蜂須賀小六 | ナツレのツレヅレなる何か

蜂須賀小六

平成26年大河ドラマ【 軍師 官兵衛 】で個人的に注目している武将さんのうち今回は『蜂須賀小六(はちすかころく)』さんをご紹介
主役の黒田官兵衛(くろだかんべえ)さんと縁深い人ですがチョットまだ()露出少なく残念

蜂須賀小六さんといえば『太閤記』で野盗の頭領として矢作川(やはぎがわ)の橋の上で日吉(秀吉)と出会い、秀吉の素質に惚れ込んでその飛躍の立役者となった事で有名です

まぁ野盗の頭領だったとか秀吉との矢作川の出会いは(そもそも当時矢作川に橋がないので)太閤記の創作として否定されてますが史実として秀吉の立身出世の立役者という評価は間違いありません。
(ちなみに野盗の件は~小六の弟で甚内という者が~名の知られた小六を名乗って津島辺りを荒らし回って高まった悪名に由来するという説もあります)

さて、この小六さん~もちろん合戦部分の活躍はさることながら意外にも実は外交のスペシャリストとして評価が高いモノがあります
実際、備後・美作の宇喜多直家(うきたなおいえ)、淡路の安宅信康(あたぎのぶやす)などの超大物の降伏の取り次ぎをしていますし、播磨の地侍や毛利氏との折衝なども黒田官兵衛と共に対応をしています

また黒田官兵衛の名前を高めた高松城水攻めの発案にしても川並衆として堤防建造の実力を備えた小六があってこその作戦ともいえ、官兵衛の軍師的素養を直接育てた師匠筋としては竹中半兵衞(たけなかはんべえ)よりむしろこの小六であったのではないかともいえるのではないかと

大河ドラマ【 軍師 官兵衛 】ではこの蜂須賀小六にピエール瀧さんが配役されておりますが
TBSラジオ【 たまむすび 】で魅せる軽妙わがままトークなコミカルな面と映画【 凶悪 】で魅せた凶暴な面を合わせた姿は、本当の小六のイメージに近いと個人的にヒイキしてワクワク活躍を楽しみにしているのですが劇中ではあまりまだ活躍の場をあたえられずに歯がゆい

ぜひ、ピエール小六ならではの常に軽妙なトークで人心を捉える魅力をみせつつ、毛利など大物相手の駆け引きでは凶悪な凄味もチラつかせるようなシーンを観てみたい

蜂須賀小六正勝

イラストは肖像画を元にピエール瀧さん風味をいれたつもり
蜂須賀小六の紋としては卍紋(丸に左卍)が有名なので服にもあしらいました 
この卍紋も播磨龍野の愛宕権現に参詣の折、宿坊で「汝に法螺貝と卍紋を授ける。法螺貝はだるまを宣布するための貝、卍は仏法が四方に広まる形だ。以後これを家の印とすれば必ず栄える」と権現に勅される霊夢をみて以来、小六はそのまま卍と法螺貝を家紋に用いるようになったと伝わっておりこのエピソードも軍師官兵衛の舞台播磨なだけに取りあげて欲しいトコです

 


蜂須賀小六(はちすかころく) 実名:正勝(まさかつ)、彦右衞門(ひこえもん)、修理大夫(しゅりのたいふ)、

 濃尾国境の蜂須賀村に本拠を構えた土豪。
 初め犬山城主織田信清、次いで岩倉城主織田信賢、その後齋藤道三に属し、齋藤義龍との戦いに加わったという(蜂須賀彦右衞門覚え書き・寛永伝)。
 永禄9年(1566)濃尾国境付近の稲田大炊助・青山新七・加治田隼人らと共に織田信長に属し木下秀吉のもとに付けられたと云われる。
 信長上洛の折も秀吉に属して六角義賢の箕作城(みつくりじょう)攻めに参加。
 元亀元年(1570)、朝倉義景の越前手筒山城攻め、淺井長政の近江横山城攻めに従軍(甫庵・蜂須賀彦右衞門覚書)。同年12月27日、秀吉より米と段銭を樋口直房に渡すよう命じられているのが確かな資料における正勝の初見である(徳川國順文書)。この文書には「はちひこえ」とあり、すでに「彦右衞門」を称していたことが分かる。
 元亀2年5月、長嶋攻めに従軍。ここで弟 政元を失ったという(蜂須賀彦右衞門覚書)。
 元亀3年頃、木下祐久とともに、大徳寺に対し上使銭徴収のこと、指出(サシダシ)銭の事などについて命令している(大徳寺文書)。この頃、大徳寺については秀吉と團直政が担当しており、正勝は秀吉の代理としての活躍なのであろう。同じ頃、大徳寺だけでなく松尾社領、光源院領のことにも携わっている(松尾月讀社文書・光源院文書)。
 天正元年(1573)には、秀吉より長濱にて領地を加増されたと「寛永伝」に有る。
 天正5年(1577)10月、秀吉の播磨入国に従いその後の中国方面侵攻には終始大きな役割を果たした。
 天正6年(1578)1月18日付けの美作江見爲久宛秀吉書状に添え状を発しているが信長が直接発給した美作草刈三郎左衞門宛朱印状にも同じく添え状を発していることから、この時もなお信長の直臣であると判かる(古文書・草刈家証文)。
同年10月、荒木村重の謀叛が起きた時、荒木方だった安部二右衞門・柴田監物の投降を仲介した(公記)。
 天正7年以後だが、信長より旧領尾張海東郡の地を加増されたという(重修譜)。

 その後も秀吉に従って播磨で働き三木城攻めに参加。三木攻略後は羽柴長秀(秀長)にしたがって山陰で働くことが多いが、戦闘に関しては子 家政に任せがちになる。それよりも天正9年頃、山陰での戦いについて逐一信長に注進して信長の支持を受けており、秀吉に密着した立場に有りながらも目付け役を務めていたのではないかと思われる(蜂須賀文書写)。
 秀吉が山陽方面で備中・美作まで侵攻し宇喜田直家や淡路の安宅信康が味方になるが彼らの降伏を取り次いだのは正勝だったという(太閤記)。この頃になるとこのような秀吉の側近ないし参謀と言った仕事が多い。

 天正10年(1582)6月4日、本能寺の変の報に接した秀吉は急ぎ毛利と講和を結ぶが、この時、正勝が毛利の使僧 安國寺惠瓊(あんこくじえけい)と相談して講和にこぎ着けたという(太閤軍記)。そして高松城主 清水宗治(しみずむねはる)切腹の検使も務めた(太閤記ほか)。
中国大返しに従い惟任光秀(これとうみつひで)との山崎の合戦には秀吉馬廻りとして参加(川角)。その後は完全に秀吉の家臣の立場となった。
 変に伴う擾乱が収集した後、毛利家との境界線が問題になるが、この時も正勝は黒田孝高とともに出向いて実務に精を出した(毛利家文書)。天正9年(1580)から播磨龍野城主だが(蜂須賀家譜)そうした地理的関係もあるにせよ、この毛利氏との折衝は同12年(1584)まで続き、その都度正勝が駆り出されている(毛利家文書)。

 天正11年4月、柴田勝家との賎ヶ岳の戦いの折は一応参戦したが、遊軍なので戦闘には加わらなかった。しかし戦後、佐久間盛政の家臣の篭もる加賀村山城へ遣わされ、これを開城させた(川角)。この年、丹波・河内にて五千石を加増されるという(蜂須賀家譜)。

 五十歳を超し長男の家政も立派に成人したからであろう、本能寺の変の前後より正勝の戦場における働きは極端に少なくなる。天正12年(1584)の小牧の陣の時も蜂須賀軍を率いたのは家政であった(淺野家文書)。翌年の四国人には従軍しているが宇喜多秀家の元に付けられているから、幼少の秀家の補佐を務めたものと思われる(天正記)。
 四国平定後、阿波一国十七万三千石を与えられ徳島城主(蜂須賀氏家譜)となるが、すでに隠居状態で有り実質上の当主は家政であった。
 天正14年(1586)5月22日、大坂にて歿した。享年六十一歳であった(重修譜・諸寺過去帳)。



小六は最後阿波徳島を与えられますが、秀吉の側に出仕したいと息子の家政に継がせています。一説に黒田官兵衛の処遇が不遇であったので、小六がそれに遠慮してそのように申し出たものとも伝わります。
黒田官兵衛とは、官兵衛の息子 長政の最初の夫人が小六の娘でもあり、その面でも親交がありました

(もっとも小禄の娘は後年男子が産めなかったため離縁されてしましましたが・・・)

その小六の次代は、阿波踊りの創始ともいわれ、名君の誉れ高い徳島の誇り蜂須賀家政(はちすかいえまさ)公であり、後継者にも恵まれた、最も成功した一生を送った戦国武将さんの一人といえます


最後に小六繋がりで脱線して面白いエピソードをひとつ

徳島藩最後の藩主 蜂須賀茂韶(はちすかしげあき)公が宮中の晩餐会にお呼ばれした際のお話・・・
この方なんと先祖の小六が夜盗あがりとして有名なのを逆手にとってワザと晩餐会で出された銀製の瓶子を隠し持つ(盗む)仕草をして「先祖の真似をなさるのか」と明治天皇の笑いを取るという離れ業をなしたことで有名です
(注:天皇との晩餐の際は記念に菊の紋章入りの銀食器をひとつフツーに持ち帰っていい事になっていました)

この方も祖先が夜盗あがりだと周りが思っていることなんぞ気にせず逆にウリにかえてしまうアタリ~かなりの大人物ですよね


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