第六十話 家出 その5(44歳 男 会社員)
※ 第五十五話 家出 その2(44歳 男 会社員)
※ 第五十六話 家出 その3(44歳 男 会社員)
※ 第五十九話 家出 その4(44歳 男 会社員)
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私の腕の中で、ヌシは荒く細く、息を継いでいた。
一旦ヌシを囲炉裏の脇の涼しい場所に横たえ、私は箪笥からタオルを二枚ばかり掴み取って戻り、ヌシの下に敷いてやった。
コジロウは少し離れて、ヌシと私の様子を見ている。
かなり前から悪かったのだろうか。
こんなに突然倒れるほどに、猫の病気というのは悪化するものだろうか。
私が気付かなかっただけなのか。
そもそも何処が悪いのだろう。
何をすれば良いかも判らず、私はただ、ヌシの背中をさすってやった。
ヌシは時折目を開けて、私をじっと見た。
「にゃーん」
コジロウがゆっくり寄ってきた。
ヌシの顔に鼻先を近づけ、くんくんと嗅ぐ。
ヌシも少し顔を上げて、それに応えようとした。
「ぜい、ぜい」
ヌシの息が荒くなった。
コジロウは吃驚して後ずさる。
私は軽くヌシの背中を叩いて、さすった。
ヌシは。
少し濁った緑色の目で、私を見つめた。
ひゅう、とヌシの喉が鳴った。
ヌシの前足が、後ろ足が、二度三度引きつった。
口が開いて、何かを私に、訴えようとした。
こつん。
ヌシの牙が床を叩いた。
手足が弛緩した。
ヌシはそれきり、動かなくなった。
私は何度もヌシを揺さぶった。
動かないのは判っていたのに。
揺さぶった。
ヌシの名を呼んだ。
私の嗚咽が、天井に、壁に、反響した。
まるで子供のように、息苦しく、絞り出すように、
いつまでも、私は泣いていた。
コジロウは私に寄り添い、ヌシの顔をじっと、見つめていた。
* * * * *
強い西日が家を、辺りの山々を照らしていた。
私はヌシを、家の少し脇に生えていたツツジの根元に埋めてやることにした。
ヌシはまるで眠っているようだ。
少し長めの板きれを、ヌシの背中の後ろに突き立て、ヌシの口元には、鰹節を削ってやったのを、少し置いた。
そして裏の崖に生えていた、名前の判らない紫色の花を一束、腹のあたりに添えた。
ヌシに土をかけながら思った。
彼はいったい、どれほどの月日を、この家と共に過ごしたのだろう。
恐らくはこの家に住んでいた人々と共に暮らし、置き去りにされながらも家を守り続けた。
そして、奇妙な闖入者のこの、私を、何の躊躇いも無く受け容れ、自らの務めを果たした。
彼は幸せだったろうか。もし幸せであったとしたら、その幸せとは何か。
私は、彼のように、幸せになれるだろうか。
土がこんもりと山のようになった頃、日はますます紅あかと家を、辺りの山々を照らし、空は紫色を帯びてきた。
私とコジロウの長い影が、家の壁まで届く。
私はヌシの墓に手を合わせた。コジロウは私の隣で、神妙に座ったまま動かなかった。
ざりざりざりざり
ばばばばばばばば
ぶおん、ぶおん
背後で数台の車の音がした。
コジロウは耳を立てて、音のする方を警戒している。
見ると、パトカーが二台と軽トラックが一台、雑草だらけの谷の山道を上ってくる。
車の一団は玄関の少し先で止まり、パトカーの中から警察官が数人現れた。
「この家の中にいる人、出て来なさい!」
拡声器の割れた声が聞こえる。
私に向かって呼びかけているのだ。
「銃を持っていることは判っている。銃を捨てて、ゆっくりこちらに出て来なさい!」
来てしまったか。
私の生活は、これで終わるのか。
私はよろよろと、庭を横切って、声のする方へと向かった。
庭の端からは、パトカーのいる辺りの様子が良く見える。
私の姿を認めた警察官達は、小声で何か話しているようだ。
かつん。
足に何か当たった。
堅い。
散弾銃だ。
ヌシに夢中で、放り出してしまったのだった。
私はゆっくりと、それを拾い上げた。
途端に、警察官達の動きが慌ただしくなった。
「銃を捨てろ!」
拡声器の声が耳をつんざく。
何人かが、私にピストルの狙いを定めているのが判る。
私を撃つ気だろうか。
何もしていないのに。
「銃を捨てろ! 早く!」
神経質な声が耳障りだ。
私の生活が、もう終わるのか。
私は所詮家出人だ。戻ってどうなるというのだ。
こいつらは何故邪魔するのだ。
銃を握る手が震えた。
パトカーも警察官達も、周りの木々も草花も、紅あかと燃えさかる光の中にある。
私を注視し、狙いを定める警察官ひとりひとりを、私は目で追った。
邪魔するな。
汗が流れた。垂れて、私の足元に落ちた。
右手の親指が、撃鉄にかかった。
「にゃん」
コジロウの鳴き声で、私は我に返った。
私の足元で、行儀良く座って、私を見ている。
呆然としていると、コジロウは私のズボンを、がりがりと引っ掻いた。
どうした腹が減ったのか。
ばたむ。
車のドアの音がした。
見ると、見覚えのある顔が二つ。
妻と娘が、私を見ている。
オレンジ色に照らし出された姿は、小さく、ちぢこまって見えた。
神妙な面持ちで、私をじっと見ている。
ここまで来たのか。
私ごときのために。
「にゃーん」
コジロウがまた鳴いた。
鼻をひくひくさせて、ズボンを掴んで、私の顔を見つめている。
可笑しいほどに真剣な顔だ。
「ぷっ」
私は吹き出した。
そして、ふう、と大きく息を吐き出した。銃をその場に落とし、コジロウを抱きかかえた。
コジロウは私の顔を、ざりざりと舐めた。
泥と埃にまみれ、汗で汚れた顔を、いとおしそうに舐めた。
少しくすぐったいが、心地よかった。
そして私は、コジロウを抱いたまま、ゆっくりとパトカーへと進んだ。
警察官達は緊張しながら、私を少しずつ包囲した。
私は立ち止まり、家を振り返った。
大きな萱葺きの屋根は、燃えるような深紅から、紫色へと移ろっていた。
その上には、小さな星ぼしが、瞬き始めていた。
まるでお伽話のような、この家での生活が、私の頭の中で瞬いた。
瞬いては消え、そしてヌシの最期が目の奥底に滲んだ。
「にゃーん」
コジロウが鳴いて、私をせき立てた。
私はゆっくりと、警察官達の輪の中へと、歩を進めた。
おしまい
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