第百四話 俺の爪と牙 その3(35歳 男 拝み屋)
※前々回 第百二話 俺の爪と牙 その1
前回 第百三話 俺の爪と牙 その2
※第四十三話 猫の目を見よ(42歳 女)もどうぞ。
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すっかり夜が更けちまった。
俺はとうに止めてしまった煙草を買い、ぷかぷかとふかしながら、足を引きずって歩いた。
こんな気分じゃ、女の処なんぞ行けやしねえ。家に帰って寝るとするか。
ゲンポウ爺の話だと、じいさんはあの黒猫を見せて、自分の命はもう長くないと話したそうだ。
檀王法林寺の黒猫をじいさんが買ったのは、単にじいさんの趣味だったらしい。しかし、買ったときには気づかなかった朱色の点が、寺を出てある男に肩を叩かれた後、しっかりと付いていたのだという。お前など何時でも殺せるのだぞ、という脅しに違いない。
じいさんの知った秘密が何であれ、それを手に入れるだけなら、じいさんを殺した時点で終わっている筈だ。俺を呼びつけるからには、奴らはまだ目的を果たしていないということだな。ではその目的とは何だ。じいさんが遺した物の中に、その秘密が隠されているとすれば...。
俺はまた、懐から黒猫を取り出し、しげしげと眺めた。街灯の光が猫を鈍く照らす。何の変哲も無いただの人形にしか見えない。
しかし、あの社長夫人を名乗る女の物言いや、ゲンポウ爺の話、そして俺の記憶を照合すると、この猫に全て行き着いてしまうのだ。
矢張りじいさんは、ある秘密をこの黒猫に仕込んだようだ。
ゲンポウ爺は、じいさんが何を突き止め、何をしようとしていたのか、その内容までは知らないと言う。
猫を懐にしまうと、俺は空に向かって、もんわりと煙を吐いた。
煙が空に溶けてしまうと、蒼白い星が俺の目をちくちくと刺激する。
俺は、どうすればいいのか。本当に、ゲンポウ爺の言うとおり、奴らは俺を狙ってくるのだろうか。
なぜ今なのか。なぜ俺なのか。俺の親父やお袋は何も知らないのだろうか。いや待て、「知らないことを知った」から俺のところに来た...のか。
血の気が引いた。
真逆奴らは。
俺は全速力で走って、近くのコンビニ前にある公衆電話に取り付いた。
実家の電話番号を押す。家を飛び出してもう二十年近く経っているが、憶えているもんだ。
ぷるるるるるるる、ぷるるるるるるる
心臓ががんがんと鳴る。息が荒くなる。
頼む、早く出ろ、早く出てくれ。
「もしもし」
お袋の声だ。多少弱々しくなってはいるが、間違い無い。
俺は脱力して、その場に座り込んだ。
「はああああ」
「もしもし、もしもし」
「ああ、俺だよ、ケンゴだ」
「け、ケンゴ! あんた、今何処にいるんだい」
「そんなことはどうでもいいよ。親父は」
「え? 今町内会の会議で出かけてるけど...そ、そんなことよりあんたは」
「俺のことはいいからさ」
とりあえず二人とも無事か。やれやれだ。
「あのさ、最近、家で変なことが起こらなかったか?」
「変なことって何だい」
「そうだな...不審者が来るとか...空き巣とかさ」
「あんた...いったい何をしてるんだい」
「俺は全うに生きてるよ。それよりどうなんだい」
「一週間前に...空き巣に入られたよ...たいした物は取られなかったけど」
「他には? 誰かに襲われて、怪我なんかしてないか?」
「そんなことはないよ...あんた、悪い連中と付き合ってまだ何か...」
無事ならいい。それなら俺は。
「なんでもねえよ。気紛れに電話してみただけだ」
「そんな、ちょっとお待ちよ」
「じゃあな」
「ちょっ」
がちゃり。
これで心置きなく、色々策を練られるってもんだ。
* * * * *
家の近くまでぶらぶら歩いて来ると、大通りから俺の家へ向かう小径の角に、大きな人だかりが出来ていた。
でっかなジープみたいな車が、歩道を乗り越え、ブロック塀に衝突してえらいことになっている。
救急車がけたたましい音を立てて飛んで来た。運転席にはまだ運転手が閉じ込められているらしい。
何でこんな見通しのいい処で事故なんか起こしやがるんだ。間抜けめ。
俺は心の中で毒づきながら、小径に入って家へと急いだ。
「帰ったぞ」
と俺が言うが早いか、ミドリが血相を変えて走って来た。
「先生、よかった早く帰ってきて」
「何だどうした」
「猫が、ボーボとシロが、あの」
「どうしたってんだ」
「とにかく、早く来てください!」
「おいこら何すんだ」
ミドリは俺の腕を掴んで、台所へと引っ張った。
そこには猫達の餌場がある。
その餌場の周りに、ボーボとシロが、横たわっていた。
ぴくりとも動こうとしない。
「な...」
「私が...ナターシャと買い物に出て、戻って来たら...」
ミドリは泣き出してしまった。
俺は近付いて、二匹の猫の様子を見る。
目を見開いて、舌がだらしなく垂れている。これは昔見たことがある。
ネコいらずのような毒を盛られて死んだ猫のようだ。
餌と水の臭いを嗅いでみたが、妙な臭いは全くしない。俺は水の容器を持って庭に出て、中身を池の中にぶちまけた。
五秒ほど経つと、金魚がぷかぷかと腹を見せて浮いて来た。
「畜生め」
矢張り毒か。俺は容器を池に投げつけ、縁側に戻って頭を抱えた。
奴らの仕業なのか、これも。
「あの、先生...」
「なーうん」
「んぎゃう」
ふと見ると、ミドリが不安そうな顔をして立っていた。
傍らには、ロシアン・ブルーのナターシャと、黒猫ゲンタが座って、こちらを見ていた。
「そうか、お前らは無事だったか」
俺がちょいちょいと手で誘うと、二匹は俺の側に寄ってきた。頭をかわるがわる撫でてやる。珍しくゲンタが、ぐるぐると喉を鳴らした。
「ゲンちゃんは、食器棚の上にいたんです。なんだか怯えてたみたいです」
「そうか...そうだろうな」
そういえば。
「おいミドリよ、お前、買い物に出ていたと行ってたな」
「はい、ナターシャにリードをつけて、そこの薬局まで」
「いつ帰って来たんだ」
「ついさっきです」
「その...そこの角んとこの事故は...見たのか」
「事故? ああ、何か大きな音がしましたよね。私、帰りに歩いていたら、急にナターシャが走り出して、リードを離しちゃったんです。ナターシャはもう凄いスピードで家のほうに駆けていくもんで、私も追いかけるのに必死で...。そいで、走ってそこの角を折れたところで、後ろでどかーーん!って音がして。私も音があんまり大きいんでびっくりしちゃって、ナターシャと一緒に家まで駆け込んできたんです。そしたら...」
「そしたら、あいつらが」
「はい...」
ミドリはまためそめそ泣き出した。
俺は背筋が凍った。もしナターシャが走り出さなかったら...ミドリは恐らく、あの車に...。
「なんてこった」
これも、脅しなのか。
さっさと来いと、そういうことなのか。
逃げ場は無い。ミドリもこの猫達も、俺がのこのこしていればいずれ狙われる。
じいさんの遺した、秘密とやらのせいで。
「じいさん、とんでもねえもの置いていきやがったな」
俺はどうする。俺に何が出来るってんだ。
「先生」
ミドリがまた俺を呼んだ。
「ボーボとシロ、どうしましょう...」
そうだな、そっちが先か。
「埋めてやるか...。お前も手伝え」
俺はのろのろと立ち上がった。可哀想な二匹の猫の、墓を掘るために。
* * * * *
「今日はもう、猫達と一緒に部屋に籠もってろ。朝まで出て来るなよ」
そう俺はミドリに言い置いて、自室に入ろうとした。
俺はじいさんの遺した帳面を隅々まで読んで、奴らのことを知らなければならない。そして、じいさんがどんなことを見出したのかも。
俺のぼんくら頭で何処まで判るか。しかしそうするより手立てが無い。
「あの、先生」
「何だ」
ミドリの奴、神妙な面持ちで俺をじっと見た。
「お手伝いします」
「何を」
「先生のお仕事を」
「これは仕事じゃねえよ。俺のプライベートに関わるな」
「あの社長夫人ですよね」
「なに?」
「あの人の後ろに、何かいるんですよね、とてつもなく大きなものが」
「...」
「先生のおじいさまと、その大きなものが、まだ闘ってるって」
「お前...見えるのか」
「はい」
ミドリの奴、俺を見て、一連の事件の輪郭を知ってしまったようだ。
全く、こういう時にそんな力を発揮されても、困るというものだ。
「でもな、お前に出来ることなんて、ありゃしねえよ」
「お、お茶を淹れるとか、汗を拭くとか、そのくらいはできます」
「あのな...」
「お願いです! お手伝いさせてください!」
ミドリは、土下座しやがった。
俺にそんなに恩があるわけでもねえだろうに。
ふと、昔のことを思い出した。
占い師のばあさんに拾われた時、俺も、こんなふうに土下座して頼んだんだっけ。
笑わせやがる。
「ああ、わかったわかった。じゃ、茶の用意をして、俺の部屋に来い」
「先生」
「猫の寝床や餌も、トイレもな。全部持って来いよ。朝まで籠もるんだからな。いいかナターシャ」
「は、はい!」
ミドリは何故か嬉しそうにすっ飛んで行った。
今夜は、助手ナターシャとして頑張ってもらうか。やれやれ。
まあしかし、ひとつの部屋にいるほうが、安心といえば安心か。
奴らからは、逃げられないようだからな。何処にいても。
そう、逃げるわけにはいかないのだ。
「今に見てやがれ」
俺は天井に向かってそう言い放つと、じいさんの遺品をひっぱり出し、卓に広げた。
たった三冊の帳面。俺の頼りに出来るものは、もうこの世でこれだけだ。
俺はじいさんの読みにくい文字を必死に読んだ。
時折、占い師のばあさんが遺した呪術の本を繰った。
必死に読み、考えた。
ナターシャの淹れるロシアン・ティーを啜りながら、頭を抱えた。
俺には理解できないことばかりだ。しかしそれでも、奴らの姿が、薄ぼんやりと見えてきた。
じいさんの真意も、そして俺のとるべき道も。
夜がしらじら明ける頃、遠くで消防車のサイレンが鳴っていた。
俺はそれを聞いていたが、それが何処で鳴っているものか、そこまで思いを巡らすことは、出来なかったのだ。
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