七海半太郎の倭女王卑弥呼


図版:平㔟隆郎「中国の歴史2、都市国家から中華へ」講談社2005
呉王夫差の剣は銅矛。越王勾践の剣は両刃の銅製。
銅矛は、大巳貴の広矛とよく似ています。

楚国2

犬戎国は、後漢書に「昔、高辛氏・・・」とあるように、初めて出てくるので、専門家の間では、南越地域は盲点になっている。これを内藤湖南は、理由も無く恣意的に否定している。

楚の南の南越に、高辛氏の娘婿の犬封国がいた。中国古代史に犬封国が出てこない。後漢書に出てくるので、隠れた存在でした。

A、西域の昆吾の剣(青銅)が泥を切るが如とあるという。(林梅村)
昆吾氏は、国語鄭語16で楚の陸終の第1子ですが、西域へ行ったのか。
B、呉王夫差の剣は銅矛、越王勾践の剣は両刃の銅製です。
徐朝龍は、鋼(ハガネ)が、もともと呉越の発明品で、鋼を切るに泥屑を切る如という。

昆吾とは、楚の先祖で、AとBは、和田の軟玉と同様、西域に通じているのではないか。東大寺山鉄剣は、丶又(主ユウ)の剣。又は有に同じ、有は出雲国造家の家紋です。有は熊(ユウ)に通じる。

楚の人、卞和の璧玉
和氏の璧というが、咼(カ)は和に同じで、咼(カ)氏の璧と同じ。(諸橋漢和辞典)
雲南省、貴州省、四川省の蝸牛(かたつむり)は、和氏ではないか。
青銅の王国:蜀の国、三星堆遺跡は、殷の後期の青銅と同じ時期。
巴紋あるいは船のスクリュウ形は、サマルカンドの壁画に出ています。

熊野大神または阿蘇大神は、多分に楚の国の燭龍と関係するのではないか。
理由は、宮崎県高鍋市出土の変形鏡に燭龍の刻字あり。(尾道市耕山寺所蔵品)

また、蚩尤は、風や雲をまき散らし、石や砂を食べる。後裔は、取石鹿文でしょう。
熊襲梟師は、取石鹿文(とろしかや)ともいうから、石を取る鹿文(斑点)の意味で、産鉄の神です。

熊野大神は、出雲が元宮で、熊野本宮大社は、239年に建屋が建立され、陳大王の娘大日婁女が来日しています。
陳鋒氏の娘は、高辛氏へ嫁いで、帝堯が生まれた。なんと、古いこと!
クチャの嬀塞王は、盧氏(嬀姓)でしょう。
顔師古がいう塞族は、釈迦族、ゆえに陳氏の玄奘三蔵は、インドへゆくのも因果のひとつとみられます。

楚の郢(エィ)には、都の紀南城が在った。日本の紀南の語源ではないか。
紀南の旧周参見町には矢倉神社あり、昔、隕石が降って大きな井戸ができた。(紀続風土記)・・・隕石はイヌの相をしている。
247年、魏へ遣使の建弥阿久良は、火国造家で、矢倉と同じとみます。

盧(嬀姓)は、荊嬀に由る。(国語の周語中)
韋昭注に、盧は嬀姓の国なり。林梅村は鬼方ともいう。
荊は荊州(湖北省)で、羋氏の出た所です。
1. 帝舜が耕作した歴山には、盧氏も一緒にいた。
2. 月氏問題
匈奴の出自は、夏王朝の庶流。大月氏の支流です。(史記、漢書)
小月氏は、甘粛省昭武県の昭武九姓で、康、安、曹、石、米、何、火寿、戊地、史の九姓。(新唐書)
ここに曹氏が居るから、昭武九姓は、帝舜有虞氏(虞氏)の子孫で、三国志魏の明帝は、帝舜の先祖で、土徳という。虞(グ)氏の姓は、姚(ヨウ)、名は重華。
康居の地域に、後から、昭武九姓が入ったので、ソグド人と勘違いする。虞氏は帝舜で、ソグド人ではない。

禺氏は虞氏
和田は、崑崙の玉、禺氏の玉という。諸橋漢和辞典の禺は、虞(グ)と音通、ゆえに小月氏が居たのではないか。
以前に既述した周一良らの説は、盧氏を小月氏と推定するが、盧氏はイヌです。
和田にはスピーフン(眠ったイヌ)居り、女国ありで、金の産地です。(小笠原と同じく、人身狗頭の人、女国あり)
和田は、高辛氏の娘婿のイヌ族が見守っているのではないか。
なおかつ、和田には、牛頭山あり、毘沙門天の出現譚もあったのです。

元中記では、
高辛氏の娘婿の犬封国は、福建省の泉市尚武鎮から、東北21000里の萩市見島へ渡った。見島ジーコンボや方30里が証拠です。ただし、時期は不詳。
また、小笠原は扶桑國で、人身狗頭の男と女国あり。(南史扶桑國伝)

狗奴国王は、卑弥弓呼素という。
盧は、韓国(からくに)にもいた黒いイヌで、名犬とする。(諸橋漢和)
アヤッ子は、幼児の額に墨で「犬」字を書く。結婚で花嫁は、イヌ火(コンロ)をまたぐ。
また、狗奴「くど」はカマド。なおかつ、高辛氏の娘婿のイヌ族。ゆえに、豊前を辛国(からくに)という。後漢書に云う邪馬臺(やばたい)国でしょう。
地平線が、邪馬(かげろう)の臺(うてな)です。「うてな」は地球そのもので載せる臺(漢音タイ、呉音ダイ)です。ゆえ地球が日の輪をくぐるのです。
狗奴は、168年、拘奴を従えた。卑弥呼と相性が良くないのは拘奴でした。

盧氏(嬀姓)は、陳氏(嬀姓)と同族と思います。
高辛氏は、陳鋒氏の娘を貰い帝堯唐陶氏が生まれた。帝堯は、帝舜に禅譲し、帝舜は、夏后ウに禅譲した(史記五帝本記)

なんと、陳氏は、(前2070年のウ即位)以前から、居た。
前11世紀、周の武王が陳氏を滑国に封じた。

牛頭天王が国際的な神というから、東アジアの領域を悠に越えた領域です。
日本へ来た神がみは、大陸をよく知った話となっているのではないか。

日本人は、大陸のあちこちから来た。ただし、天皇は夏王朝の庶流です。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、
前述6の尾張氏や物部氏の先祖で天皇家の支流で同族です。
海幸彦の火照命も隼人の祖で天皇の支流です。
山幸彦が火折命で、天皇の祖先です。(日本書紀)

楚の羋(ビ)姓は、羊の義、群馬県多胡碑の羊大夫でしょう。また、南宇佐の大尾山の人でしょう。
呉は、高句驪の馬70頭を載せる海洋王国。また、呉服は日本の着物にもなっている。日本武尊が熟蝦夷を連れてくると「騒がしい」という。呉の意味です。後世、空海(佐伯氏)が越の地へゆく。
呉、越、楚は、日本へ来ていると思います。

越王は、自称、夏王朝(夏后ウ)の中興の「少康の子孫」という。
古代は、同姓娶らずで、近親結婚を避けて優生保護社会だった。通常、女権社会では、男は女性の姓をとる。
夏王朝支流の娰(ジ)姓が、女の無(ム)姓と婚姻した場合、男の姓は「無」にかわった。
ゆえに、越王の言は、嘘ではなかった。

奇しくも、三国志の編者・陳寿は、日本の天皇を、夏后ウの6代目少康の苗裔という。