第二百九十二話 黒猫タクシー・けんか編
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「何なのよっ、ばかーーーー!!」
人目も気にせず、あたしは叫んだ。
急発進していく、あいつの車に向かって。
あいつは大人げなく怒って、怒鳴って、あたしのバッグを外に放り投げ、ひとりで行ってしまった。
道行く人が驚いてあたしを見ている。あたしは、ぐずぐず洟をすすりながら、道端に投げ捨てられたバッグを拾った。
そして、じっと手を見て。
あいつに貰ったごっつい指輪を、ひっこ抜いて。
思い切り歩道に、叩き付けた。
* * * * *
夜の街は寒い。薄着で出てきてしまったあたしは、肩を抱えるようにして、よろよろ歩いた。
悔しくて悲しくてボロボロ涙が落ちる。きっとひどい顔してるんだろうと思う。
でも化粧直す気にもなれない。髪だってぼさぼさのままで構わない。
別に誰に見られたって、どうでもいいんだ。
「へ、へっくちん」
寒い。わびしい。どうしよう。
このまま歩いていてもしょうがない。どっかの店に寄る気分でもない。
こんなかっこうで、電車に乗って帰るのもハズカシイ。
タクシー拾おう。あたしは通りに乗りだして手を挙げた。
でも、こんな夜中の繁華街で、道行くタクシーを拾うのは大変だ。客を乗せたタクシーが、ずんずん目の前を通り過ぎていく。
「とまって、とまってよう」
大きく手を振っても、ぜんぜん止まってくれない。あたしはよけいに悲しくなって、その場にしゃがみこんでしまった。
寒い。わびしい。悔しい。なんなの一体。
罪のないバッグを歩道に叩き付けた。中でなにかが、がしゃりと壊れたような音がした。
ふと顔を上げる。
目の前に、でっかなネコの顔がある。マンガみたいな黒猫の顔だ。
その顔の横には「TAXI」の文字が。
はっとして立ち上がると、大きな黒塗りのタクシーが、あたしの真ん前に停まっていた。
いつのまに来たんだろう。と考える暇もなく、重そうな扉が開いて、あたしを迎えた。
一瞬だけど、扉の黒猫が、にかっと笑った、ように見えた。
* * * * *
「お客さん、どちらまで」
頭の禿げ上がった運転手のおじさんに、あたしは自宅の住所を告げた。
音もなくタクシーは、するすると車の流れに合流してゆく。
「今夜はにぎやかですねえ。世の中連休ですからねえ」
おじさんは、なんだか楽しそうに言う。あたしはそれには応えずに、目の周りをぬぐい、洟をかんだ。
「おや、どうしました。悲しい芝居でも見てきたんですか」
そんな冗談に反応する気にもなれない。それに、ミラー越しにちらちら見られていると思うと、なんだか気恥ずかしくて、あたしは下を向いてしまった。
「あたしは芝居が好きでしてねえ。イシカワサ◎リちゃんが出ている「津軽海峡海猫節」って、帝◎劇場でやってるんですわ。これがまた、泣ける話でねえええ。ぐずっ」
おじさんはひとりで話して、ひとりで泣いている。運転中なのに。
「そういう時にゃあね、ティッシュひと箱抱えていくんですよう。何度見たって、スジが判ってたって、ああ来るぞ来るぞ来るぞ、ほれ来たっ!って、また泣いてしまうんですわ。いやあ、これもひとつのストレス解消でしょうかねえ」
なんだかおかしなおじさんだ。でも、あたしはまだ話をする気分じゃない。
「やっぱりねえ、たまにばーっと泣いたり笑ったりするのが一番ですよ。現代社会は感情を押し殺しちまうことが多いですから。ねえお客さん、そう思いません?」
「別にぃ」
短くそう呟いてみたが、
「おや、お客さん、やっとしゃべってくれた」
おじさんはなんだか、うれしそうだ。
「こないだ独り立ちしたあたしの娘なんかね、芝居やテレビドラマみたいに、毎日笑ったり怒ったり泣いたり、まあ忙しそうでしたなあ。あの調子でずっと暮らすのかと思うと、あたしのほうがげんなりしますが。まあ、トシとともに落ち着くんだかどうだか。でもまあ、若いってのはいいですな、エネルギイがあって」
そうしておじさんは、ふんふん、と鼻歌まで歌い出した。タクシーのスピードが上がる。車が後ろのほうに、すいすいと流れてゆく。
「そうですなあ、ちょうど、お客さんくらいのトシかなあ、あたしの娘」
「えっ、そうなんだ」
「ええ。今頃どこで、何をやってるもんだか」
ちょっとおじさんに興味が出て来たあたしは、訊いてみた。
「娘さんて、どんな感じの人」
「え? うちの娘ですか? いやあ、いまどきの若いもんって感じですよ。訳の判らない馬鹿騒ぎして、たまに彼氏とけんかして」
「そ、そうなんだ」
「ええもう、たまにとっくみあいのけんかしてましたからね。あたしも慌てて止めに入ったことが何度もありますよ」
すげえ、ワイルドな人なんだ。
「でもまあ、けんかしてもね、すぐに仲直りするのがいいところですなあ、あいつらの。翌朝にはけろっとして、またいちゃついてやがるんですよう。見ちゃいられない。かーっ」
おじさんは顔をしわくちゃにして笑う。
「そうなんだ...いいなあ」
「え? いいですか?」
「うん。すぐ仲直りできるんだもんね」
「まあねえ。原因が、たいていくだらないことですからなあ」
「そ、そうなんだ」
「そうですよう。おやつが少ないの、昼寝の場所が悪いの、毛づやが悪いの、爪が伸びすぎだの、にくきゅ...いや、手足が汚れてるだの、ほんと、たいしたことないんですよう」
「ふーん」
「そんなもんに、いつまでもこだわってても、仕方ないですからねえ」
くだらないこと、かあ。
そういえば。
あたしたちのけんかの原因、なんだったっけ。
* * * * *
「ほらここだ。うわさの餃子屋」
「わーすっごい、にぎわってんじゃん」
「だろー、こういうとこに来たら、やっぱ餃子っしょ」
「えー、あたしニラレバたべたい」
「なっ、何いってんのお前。ここはがっつりいっとけよ餃子」
「いいじゃーん、あたしが食べたいんだから」
「ん、まあいいけどな。お前が全部食うならな」
「ふんだ」
「ほうら来た来たキター! すっげ、このボリュウム、パねえっしょ」
「うわーすごっ」
「あっ、お姉さん、マヨちょうだいマヨ」
「ええええっ、何なになんでマヨなの」
「かあっ、お前知らねえの、餃子にはマヨだろ」
「何いってんのよ。餃子ったらラー油にお酢に醤油でしょ。ほらこうやって」
「げげっ、そんなにラー油入れんの! 胃がおかしくなるぞ」
「いいじゃんおいしいんだからさー」
「いんや、ぜえったいまずいってそれ。まさか小さいときからそんなん食ってんの」
「なにさ悪い?」
「だははは、お前がアホなのはそのせいか!」
「なっ、なによう」
「辛いモンばっか食ってっとアホになるんだぜ、うちの母ちゃんがいってたもん」
「ちょっとなによう、このマザコン男。マヨなんて気色悪いもん餃子にかけてるくせに」
「なんだとうこのう、レバニラなんか頼みやがって、このオヤジ女め」
「なによう」
「ちょっとお客さん」
「うるせえな黙ってろ」
がたがたがたたたたたん
* * * * *
「...うわあ...」
思い出したら、顔が真っ赤だ。
なんなんだ餃子にマヨとかラー油とか。
あたしたち、そんなことで大声はりあげて、怒鳴り合って、道端でもみ合って。
そんで
「何なのよっ、ばかーーーー」
...くっだらない...。
「...どうしました、お客さん」
「...え? ううううん、なんでもない」
三度目のデートだっていうのに。随分仲良くなったと思ったのに。
ほんと、くっだらない。なさけない。
「まあ、あっけらかんとしてるってえのも、娘のとりえのひとつですな。あたしもそうですけど」
「そ、そうなんだ」
「ええ。昔っから、けんかと泣き言はひきずらないようにしてるんですよう。そんなことにこだわってても、いいこと、ないですからなあ」
それは、そうなんだろうけどさ。
あんなにハデにけんかしたあとだから、どうやって会っていいか、判らない。
あいつだって、おんなじように思ってるに決まってる。
おんなじように。
「うまくしたもんで、娘の彼氏も、そういう奴が多いんですわ。似た者同士ってことですな」
にたものどうし、か。
そうかもしれない。
じゃあ。
「おっ、ここですな。お客さん、着きましたよ」
「えっ、もう?」
びっくりだ。へんな話してる間に、もう着いちゃった。
「あ、そうそう、今我が社のキャンペーン中なんですわ。これどうぞ」
と、おじさんは、ちいさな袋をあたしにくれた。
その袋には、
「あにゃたのおそばに 黒猫タクシー 電話222-2222」
なんて、書いてあったのだ。
「今後ともごひいきに」
にかっと笑ったおじさんの目が、金色に、光った。
* * * * *
部屋に帰って、ベッドにごろんと寝転んでみる。
そして、さっき貰った袋を開ける。すると、
「ちょうどおふたりさま用 ハニャかつおパック」
なんてのが出てきた。
「ぷぷっ、なにこれー」
おかしい。どうしろってのこれ。
あんまりくだらなくて、おかしいので、あたしはかつおパックの写メをとった。そして、
「餃子にはマヨ厳禁」
と書いたメールに添付して。
けんか別れしたばっかりの、あいつに送った。
三十秒後。
メールが返ってきた。
「デートん時はニラレバ禁止」
だって。
「あはははははははは、ばーーーーーか」
あたしは笑った。大声で。
くだらなくておかしくて。
たぶんあいつも、そうなんだろう。
にたもの同士。たぶん、きっと、そう。
おしまい
※ 第百四十九話 黒猫タクシー・ラーメン編
第百七十一話 黒猫タクシー・乗逃げ編
第二百四十一話 黒猫タクシー・こども編
も どうぞ。
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