第四十話 家出 その1(44歳 男 会社員) | ねこバナ。

第四十話 家出 その1(44歳 男 会社員)

がちゃり。

「あらお帰り。今日は早いじゃない。どうしたの、残業なし?」
「ちょっとこっち来ないでよ、キモイ」
「エリ! そんな言葉使うんじゃありません」
「だって」
「まあね、不景気だししょうがないけど、あんた残業で稼ぐしか能がないんだから、ちゃんとしてちょうだいよ」
「ママお腹空いた」
「はいはい。ちょっと、何そこにつっ立ってるの! 早く着替えてきてちょうだい」

「いただきまーす」
「...ちょっとどうしたの? ボーッとして」
「もう、そんな顔されると食欲なくなるんですけどー」
「言っときますけどね、会社のことは家に持ち込まないでくださいね。愚痴聞くのはイヤだから」
「ねえママ、ケータイ買い換えたいんだけど」
「何よ、まだ半年も経ってないじゃない」
「だって、これカメラ超ショボイじゃん。こんなん恥ずかしくて持っていけないよ」
「そんなお金はありません」
「もう! あんたがもっと稼いで来ないからじゃん」
「エリ! パパに向かって何ですか」
「だってそうでしょ」
「我慢してるのはあんただけじゃないのよ。私だって、こないだ隣の奥さんの誘い断ったんだから」
「えー、またランチバイキング?」
「そう、いいところがあるからって。でもねえ...ちょっと聞いてる?」
「ほんっと使えねえ...あ、もっしー、うんうん」
「隣の旦那さん、部長に栄転ですってさ。タイの工場に単身赴任だけどね。はあ、自慢ばっかりされて肩身が狭いわよこっちは」
「うんうん、えー、なにそれ~、アハハハハハ」
「順当にいけばサワダさんよりあんたが先に課長でしょう? まったく、こないだ会ったわよスーパーで、奥さんと」
「うっそー、やだあたしそんな金ないよ、うち貧乏だもん」
「やだ何言ってるのこの子! ほんとにもう、あんたがしっかりしないからこういうことに」
「だっせー、いいよ、あした何時に行けばいいの?」
「だいたいね、きのうだって」
「アハハハ」
「ちょっ」
「え」

ばん。

「何、びっくりするじゃん」
「脅かさないでよ、どうしたのよ」

がたん。

「ちょっと何ー?」
「いいわよ、ほっときなさい」

ぎいいい
がちゃん。

  *   *   *   *   *

そうして私は家を出た。
電車を乗り継いで、群馬まで来てしまった。
駅を降りた後、何かに憑かれるように、進んだ。
排気ガスのたちこめる幹線道路の脇を。
歩道のないトンネルの中を。
ひたすらに、歩き続けた。

片手には、コンビニのレジ袋。中にはおにぎり二つとお茶のボトル。
全財産はあと二千五百二十円だ。

月が出ている。
虫の声がうるさい位に聞こえる。
もう周りの家々が随分まばらになった。
山が近づいてきた。

なぜ私は、山に向かっているのだろう。
そういえば、生まれ育ったのは山に囲まれた盆地の町だった。
小学校を卒業するまで、海を見たことがなかった。
これも本能なんだろうか。
もう後先を考えるような余裕はなくなっている。
足の向くままに、ひたすらに歩く。それしかできない。

  *   *   *   *   *

足が疲れた。
ちょうどよく、小さな神社がみつかった。
石段を登って、その一番上で、腰を下ろす。
ぽつりぽつりと、家の灯りが見える。
私はレジ袋からおにぎりを一つ取り出し、ほおばった。
鰹節の香りが鼻と口を満たす。
どうして、このおにぎりはこんなに美味いのだろう。
私はゆっくりと、ゆっくりと、そのひと口を味わった。

「にゃー」

猫の鳴き声に驚いて、振り返った。
よく見えないが、そんなに大きくない、白と黒の混ざった猫が、しっぽを振りながら、こちらに近づいて来る。
私の脇まで来て、

「にゃーん」

と鳴いた。
そうか、この匂いか。
私は、掌の上でおにぎりを少しだけほぐし、飯粒と鰹節を混ぜ、猫の方に差し出した。
猫は少し戸惑ったようだが、そろそろと鼻先を掌に近づけ、もぐもぐと飯を食べだした。
私も残りのおにぎりを頬張る。
掌を時折舐めるざらついた舌が、くすぐったい。
飯を全部食べ終えた猫は、顔を洗ったり身体を舐めたりと忙しそうだ。
お茶をひと口飲み干すと、私は立ち上がった。
まだ歩かなければ。
足はぱんぱんに張っている。腰も痛い。だが。
私はまだ歩かなければいけない。

石段を下りて、道路に出ようとしてふと後ろを振り返ると、
猫がいた。あの猫だ。
ついて来たのか。
しっ、しっ、と手で追い払ってみるが、動こうとしない。
まあいい、そんなに遠くまでは来ないだろう。
私はまた、ぶらぶらと歩き出した。

  *   *   *   *   *

空がしらじら明けてきた。
県境へ向かう道路の先に、大きなトンネルが見える。
と、その脇に、沢沿いの細い道が見えた。まさにけもの道のような。
私はその細い道に吸い寄せられていった。と、何かが気になって、思わず振り返った。

猫だ。
あの猫が、まだ。
こんなところまでついて来たのか。
よく見ると、白黒だと思っていた模様の黒い部分は、トラ柄だったようだ。
猫は歩みを止めて、じっとこちらを見ている。
あの神社からは、もうかなり離れてしまった。この猫は大丈夫だろうか。
私はふう、と溜息をついた。ここまで来たら、好きにさせてみよう。
私について来ても、何もいいことなどないだろうに。不思議なものだ。
私は、とぼとぼ道を登り始めた。

  *   *   *   *   *

もう随分日が高くなった、はずだ。
だが森の中は相変わらず暗い。
シャツが汗でべったりと肌にくっついている。
身体中蚊やらアブやらに刺され、かゆくてしょうがない。
息も切れてきた。手も腕も足も切り傷や擦り傷だらけだ。
山道は所々で途絶え、笹が行く手を阻んだが、闇雲にそれを突破してきた。
そろそろ足が動かなくなる。沢でくんだ水を入れたペットボトルが、やけに重く感じる。
それでも、私は歩き続けている。
時折振り返ると、猫は見えなくなったと思いきや、すぐに姿を見せる。
とことんついて来るつもりなのだろう。まあ好きにするがいい。
私は重い足を上げ、這いつくばるようにして、道を登った。

  *   *   *   *   *

くねくねと折れ曲がる山道を、何時間登って来たのだろう。
ようやく道の向こうに、細い空が見えてきた。
しかしもう限界だ。足が前に進まない。
歩くんだ。
歩き続けなければ。
そういえば猫はどうした。
ええいもう考えるな。とにかく登れ。
脈動する音、ぜいぜいと切れる息の音。それしかもう聞こえない。
力を振り絞り、足を前に上げる。
えい、と踏ん張って、立ち上がる。
そんな動作を何百回繰り返したか。
ようやく私は、その細い空の先に、辿り着いた。

ふと、目の前の風景が開けた。
雑草が生い茂る、平らな地面が見えたのだ。
惚けてその光景を見ていると、猫が私の横に寄ってきた。
あの山道を迷わずについて来たのか。
それにしても。

私は進み出て、雑草の中に分け入った。
山の中に突然、こんな平たい土地があるなんて不思議だ。
よく見ると、雑草の中に、見慣れた野菜が混じっている。
きゅうり、なす、トマト。実がなっている。ネギもシソも。あれは大豆か。
こんなことが。

すると突然、眩しい光が辺りを照らした。
背後の山の陰から現れた太陽が、強い光線を投げ掛ける。その先には。

家だ。
茅葺きの、大きな家が。
昔話に出てくるような、絵に描いたような、古い民家があった。
これは夢だろうか。
ふらふらと、私はその家のほうに歩いていった。
と、

「んにゃ~」

低いドスの利いた鳴き声が聞こえた。
神社からついて来た、あの猫の声ではない。
その証拠に、あの猫は、私の少し後ろの方で、緊張した面持ちで鳴き声のする方を見ている。
びくっと、猫が背中の毛を逆立てた。
猫の見遣る方に視線を向けると、

「んにゃ~~む」

茶色のトラ模様をした、顔も身体も大きい猫が、家の陰から現れた。
のそりのそりと、私の方に近寄ってくる。
私はかがんで、その猫に手を差し出した。臭いを嗅いで、頬を擦りつけてきた。
後ろで見ていた猫が、そろりそろりと近づいてくる。鼻先を大きな猫に近づける。

「んぎゃう」
ばしっ

大きな猫は、近づいてきた猫の背中を軽く叩いた。
叩かれた猫はびっくりして後ずさったが、そこから逃げだそうという気配はない。
すると、大きな猫はゆっくりと、家の玄関の方に向かっていった。
そんなに他の猫を毛嫌いしているふうではないようだ。

私は大きな猫の後について、玄関へ向かった。
引き戸には南京錠が掛かっている。錠前をぐいと引っ張ると、

ばつん。

あっけなく外れてしまった。
ずるずると音を立てて、引き戸を開ける。
土間に薄く積もった埃が立ちこめる。中はとても暗い。
私は玄関を開け放つと、靴のまま土間から上にあがり込んだ。
扉や襖をどんどん開け放つ。人が暮らしている雰囲気はない。
しかし、埃っぽいが、何処もきれいに整頓されている。
穴の空いた障子を開け、分厚い雨戸に手を掛ける。
なかなか動かない。渾身の力を込めて、ぐいと引いた。

ずずずずずず

突然、家の中に光が差し込んだ。
そして、私の目の前には。

谷間に小さく開けた、なだらかで狭い、南向きの土地。
放置された田んぼの合間に、崩れかけた古い建物が、二つ三つ見える。
その向こうには、遠い山々がかすかに頭を覗かせている。
すっかり高くなった日の光が、辺りをじりじりと照りつけている。
蝉の声が、何だか判らない虫の声が、じいじい、ぎいぎいと聞こえる。
まるで、おとぎ話の世界のようだ。

中途半端に明けた雨戸から、私はしばらく、この光景を眺めていた。
突然、疲れと足の痛みが襲ってきた。
私は崩れるように、その場に座り込んだ。そして、這いつくばって畳の部屋まで動き、ごろりと横になった。

開いた雨戸の向こうに、青い空が見える。
その手前には。
二匹の猫が、ちんまりと座って、外を見ている。
その様子を見ながら、私は急激な眠気に身を任せた。


つづく



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