してください。   東大教室(日本史・東京会場)に関するその他の情報については、次の記事を参照してもらえれば幸いです↓。 ■【東大教室】2017 作成テキスト一覧 ■【東大教室】2017 カリキュラム(東京会場)

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  • 22 Apr
    • 藤山愛一郎(1897.5.22~1985.2.22)①

      ■「絹のハンケチ」   財界二世として活躍し、のち政界へと転身した実業家・政治家。 政治活動に巨額の私財を投じ続け、その大半を失ったところから、しばしば「井戸塀政治家」と称される。   藤山雷太(らいた)(大日本製糖の経営再建などを果たした財界人)の長男として生まれた藤山愛一郎は、肋膜炎のため、慶応義塾大学中退を余儀なくされるが、まもなく、父から社長業の修業を施されるようなかたちで実業家としての道を歩みはじめた。   1920(大正9)年、30代前半で大日本製糖社長に就任し、1941(昭和16)年には日本商工会議所会頭になっている。   のち、岸信介首相に乞われて外相に就いた際、彼は、自分の関係する会社の役員などを整理する決断を下すが、それは、「私が返上した肩書は全部で二百二にのぼった」という規模だった。   大日本製糖社長就任時に、彼は、次のような社員向け演説を行っている。   私がもし諸君の前で勤倹貯蓄を説いたら、諸君は必ず笑うだろう。 それは笑うのがあたりまえである。 私はサラリーマンのやわ肌も、そのあつき血潮も知っていない。 あつき血潮にふれないで、諸君の家庭の米びつの米がどうなっているかも知らないで、倹約せよとか貯蓄せよとか、社員の道を説くのはおかしな話である。 ……また、働いても働いても楽にならない啄木のような苦労をなめたこともない。 しかし、そういうことは何も知らないのだから、諸君のいうことは虚心坦懐(きょしんたんかい)になんでも一応聞いてみよう。 とにかく何も知らないということで自分の前に現れているこの社長を買ってほしい。 私は偉そうなことはいわないし、また、いえもしない。 ……しかし、仕事だけは一生懸命にやる。 ……どうかこの社長を買って下さい。   この陽性の素人感覚は、還暦を迎えてから政治家としての道を選択したのちも、変わらなかった。   彼の醸(かも)しだす雰囲気は、相対的には人々に愛されたし、辛口の評論家大宅(おおや)壮一に「絹のハンケチ」という洒落た藤山評をも生みださせた。   そして逆に、永田町の内部では、「藤山派は……衰微の一途を辿った」と自ら回想せざるをえないような苦境が、だからこそ常態化していったのである。   *井戸塀政治家 井戸塀とは、屋敷まで手放して政治資金を捻出したため、あとに井戸と塀だけが残された状態のこと。 政治活動のために財産を使い尽くした政治家の形容句。

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    • 【緊急告知】東大教室(大阪)の日程

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   お待たせしてしまいましたが、東大教室(大阪)の日程が決まりました(合格ガイダンス・夏期講座)。 取り急ぎ、伝えます。   ■合格ガイダンス  → 6月17日(土) 午後の時間帯に実施   ■夏期講座(古代~近代)  → 8月9日(水)~11日(金) 3日間とも午前10時開始   受講を検討している皆さん。 この日程を前提にして、“夏”の計画を立案してください。   6月17日“合格ガイダンス”の会場は、大阪工業技術専門学校を予定しているとのこと。 詳細については、わかり次第、またブログにも記します。 公式HPも、まもなく更新されるだろうと思います。   なお、この学研プライムゼミLIVE・東大教室(日本史・大阪会場)のカリキャラムなどについては、次の記事を参照してもらえれば幸いです↓。 ■【東大教室】2017 作成テキスト一覧 ■【東大教室】2017 カリキュラム(大阪会場)

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    • 有沢広巳(1896.2.16~1988.3.7)③

      ■「自覚するインサイダー」として   敗戦直後、有沢は、幼い娘の死をきっかけに日記(1945年9月~12月)を認(したた)めている。 それは、急転しながら混乱を続ける社会の鋭敏な観察記録になっていて印象的である。   「敗戦日本のみじめさをハッキリ認識し、そこに至らしめた勢力に対して国民が憤激するようでないと真のデモクラシーは生まれない。 デモクラシーは気力ある国民のみが享受しうる政治である」 (9月24日) 「今日日本の思想家、言論人、政治家は右翼も左翼もすべてが左に向き、我れ先きに左に左にと先き走ってゐる。 この空すべりの潮流の中において自分はどこに位置すべきか。 否どこに位置して物を云ふべきか。 ……嘗(かつ)てのやうに自分たちは左翼的進歩的の筆者ではなく、むしろ中庸の地位に位する執筆者となるのではなからうか。 自分の現在の日本の進み方について抱いてゐる思想から云へば左へ左へと先き走る現下の思潮からみて、さういふことになりさうである」 (10月13日) 「自分のスタンドポイントをどこにおくか……むしろ保守派の地位にあって自由主義の上すべりを慎みたい。 ……進歩を促進する保守派でありたい」 (10月19日)   1945年11月に東大への復帰を果たした有沢は、以降、日本経済の再建にも全力を傾注する。   この時期の提言としては傾斜生産方式(石炭・鉄鋼両部門中心に資金・資材を集中投入する経済計画)が著名だが、有沢の全仕事から眺めれば、これも一小部分に過ぎない。 それほどに、彼の活動は精力的である。 おそらくそれは、「自覚するインサイダー」としての意志に支えられたのだろう。   1956年、有沢は東大を定年退官した。   この時の最終講義で、有沢は、「戦後日本資本主義の新たな岩盤を貫き通すボーリングのような、鋭く透徹した研究」と「一つの研究がそれに基いて、つぎつぎと新しい多くの研究をよび起すというようなパイオニア・ワーク」の実現を、「若い研究者諸君」に呼びかけた。   この後も、旺盛な研究・執筆活動を展開しつつ、法政大学総長・石炭鉱業調査団団長・原子力委員会委員長代理などを務めた有沢の姿から判断すると、この呼びかけの対象はその人自身でもあったように思われる。   【主要参考文献】 ■有沢広巳『学問と思想と人間と』 (毎日新聞社、1957年、のち『有澤廣巳の昭和史』東京大学出版会、1989年所収) ■長岡新吉『日本資本主義論争の群像』(ミネルヴァ書房、1984年) ■有沢広巳「歴史の中に生きる」(『有澤廣巳の昭和史』東京大学出版会、1989年所収)

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  • 21 Apr
    • 【新刊】『現役東大生が伝えたい やってはいけない勉強法』

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。     綱島将人『現役東大生が伝えたい やってはいけない勉強法』(学研プラス)が、もうすぐ僕の手元にも届きます。     この新刊は、面白そうです。 世の中は、皆さんのアタマを(そうではないとカモフラージュしつつ)硬直させる言説に満ちていて、“できるヤツ”が身につけている方法論はしばしばパラドキシカルだからです。   入手したら、もう少し詳しく内容を紹介しますね。    

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