第百四十九話 黒猫タクシー・ラーメン編(35歳 男)
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しゅぼっ。
湿気たゴールデン・バットに火を点け、俺は新宿のビル群に向かって煙を吐き出した。
ヤバい仕事の後には、この脂臭い煙草が似合う。
煙が空に舞い上がっていく。
その向こうから、白いものがちらちらと落ちて来る。
俺の心に降り積もるように。
柄にもねえ。センチなことを考えちまった。
ふと俺は視線を落とす。目の前には。
潤んだ目の女が、深刻そうに、俺をじっと見つめている。
そんな顔すんなよ。俺は微笑んだ。
「あの、すみません、ボッとしてないで、ちゃんと列詰めてもらえます?」
「...」
そう、ここはタクシー乗り場。
しかも長蛇の列だ。
少し雪が降ると、いつもこれだ。
「けっ」
俺は列から外れて、裏通りへと向かった。
* * * * *
「うう寒い」
雪まじりの北風が、こんな路地まで入り込んで来やがる。俺は帽子を目深に被り、トレンチコートの襟を立てて、肩をすくめながら歩いた。
こつこつ、こつこつ
俺の足音が、人気のない路地にこだまする。
しかし困った。終電はとうに過ぎてしまった。ヤバい仕事の後には決まって、こんなふうに情けない状況が俺を待っている。
早く部屋に帰りたいのに。五匹の猫たちが待つ部屋に。
そして、録画しておいた「ポチ◎まペット大集合 ブサかわにゃんこ大特集」を見たいのに。
くそう、寒さばかりが身に沁みて来る。俺は一層センチな気持ちになった。思わず口を突いて出て来る歌は。
♪黒猫のタンゴ、タンゴ、タンゴぼくのこいび~とは黒い猫っ♪
これを歌うと、絶対年を誤魔化してるだろといつも言われる。しかしそんなことはどうでもいいんだ。誰がなんと言おうと俺はこの歌が好きだ。
♪猫の目のよーに気紛れよっ、ララララララッラーラッ♪
「お?」
路地の向こうには大通りの明かりが見える。
そしてそこには、一台の真っ黒なタクシーが。
しかもドアには、白く縁取られた猫の顔が描かれている。
「たっ、助かった」
俺は小走りにそのタクシーへと向かった。
* * * * *
こんこん。
タクシーの窓を叩くと、ばたむとドアが空いた。
「いいかい?」
「はい、いいですよどうぞ」
俺はどっかりと座席に腰を下ろし、行き先を告げた。タクシーは思いの外静かに発進し、雪の降る中を進んで行く。
「今日は冷えるね」
帽子を取りながら、俺は運ちゃんに声を掛けた。
「ええ、そうですねえ、どうやら明日の朝までにかなり積もるようですよ」
頭の禿げ上がった運ちゃんは、眼鏡をずり上げながら言った。
「そうか...じゃあ明日は電車動かないかもしれないなあ」
「そうですねえ。お客さん、明日もお仕事で」
「まあね」
「そいつぁご苦労さまです。あたしは明日休みなもんでね。へへ」
「そうかい、それは羨ましい」
「こたつに潜ってゆっくりしようと思ってますよ」
「おう、いいねえ」
運ちゃんは上機嫌だ。無理もないだろう。猫達とゆっくりこたつの中で過ごせるなら俺だって。
「お客さん、猫飼ってらっしゃるんですか」
「え? そうだけど...なんで判ったんだい」
「いえね、何となくそんな匂いがしたもんで」
「お、あんたも猫飼ってるのかい」
「いえいえ、あたしは飼いませんよ。ただ匂いには敏感なもんで」
「ふうん」
そんな会話をしている間にも、雪は激しくなって来る。窓の外は曇ってしまって、街の明かりが滲んで見えるだけだ。
「おっと」
運ちゃんが変な声を出した。そして、
「お客さん、すみませんねえ、相乗りしてもらってもいいですか」
「え?」
「いやね、あたしの常連さんが、すぐそこで待ってるもんで」
「ほう」
「向かう方向は一緒ですから。お願いしますよ」
そう言われれば嫌とは言えない。この天気だしな。
「ああ、いいよ」
「すみませんねえ。じゃ、止まります」
と、タクシーは道端にするすると寄っていった。
* * * * *
「こんばんは...あら」
「ああ、この方、同じ方向なもんで、相乗りでもいいって言ってくだすったんです」
「まあそうなんですか」
乗り込んで来たのは、ゾクゾクするくらいのいい女だ。軽い巻きの入った明るめの色の髪。大きくて物憂げな目。つやつやした唇。真っ白なコートの下からは、すらりとした足が伸びている。
「あ、いえいえ、どうぞ」
「ありがとうございます」
女は軽く会釈をして、俺の隣に座った。ほんのりといい香りが車内に漂う。
「悪いわねえ、いつも寄ってもらって」
女は運ちゃんに声を掛けた。
「いえいえ、今日は特にお帰りが大変そうだから」
「そうなの。はあ、もうお客さんがしつこくって。帰れないなら、僕の部屋に来な~い、なんて言うのよ」
「ははは、アキさんは人気者だからなあ。で、全員振り落として帰ってきたって訳ですか」
「まあね。家ではママが待ってるし。早く帰ってあげないと」
どうやら夜の商売の人らしいな。いやこんないい女なら俺だって誘う。そして母親思いのところなんか更にツボだ。
俺が見とれていると、女はこちらをちらりと見た。
「あら...。お兄さん、猫がお好きなの」
「え?」
なんで判るんだ。
「いやだ私ったら。ごめんなさいね。少し鼻がいいだけだから気にしないで」
不思議なもんだな。運ちゃんといいこの女といい。
「あなたも猫がお好きで」
「私? そうねえ、好きとか嫌いとかじゃなくて...ううん、うまく言えないわねえ」
と、悪戯っぽく笑う。その笑みがまた堪らない。
「あああ、こりゃ混んで来たなあ」
運ちゃんがぼやく。雪のせいで道が随分と詰まっているらしい。
「今日はかなり遅くなりそうですけど、いいですか」
と訊く。
「ええもちろん」
と女が答える。俺だって。
「ああ、いいよ」
「すみませんねえ。あ、そうだ」
運ちゃんは何かを思い出したらしい。
「お二人さん、こんな寒い日ですから、ラーメンでも食べてあったまっていきませんか。あたし、いい店を知ってるんですよ」
「へえ、そうなの」
「アキさんはまだご存知ないかな、甲州街道から少し入ったところにね、魚介のだしで喰わせるラーメン屋がありまして。なかなかに美味いんですよ」
「まあ」
女の目がらんらんと輝く。どうやら随分ラーメン好きらしいな。
「行きたい、行きたい」
「お客さんはどうします?」
こ、こんないい女とラーメン屋なら、お、俺だって。
「ももももちろんいいさ」
「決まりだ! じゃあ、行きますよ」
タクシーはぐるん、と不思議な方向転換をして、細い路地へと入って言った。
* * * * *
「ここです」
タクシーの運ちゃんが俺達を連れてきたのは、今にも崩れそうなラーメン屋だった。
看板の代わりに、店の前には紅い提灯が点っている。中はカウンターの七席しかない。
「わあ、いい匂い」
女は鼻をひくひくさせて喜んでいる。その表情がまたそそる。
がらがらと運ちゃんが入り口を開けた。
「いらっしゃい」
カウンターの中には、黒いバンダナを巻いて黒いTシャツを着た男がひとりいるだけだ。他に客は居ない。
俺達はカウンターの真ん中に陣取った。
「ここはね、メニューがこれだけなんですよ」
運ちゃんが指差す。
・ラーメン
(大盛りは百円増)
・冷やしラーメン
(夏季のみ/大盛り不可)
・ねこまんま
「ねこまんま?」
俺が驚いて運ちゃんを見ると、運ちゃんはにこにこして言う。
「ええ、これを最後にラーメンの汁に入れて喰うと、またうまいんですよ」
そういうものなのか。そういえば魚介系の出汁だと言ってたな。
「今日はあたしがおごりますから、好きなのをどうぞ」
「えっ、いいの? やったあ」
女は思いきりはしゃいでいる。
「じゃあ、私はラーメンとねこまんま」
「お客さんは?」
訊かれても、選択の余地はないだろう。
「同じので」
「じゃああたしも。ラーメンとねこまんま三つずつね」
「はい毎度」
店主らしき男が忙しく手を動かし始めた。
俺は女の横顔をちらりと見てみる。相変わらず鼻をひくひくさせて、カウンターの中を興味津々といった感じで覗いている。目がらんらんと輝いている。相変わらず美しいのだが、何だか凄みのようなものさえ感じる。
そんなに腹が空いてるのだろうか。
俺が女に声をかけようとした時。
「はいおまちどお」
「早っ!!」
注文してまだ三十秒くらいしか経ってないだろ。
どん、どん、どん、と俺達の前に丼が並んだ。
やや濁ったスープ、細めのちぢれ麺、煮卵、海苔、そしてチャーシュー。見た目はオーソドックスだ。焦がした煮干しのような香りが丼から立ち上って来るのが判る。
「うわー、おいしそう」
女はそう言うが早いか、髪の毛を後ろできゅっと束ねた。そして、
「いっただっきまーす」
と叫んで、
ずぞぞぞぞぞぞ
と麺を啜る。
か、かっこいい。
「むー、おいひい」
女の目が、さらにぎらぎらと輝く。
ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞ
見ると、運ちゃんも物凄い音をたてて麺を啜っている。二人とも美味そうに喰らっている。
お、俺だって。
ずず。
スープをひと口啜る。煮干しや鰹節の風味が、一気に口に広がる。
なかなか美味いじゃないか。これでネギが入ってれば言うことなしだが。
麺もなかなかだ。流石にタクシーの運ちゃんはいい店を知っている。
麺をたぐってふと横を見ると。
「はい、ねこまんま、おまちどお」
店主が差し出した茶碗には、たっぷりの鰹節が乗っていた。
さっさと麺を食べ終えたらしい女は、すかさずその茶碗をひっくり返して、
ぼちゃん。
箸でぐるぐると丼をかき混ぜ始めた。そして。
ずばばばばばばばば
一気呑みだ。
俺は呆気に取られて、口を開けたまま女を眺めるしかない。
と、
ずばばばばばばばばば
運ちゃんも同様に、丼を傾けて一気呑みしている。
何なんだ一体。
「ぷはーーーーー」
女は丼を空っぽにして息を吐き、そしてべろりと、舌なめずりをした。
色っぽいといえば、色っぽいのだが、しかし。
なんだか。
怖い。
* * * * *
「あ、ここでいいわ」
女が運ちゃんに声を掛けた。
「はい、毎度どうも」
するするとタクシーが止まる。ドアが大きく空いて、女は代金を払わないまま車を降りた。そして、
「お兄さん、ありがとね」
と、俺にウィンクした。
俺は笑みを返したつもりだ。が、きっとその表情は引きつっていたに違いない。
タクシーが走り出してから、運ちゃんは俺に声を掛けて来た。
「どうです、アキさん美人でしょう」
「え? あ、ああ、そうね」
「あたしらのアイドルなんですわ。アキさんにラーメン奢ったなんて、仲間に自慢できますよ。むふふ」
運ちゃんは御機嫌だ。確かにいい女だ。ばっちり俺の好みなんだが。
あの目。あの鼻。あの舌なめずり。
何処かで見た気がする。だが思い出せない。何処だったか。
「...きましたよ、お客さん?」
「え?」
「着きましたよ」
運ちゃんに声を掛けられるまで、俺は悶々と考えていた。駄目だ。いくら考えても思い出せない。
俺は無言で金を払って、タクシーを降りた。
「またよろしく!」
と、運ちゃんは俺に向かって、にかっと笑った。
運ちゃんの目が、金色に光った。
* * * * *
「ただいま」
「にゃーう」
「みゅー」
「ぷぎゃー」
「びーー」
「...」
五匹の猫が、俺を出迎えた。
「おー、よーしよしよし」
「びゃーう、びゃーう」
「くんくん、みゅー」
「ぷぎゃー」
「ふがふが、びいいー」
「くんくん...」
「なんだお前達、どうしたんだ」
猫達は、必死に俺の匂いを嗅いでいる。
「ぷぎゃっ」
茶トラのハンフリーが、俺の中折れ帽に飛びついた。
「あっ、こらやめろ」
はらりと落ちたその中折れ帽には。
黒い猫の毛が。
びっしりと、付いていた。
俺は怖ろしくなって、「ポチ◎まペット大集合」を見ずに、布団に潜り込んだ。
おしまい
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