第五十六話 家出 その3(44歳 男 会社員) | ねこバナ。

第五十六話 家出 その3(44歳 男 会社員)

※前々回 第四十話 家出 その1(44歳 男 会社員)
※前回 第五十五話 家出 その2(44歳 男 会社員)
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どたたたたたたたた

「にゃうん」
「んびゃっ」

猫達が走り回る音で目が覚めた。
まだ身体の節々が痛い。
ゆっくり身体を起こす。玄関の曇りガラスから、淡い朝日が射している。
鼻がもぞもぞと痒くなった。

「はっくしょい」

大きなくしゃみをする。と、周りの埃が舞い上がるのがわかる。
ふう、と私は溜息をついた。今日は大掃除をせねばなるまい。

立ち上がろうとすると、この家の先住猫が、何かを咥えてやって来た。
畳の上に、その咥えたものを、ぽとりと落とす。
これは、ネズミだ。

褒めてもらおうとでも思ったのだろうか。私を見て、得意げな顔をしている。

私は、何故この家の家財道具や食糧が、暫く空き家になっていてもなお、それなりに残っているのか、合点がいった。
この猫が、木を齧ったり米を食ったりするネズミを、退治していたからなのだ。
そのネズミを糧にして、今日まで生き延びてきたのだ。

この猫は、この家を、たったひとりで守ってきたのだろう。
もう誰も戻って来ないかもしれない、この家を。
そして、役目を果たしたことを、この私に、報告しているようだ。
奇妙な闖入者でしかない、この私に。

私は妙にこの猫がいとおしくなって、頭をごしごしと、撫でてやった。
猫は気持ち良さそうに、目を細めた。

「にゃーん」

その背後から、私に付いて来てしまった猫が、申し訳なさそうな声を出した。
どうやらこいつは、ネズミを獲るのが苦手らしい。
まあ、暫く此処で暮らしていれば、自然とネズミ獲りも上手くなるだろう。

「どっこいしょ」

私は立ち上がり、顔を洗いに外へ出た。

  *   *   *   *   *

私は猫に名前を付けた。
貫禄のある先住猫は、「ヌシ」。正しくこの家の主であるように思われたからだ。
そして、私に付いて来てしまった不幸な猫は、「コジロウ」。少し臆病で、要領が悪い。
まだ一日半しかこの家で過ごしていない割に、二匹は仲がいい。ヌシは、捕まえたトカゲやネズミを、コジロウに分けてやっているようだ。
それをおずおずと食べるコジロウ、じっと見守るヌシ。ふたりの関係は師弟のようで、微笑ましい。

朝からじいじいと蝉の声がやかましい。
頭に手拭いを巻き、ランニングとステテコ姿のまま、私は家の大掃除を始めた。
家の全ての戸を開け放ち、ハタキをかけ、箒で埃を掃き出す。
手桶に水を汲み、手拭いを堅く絞って、床を拭く。
小さかった頃、祖父母の家で手伝った大掃除の記憶が蘇る。
コジロウは、私の後をついて来て、ハタキやら雑巾やらにじゃれつく。
ヌシはそれを、縁側に寝そべって見ている。
なんとも平和な光景だ。

日が高くなってきたので、布団を押入れからひきずり出し、家の前の生け垣に乗せた。
玄関、土間と台所、上がり口の囲炉裏が切ってある板の間、そして奥の畳の部屋。
自分の生活する場所だけは、掃除完了だ。
汗を拭きながら、玄関のすぐ外にある放置された畑へ向かう。
じりじりと、肌を夏の太陽が灼く。
ふと、玄関の脇に、麦わら帽子が掛かっていたのを思い出し、取りに走った。
麦わら帽子なんぞ、小学生の夏休み以来だ。

畑の雑草を引き抜き、頑固なやつはカマで切り落とした。
野菜のなる株だけが姿を見せると、なかなか良い畑のように見える。
そろそろ足腰が限界だ。
私はまたきゅうりとトマトを二、三個採り、裏の水場へ行って、甕の中に浮かべた。
ちょろちょろと音を立てる水の中で踊る野菜は、とても美しく、美味そうに見えた。

猫達が涼を求めて、水場までやって来た。
二匹仲良く水を飲んだ後、風通しの良い水場近くの日陰で、二匹並んで、寝転んだ。
よく見ると、ヌシの毛づやが、コジロウのそれに較べて、かなり悪いのに気が付いた。
もう相当な年なんだろうか。
時々「げふ、げふ」と咳のような音をさせて、少し苦しそうにしている。
私はヌシの背中を、とんとん、と軽く叩いてやった。
それが気持ち良かったのか、ヌシは前足に顎を乗っけて、すやすやと眠ってしまった。

  *   *   *   *   *

トマトときゅうりを齧って昼食代わりにし、昼寝をした後、米の飯が食いたくなった私は、竈を使ってみることにした。
土で塗り固められた、昔ながらの竈。もちろん使ったことなど無い。
幸い、家の裏には板の切れ端が、物置の中には何に使ったのか判らない藁の束があった。
羽釜に米を入れ、裏の水場で研ぐ。子供の頃キャンプで米を炊いた時のことを思い出しながら、水加減を計った。
手斧で板を細く割って作った薪と、藁、戸棚の中に積んであった新聞紙を竈の焚き口に突っ込み、羽釜を竈に乗せる。
マッチで藁に火を点ける。パチパチと音がして、うまい具合に火が燃え始めた。
吹き竹がないので、直にふうふうと焚き口を吹く。時折煙が攻めてきて、私は酷くむせ込んだ。
ぐつぐつと釜が音を立てる。湯気が蓋の境目から吹き出す。
そんな様子を、コジロウは興味津々に見ていた。
ヌシは、囲炉裏のそばで、長く伸びて寝ていた。

  *   *   *   *   *

初めて竈で炊いた飯は、少々水っぽくなってしまった。
これに、きゅうりとなすの塩もみ、トマト、鰹節に醤油をたらした、おかか。
そして台所の隅にあった甕から取り出した味噌。随分カビていたが、幸運にも食べられそうな部分が残っていた。
久し振りの、人間らしい食事だ。

夕陽が縁側をあかあかと照らす。
猫達は、鰹節を平らげたあと、縁側の日陰の、気に入りの場所で、毛繕いを始めた。

「いただきます」

私は手を合わせ、柔らかすぎる飯を口に入れた。
お世辞にも美味いとは言えないが、私はいいようのない満足感に満たされていた。
味噌をなめ、きゅうりやなすを齧り、飯をかき込む。
何故私は、今、こんなにも幸福なのだろう。
この山奥で、誰にも邪魔されず、誰の指図も受けず、唯一人で。
いや、二匹の猫と一緒に、生きている。
私は、こういう生活を、求めていたのだろうか。

ふと、茶碗の奥底を見つめる。
妻はどうしているだろう。娘は。
美味い物でも食いに、街まで出かけているのだろうか。
私の事など気に掛けず、いつものように下らない事を言い合いながら、楽しそうに暮らしているのだろうか。
それとも、ひょっとして、私の事を探しているのだろうか。



茶碗の底に残った二つの飯粒を、私は、指でつまんで、口に放り込んだ。




ごろごろごろ

雷鳴が聞こえた。
そうだ布団が。

私は茶碗を床に置き、縁側から外へ出た。
ついさっきまで夕陽が射していると思ったが、空はもうどす黒く変化して、辺りを覆いつつある。
生け垣に乗せてあった布団を取り込み、縁側へと投げ入れた瞬間、

ざーーーーーーーーーー

突然激しい雨が降ってきた。
縁側まで雨が吹き込んでくる。猫達は慌てて家の中に飛び込んだ。
急いで雨戸を閉める。雨はますます強くなり、稲光が辺りを照らした。

  *   *   *   *   *

食器をたらいにつけ込み、余った飯を握り飯にした後、私はさっさと寝ることにした。

ざーーーーーーー
がらがらがらがら
どどーーーーーん
ごろごろごろごろ

雷鳴が轟く。
しかし猫達は、案外動じていないようだ。
私も、この程度の騒音で眠れないとは思えない。疲れた。
蝋燭を吹き消し、ばたりと布団の上に横になった。猛烈な眠気が襲ってきた。

「ぜいぜい」

眠りに落ちる寸前、雷鳴の合間に、ヌシの荒い息遣いが、聞こえた。


つづく



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