問題は、「200字論述新研究32(問題13・14)」で確認してください。

 

問題14 解説

 

戦国大名の登場と成長

 

応仁の乱(1467~1477)後に本格化した下剋上の世の中は、一方で、地域に根をおろした実力ある支配者の台頭を促していった。

争乱の過程で、守護大名守護代国人などさまざまな階層の武士たちのなかから、頭角を現す者が登場することになる。

 

みずからの実力で領国(分国)をつくりあげ、独自の一元的な領域支配を実現した者を戦国大名といい、彼らの多くは、次のような政策を実行して領国支配を強化していった。

 

戦国大名の領国支配

 指出検地

土地の面積・収入額・耕作者などを記した土地台帳を、家臣(国人や地侍)などに提出させる自己申告方式の検地

これにより、戦国大名は農民と土地に対する直接支配の方向を強化していった。

 

なお、地侍とは村落指導者であると同時に大名などと主従関係を結んで侍身分を獲得した者をいう。

 

 貫高制

領国内の収入額などを銭に換算した数値貫高といい、領国の直接支配をめざす戦国大名は、この貫高を、農民への年貢賦課と家臣への軍役賦課の基準とした。

ただし貫高制は、自己申告方式の検地(指出検地)を前提としていること、自立性の強い家臣の所領を検地できなかった例もあることなど、なお不徹底で過渡的な性格が強かった。

 

 寄親・寄子制

戦国大名は、家臣らの城下町集住政策を進めると同時に、家臣団にくみいれた多数の地侍を有力家臣に預けるかたちで組織化した。

これを寄親・寄子制といい、この制度を機能させることで、鉄砲や長槍など新しい武器を使った集団戦の遂行を図っていった。

 

 分国法

戦国大名のなかには、領国支配の基本法である分国法を制定する者も現れ、多くの分国法には喧嘩両成敗法が規定された。

 

喧嘩両成敗法とは、私的に武力を行使した者を、理由を問わずに双方とも処罰することをいい、中世社会に存在した自力救済の観念を否定する性格をもつものだった。

そこには、国人一揆などの私戦を禁止し、大名の裁判による解決を強制することで、領国の平和を実現する意図があったと考えられている。

この姿勢は、豊臣秀吉(1537~1598)が打ち出した惣無事令にもうけ継がれることになる。

 

 富国策

戦国大名は、城下町の建設、大河川の治水・灌漑、商工業者の結集、交通制度の整備、商業取引の円滑化(関所廃止・市場開設など)、鉱山の開発(→金銀の生産激増)などを積極的に推進した。

 

続きの解説は、「200字論述新研究36(問題14を考える➋)」をご覧ください。