昼津淳広の名言・いい言葉の読書ブログ

昼津的「読書日記 2010」


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先生へ

正直に申し上げます。私は先生に会ってから変わりました。

ブログの縁と言うのでしょうか、そもそも別の目的だったもの
が、いつしか先生を意識したものになっていったのは、ごく自
然な流れだったかと思います。最初からそうなる事になってい
たのでしょう。今となってはそう思いたい気持ちなのです。

先生なら、私の記事をどう読んで下さるのだろうか、そんなこ
とを意識して書いていたものですから、ちょっとカッコをつけ
たり、妙に深読みしすぎてバランスを崩したような形のものも
少なくなかったのです。やっとの思いでこの日を迎えましたが、
最終盤はやはり無理していたようなところありました。恥ずか
しい限りです。

でも、先生に私の拙い文章を読んでいただける機会なんて、お
そらくこれから先には二度とないことでしょう。そう思うと、
やめるのが少しもったいない気にもなりますが、先生もお疲れ
になったでしょう。これ以上先生に迷惑をかけるわけにもいか
ず、優しい先生のことだから、「遠慮せずにもっと書け」と言
うに決まっていますので、あえて何も言わずにやめることにし
ました。

私はいま、歴史というものに興味があります。それは自分とい
うものを含めた歴史と言いましょうか、いや、むしろ自分を中
心とした歴史というものを自身で編纂してしまおうという、ま
るで恐れを知らない野望のようなことを考えているのです。表
現が大げさですね。でも「自分史」みたいな自己中心的なもの
でもなく、私がここにいて、こう考えているのはなんでなんだ
ろうか? という素朴な疑問から出発して、私はどのようにし
て造られたのかということを、自分の視点で追ってみたいと考
えています。

先日健康診断で生まれて初めて胃カメラというものを飲み、詳
しく胃腸を調べてもらったのですが、結果は最悪で、すぐ検査
をしようということになり、どうやら胃と腸がかなり荒れてい
て、潰瘍のようなものが見つかったそうでした。私もテレビモ
ニターで自分の迷宮の内部を見せてもらいましたが、やっぱり
素人目から見ても、これは相当ひどいもののようでした。すぐ
さま薬を処方され、来年早々に医者に通わなければならなくな
りました。

私はただでさえ、もういくつもの病気を抱えて、先生もよくご
存じの「小児喘息」などはいっこうに治らないまま、「小児」
が取れて、立派な大人の喘息「成長」してしまった格好です。
パニック障害も治る気配もありません。最悪な時期はどうやら
超えたようですが、完全に克服できずに薬を飲み続けているの
です。もういったいいくつ薬を処方されればいいのでしょうか。
病気ばかりが自分の上に積み重なっていくようです。自分自身
の体が衰えてきているのに、重荷だけが増えていきます。

ある時から、私は健康に関して諦め、こう考えるようにしまし
た。「完全な健康な自分」というものは幻想に過ぎないと。そ
んなものはあったとしても、それは一瞬で過ぎ去り、元のどこ
か病気な自分があるのだと。きっとどこかが病気な自分が本当
の自分であり、常態なのだと思います。「ごまかし」みたいな
考えかもしれませんが、そう考えると、いくぶん気持が楽にな
るのです。「健康体」という信仰の重荷から解放されて。

先生、私の人生は敗北から始まりました。私の最初の記憶は幼
稚園の「かけっこ」で転んで膝から血が出て、ゴールにたどり
着く前に医務室に運ばれた自分の姿でした。私はゴールにさえ
入れてもらえなかったのです。膝にはその時の傷がまだ残って
います。まだ残っているというのはけっこうな傷だったのかも
知れません。(幼稚園時代の記憶はほとんどそれだけでした)

そうしてどうやってここまでたどり着いたのか、私はいつにな
ったらゴールにたどり着けるのか。私の残りの人生は、それを
見極めるための時間になることでしょう。それは先生によって
教わったことと、これから先に先生に教わるであろうことによ
って、判断するべきことなのだと考えています。

私はどうひいき目に見ても、依然として「敗北者」としてゴー
ルを探し求めている存在であるのです。死ぬまでにゴールに届
かなかったとしても、後悔することなく、「ゴールに近づく」
努力を惜しむことなく続けていきたいと思っています。(自信
はありませんが)

かなり昔のことですが、先生が言ったことを、私は今でもはっ
きりと思い出すことができます。「人一人で出来る事なんてた
かが知れている。仲間をつくりなさい、そうしたら仲間がその
道を引き継いでくれるだろう」とそう言いました。その言葉の
意味がようやくわかってきました。私自身も、そろそろ自分に
見切りをつけて、仲間と自分の夢を分かち合うときが来たよう
に思います。実際にそうなってみないと、わからないことがた
くさんあるんです。

最後に、先生に本当にたくさんのことを教わりました。これか
らも教わることでしょう。どうかこれからもよろしくお願いし
ます。私のかたわらにいて、私を見守っていてください。

2010年12月31日 
昼津

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いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。

新潮文庫 太宰治『人間失格』122ページ

高校から出た課題図書は『斜陽』。この作品に行く着くのは
運命付けられていたのだろう。だが、私がこの作品からどの
ような影響を受けるかは「神のみぞ知る」ことであったはず
だ。この本は私を「読書好き」にかえた。それまで私は本と
いうものを読む習慣がなかった。どちらかと言えば漫画ばか
り読んでいた。課題図書は国語の試験をパスするためにやむ
を得ず読んでいたに過ぎない。

しかしこの本を読んでから、自分の背中の方からすっと手を
入れられ、背後から突然心臓をぎゅうと握られたような体験
をしてから、私はそのような体験を求めて、本を貪るように
読んだ。それまで私は100%理系の人間だったのだが、その後
自分の進路が変わったのは、ひょっとしたらこの本のせいか
もしれないと考えている。

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
(5ページ)


この「はしがき」の冒頭文から、私はこの作品が持つ一種異
様な雰囲気に呑まれた。多くの太宰治ファンが口を揃える
「まるで自分のために書かれた」かのような錯覚を覚え、自
分の恥部をあたかも光りあるもののように照らしても微動だ
にしない精神に、驚愕した。

「なんて、いやな子供だ」
(5ページ)


ああこれも自分のことだ!

羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。
つまり、一から十まで造り物の感じなのである。
(6ページ)


ああ、これも俺のことだ!

こんどは笑っていない。どんな表情もない。謂わば、坐って
火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まこ
とにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。
(7ページ)


おおよそ人間はすべからくこのようになってしまう運命なの
だと感じたとき、自分の中にみずから「人間失格」という烙
印を求め、それを、まるで「緋文字」のように自分の胸に焼
き付けられることを望んでいる自分を発見したのである。

「人間失格」とは自分を誘惑する、この上なく甘い呪文のよ
うな言葉となった。

父を恐れ、「父権的」な何かを恐れ、家長的制度を恐れてい
ながら、そこから抜け出ようとせず、親からの仕送りのみを
糧として生きる「大庭葉蔵」に、あらゆる現代的な病巣を見
出すことが可能ではないか。

その「父的」なものは、まるで実存以上に重量を持った石の
蓋のように、そこにあり、そこへ入ることも、そこから出る
ことも赦してくれないのだ。そこで私たちは別の自分を演じ
て、「父的」な何かに対抗(対応)せざるを得なくなる。

そこで考え出したのが、道化でした。
(11ページ)


私がこの「道化」に現代的な意味を見出すことができたなら、
この作品の普遍性に触れたことになるだろう。それは簡単な
ことだった。過剰に「空気を読む」ことに苦心する人たち。
それこそが現代の「道化」である。彼らはまわりの視線にお
びえ、批判におびえ、孤立するのを避けるために一生懸命に
なるあまりに、道化を演じ、「空気を読む」という名の「屈
辱的な服従」を喜んで受け入れる。それは「人間失格」の烙
印を自ら求める姿と同じである。

「ワザ。ワザ」
(24ページ)


竹一少年の「お前は道化を演じてるんだな」という言葉は、
彼の策が惨めにも露見し、「お前は結局格好つけてただけな
んだろう」と疎外される決定打であった。現在であったら、
葉蔵はたちまち村八分になっていただろう。

なんていやな奴なんだ。
なんてずるがしこい奴なんだ。
あいつと付き合うのはやめようぜ。

葉蔵の恐怖はいかばかりだったろうか。現在もなお、父権的
で権威的な何かにおびえる人間の心理はどこから来ているの
か。日本人社会ではなぜこれが「いじめ」という問題に発展
するのだろうか。いじめられた末に自殺する子どもたち。子
どもたちを襲う恐怖とはどのようなものなのか、それを和ら
げるためには「父的」なものを殺さなければならないのか、
カフカ少年のように。これらの問いの答えは未だに見つから
ない。

そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の
講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切って
いる事のように思われました。それは、そうに違いないだろ
うけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそ
ろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニ
ティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べ
ても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世
の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるよう
な気がして、
(41ページ)


人間の闇を、マルクスの二重構造の中に見出した太宰治の考
え方は、ある種の哲学的な性質さえある。しかし太宰はそれ
を思想とか哲学とは到底考えていないのである。それは彼の
苦悩に満ちた経験から学びとったものだからだ。経済の諸関
係がすべてを規定するのではなく、どろどろとした怪談じみ
た人間の闇とそれへの恐れが、社会の諸関係を縛り付けるの
である。

太宰は共産党の活動に資金援助を行うなど積極的にかかわっ
たが、そのときから、このような考え方を持っていたのかも
しれない。太宰がその後あっさりと転向してしまった背景に
は、このようなマルクス主義への批判的精神があったのかも
しれない。

「ほんとうかい?」
(63ぺージ)
 

竹一少年と同じように検事にさえ看破される葉蔵のお道化。
大人の世界ではもう道化は通じないと言うことが、葉蔵から
意味のない笑顔を奪っていく。だから第三葉目の写真は笑っ
ていないのだ。

自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信じられず、
神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の
笞(むち)を受けるために、うなだれて審判の台に向う事の
ような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の
存在は、どうしても信ぜられなかったのです。
(79ページ)


ただただ罰を受けたい、慈悲を受けてこの地獄にとどめおか
れるくらいなら、いっそ罰を受けて終わってしまいたいとい
う心理。これも深刻な現代的な病巣として、さまざまな事件
に現れ出てきているのである。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)
(82ページ)


この大庭葉蔵の独白はとても重要な言葉だと思う。「世間」
というものは想像の産物なのだ。その想像のふくらみ方によ
って、その「世間」が恐れおののくべき怪獣のようにもなり、
ただ単に自分の目の前の小さな一個の人間にもなるのである。
これは葉蔵が行った唯一の反抗のようにも読めるが、でもこ
の言葉が葉蔵の口から外に出ることはついになかったのである。

父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜けたように
なりました。父が、もういない。自分の胸中から一刻も離れ
なかったあの懐かしくおそろしい存在が、もういない、自分
の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の
苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのでは
なかろうかとさえ思われました。まるで、張合いが抜けまし
た。苦悩する能力をさえ失いました。
(121ページ)


父的なものへの抵抗はことごとく失敗していながらも、それ
が葉蔵の人間というものへの未練であり、かろうじて皮一枚
で繋がっているものであった。それがなくなった。自分は空
っぽだ。父との戦いに敗れ、麻薬中毒にさえなり、精神病院
で更生させられた自分しかもう残っていない。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に
於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけで
した。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
(122~123ページ)


私はこの122ページ以降をほとんど諳んじられるほど読んだ。
「ヘノモチン」という下剤を、睡眠薬の「カルモチン」と間
違えられて飲み、腹を下す葉蔵。笑うの笑えない廃墟の人間。
それもまた自分の運命なのだ。自分が人間として生まれてき
た以上、その運命に抗う事はできない。だったら、さっさと
「人間失格」という烙印を押されてしまった方が楽なのだ。
だから人は自ら悦んでその烙印を求めるのだ。

村上春樹の「父殺し」をテーマにした作品は、この太宰の重
いテーマの克服方法を示したものと言えるだろう。しかしそ
れは現実問題として可能なのか。簡単にできることなのか。
多くの人は葉蔵のように滅びていくのだろう。この作品には
光も影もある。悪影響もあるのだ。だからこの本は普遍的で
あるとさえ言える。

私は依然として(はじめて読んでから30年が経ったいまでさ
え)この本を読み、自らを「人間失格」という烙印を押され
る快感に浸っている。

それは敗北なのだろうか? 私は未だにわからない。

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))/太宰 治

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本日でこのブログは終了いたします。

たくさんの本を紹介したつもりでも、その数はごくわずかで
とても「本を紹介した」などと呼べるものではないことは理
解しております。

しかし、私の2010年の一つの記録になったことはたしかです。
私の目的も、いつしかそうなっていました。この年に私がど
んな本をどんな思いで読み、考えたのかがわかるようになっ
ていればそれで良いのです。ずいぶん恥ずかしいことを書い
たようにも思いますが、それはそれで良いのです。

記事を書いた作品にはかなりの「偏り」があるように思いま
す。私はいくつかの重要な作家の作品を、採りあげませんで
した。それもまた、2010年の私の姿そのものです。

川端康成、大江健三郎、安部公房、山本周五郎など、また、
モーパッサン、スタンダール、ソルジェニーチンなど書くべ
きを書くことができませんでした。

最初から白旗をかかげた作品もありました。ジョイスの『ユ
リシーズ』を書くことは今の私のは不可能でした。これから
先も可能になるかまったく自信がありません。また、プルー
ストの『失われた時を求めて』はいまだに完読していないの
です。私は完読していない作品を、さも読んだかのように紹
介することだけは、ただの一度もありませんでした。それだ
けはどうしてもこだわりました。当たり前ですが・・・

どうやら予定どおり、病気や事故もなく2010年の大晦日を迎
えることができました。このブログは本日で終わり、私はも
との普通の「読書好き」に戻ります。どこかでまたお会いで
きれば幸いです。このブログで交友が広まったことは、私に
とって幸せなことでした。

最後まで本ブログを読んでいただいた方に感謝申し上げます。
文字ばかり多く、誤字脱字だらけのこのブログは読者思いに
欠けたものだったと反省しています。また自分の怠惰から、
ありがたいコメントに満足に返事をしなかったこともお詫び
申し上げます。本来ならば、返事が書けないコメントなら頂
かないように設定すべきだったのです。

ありがとうございました。
予定どおり、最後の記事を書き、夜にもう一本の、読書とは
関係のない記事を書いて、このブログを終わりたいと思います。

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村上春樹の作品はずいぶん紹介したと思うが、今日の
記事が最後である。私は残念ながら『アンダーグラウ
ンド』を紹介することができなかった。重要な初期の
短編(『蛍』など)もまたオミットしてしまった。こ
れはやはり心残りである。

けっこういろんな方から聞かれるのだが、村上春樹の
作品でどれを最初に読んだらいいですかという問いに
対しては、『かえるくん、東京を救う』をお薦めして
いる。とくに中学生ぐらいの方ならいちばん良いと思
っている。

村上作品ではけっこう露骨な性描写があるので、それ
を心配なさる親もいらっしゃるが、その点から言って
も『かえるくん、東京を救う』には「セックスのセの字」
もない。その点でも安心である。(まあこれは考え方
の問題だろうが)

おそらく、村上春樹もこの作品は低年齢層に向けて書
き送った作品なのではないかと思う。この作品の魅力
は何といっても、主人公の「かえるくん」が石川遼選
手並みに「チャーミング」なところである。

物語は唐突だがそこにコミカルさがあり、キャラクタ
ーの対称性もあって、ぐいぐいと引き込まれてしまう。
物語としてもスリリングで面白さは超一級品である。

さらに、この作品は「読書のススメ」的な要素がある。
当然これには村上春樹の意思を感じる。

「かえるくん」が次々と引用する世界の文豪たちの作
品とその言葉には迫力と説得力があり、それが「かえ
るくん」という特異なキャラクターの言葉として私た
ちの前にもたらされるのが滑稽で面白い。「かえるく
ん」の博学さの前に、おもわず自分の勉強不足を痛感
させられ、赤面するといった仕掛けだ。

ヘミングウェイ、ドストエフスキー、トルストイ、ニ
ーチェ、コンラッド・・・


『アンナ・カレーニナ』の引用部分を読むに及んでは、
多くの人が自分もいつかは読んでみようと考えるので
はないかと思うのである。その意味でも推薦するにふ
さわしい本だと考えている。

しかし、この作品はやはり村上作品である。

縦穴を通り地底深くでみみずくんと戦闘するという設
定は今日まで紹介してきた、『ねじまき鳥クロニクル』
で見られる意識の垂直構造という村上作品に共通して
みられる世界である。そういった意味でも、村上作品
を読み進めていく「入口」としても適しているだろう。

さらに、この作品はやはり「謎」を残してくれる。だ
いたい素晴らしい古典的作品というのは、読者に大き
な「謎」という宿題を残していくものなのだ。一回読
んだだけで十全理解ができてしまう作品を、「わかり
やすくて面白い」と言ってしまったら、「想像力」と
いうものが読書によって養われることはないのである。

その意味からいっても、最終盤でかえるくんが残した
言葉、

「ぼくは純粋なかえるくんですが、それと同時にぼく
は非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」
(182ページ)


これは片桐さんだけでなく、すべての読者に「謎」と
して残るだろう。そして「これはどういう意味なのだ
ろうか?」と考えることこそが読書の本当の意味であ
り、意義でもあるのだ。

正解ではないことを前提に、私なりの解釈を書いてお
こう。(大きなお世話であることを知りつつも・・・)

たとえば「家」というものを想像してもらいたいので
ある。実は「家」というのはほとんど定義らしい定義
がないものなのである。

でもみんなそれぞれ家のイメージは持っているはずで
ある。それを突き詰めて考えていくと、「家」という
イメージの中に「非家」の部分が、たとえば「家の外
側の要素」が内包されていることに気がつく。それは
「家」というものが「非家」という世界(あるいは空
間や概念)を前提に成り立っているからなのだ。

かえるくんが言いたかったのはそういうことなのだ、
と私は理解している。あとは「かえるくん」とは何か?
という最大の問いの答えを考えればいい。それがこの
作品を読む意味であり意義である。

最後に偉そうにしてしまったが、私はこの作品が本当
に好きなのである。だから読書嫌いの息子にも薦めた
ことがある。息子が読んだか否かはわからない。別に
これから先に読んでもらってもいっこうに構わない。
息子の人生はまだ始まったばかりなのだから。

同時代に村上春樹の作品を読むことができたのは、私
にとって何よりの幸せだった。残念ながらビートルズ
は同時代に体験できなかったが、それを引いてもおつ
りが来るほどの幸福感を感じている。

※『かえるくん、東京を救う』は新潮文庫の短編集
『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)/村上 春樹

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僕はこの宝くじに当たるはずはない。
新潮文庫 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル第3部:
鳥刺し男編』474ページ


岡田亨は「井戸」を通じて何かができると確信した。そこで
この井戸付きの土地を手に入れる必要が生じる。彼は地元不
動産屋を訪ねておおよその価格を知る。100坪で8000万円。
それがこのいわく付きの土地の値段だった。

普通、世田谷区の住宅地の価格なら場所にもよるけれど、100
坪もあれば現在は1億円から2億円というところだろう。駅か
ら近かったり広い道路に接していればもっと高いかもしれない。

この物語は1984~86年の話である。その時代だったとして
も、地価はどんどん上がっていた頃であり、数年後にはバブ
ル経済により地価は急上昇するのである。100坪8000万円は
安い。だがそれでも買い手が出ないとするなら、その土地の
値段はもっと下がるはずだ。それが市場原理だからだ。

岡田はその土地を買うお金がなかった。しかも失業中で銀行
から融資を受けられる可能性はゼロだ。彼は宝くじを買うが、

僕はこの宝くじに当たるはずはない。
やがてその直感は確信にかわった。駅まで散歩をして売店で
何枚か宝くじを買って、発表の日を座って待つだけで問題が
すんなりと解決したりするようなことは絶対にない。僕は自
分の能力を用いて、自分の力でその金を獲得しなくてはなら
ないのだ。
(42ページ)


これは文句なく重要な場面における重要な言葉である。これ
は村上春樹自身が「デタッチメント」から「コミットメント」
へという言い方をする「消極的な受け身の姿勢」から「積極
的な関わり」への変換を表した場面である。それまでの村上
作品に見られた運命や結末を受け入れるしかない無力な主人
公とは明らかに違う、積極的に「何かを取りに行く」姿勢を、
この岡田亨は獲得した。

『ねじまき鳥クロニクル』は第3部は第2部から1年以上のイン
ターバルを持って発表された作品であり、第1部、第2部と
は異なり、物語の現れ方から時制がなくなるのだ。過去と現
在の境目が曖昧になり、話の語り手が変わり、時代も跳んで
しまう。つまり『海辺のカフカ』に出てくる言葉の通り、
「ここではあまり時間が重要ではない」のである。

さらに、この第3部では村上春樹は、興味深い文体を取り入
れている。

時間の経過はより不明確になる。そこにあるさまざまな時間
制のうちのどの時間制を自分が今とっているのか、わからな
くなってくる。僕の意識はゆっくりと僕の肉体に戻っていく。
それと入れ代わるように女が去っていく気配がある。彼女は
部屋に入ってきたときと同じように、静かに部屋から出て行
く。衣擦れの音が聞こえ、香水の香りが揺れる。ドアの開く
音が聞こえ、閉まる音が聞こえる。僕の意識の一部はまだ一
軒の空き家としてそこにある。それと同時に僕は、僕として
このソファの上にいる。そしてこれからどうすればいいのだ
ろうと考えている。
(69~70ページ)


ここでは「時間が重要ではない」世界を描いているのだが、
村上春樹はこの文章から、時制を消し去っている。すべてが
現在形で表現され、あえて時間の流れを意識させないように
注意を払って文章を構成している。つまり、ドアが閉まる音
は、ドアが開く音よりも必ずしも後にある必要がないと言う
ことなのだ。時間という概念を消し去ると当然ことの前後関
係も意味を失うからだ。

私はこの部分の英語訳はどうなっているのだろうかというの
がとても気になった。そこで数年前にこの目的のためだけに
このペーパーバック版を購入した。

The rustle of clothing. The shimmering smell of perfume.
The sound of a door opening, then closing. Part of my
consciousness is still there as an empty house. At the
same time, I am still here, on this sofa, as me. I think,
What should I do now?
(Vintage Books版 369ページ)


時制はやはり省かれていた。この文体というか、文章から時
間の概念を外す手法は、『海辺のカフカ』の中でも用いられ
ている。カフカ少年が旧軍の兵士に導かれて謎の街に入る場
面である。そこには時間がない。だから彼のデジタル時計の
表示が消えるのである。

岡田が井戸を手に入れようとし、実際にそれの深くコミット
し、手に入れるのが時間の問題となると、綿谷ノボルは窮地
に追い込まれる。なぜか、それはその「井戸」は岡田と綿谷
ノボルの心をつなぐ「暗渠」への入口だからだ。岡田は既に
その井戸を使って何度か綿谷ノボルの心の世界へ乗り込むこ
とに成功した。そんな中でも綿谷ノボルは伯父の地盤を継ぎ、
衆議院選挙に出馬する準備を進めていた。

「そしてそのようにして樽のたがが一度外れてしまえば、世
界は巨大な<ごたまぜ状態>とかして、かつてそこに存在し
た自明もととしての世界共通精神言語(とりあえずここでは
<共通プリンシプル>と呼びたい)はその機能を停止するか、
あるいはほとんど停止に近い状態まで追い込まれてしまうこ
とだろう。
(279ページ)


世の権力者が民衆をコントロールする際に有効な手段は、民
衆に「恐怖心」を植えつけることだと言われている。「日本
は滅ぼされる」「日本は破産してしまう」「日本はとんでも
ない国になってしまう」これらが恐怖心となって、民衆の心
の中に巣喰ってしまう。そうしてしまえばあとは、「私が救
い主です」と言えばいいのである。そこにきちんとした正統
性と説得力が与えられれば、民衆はそれを信じ、「彼こそが
リーダーだ」と叫び、羊の群れと化すのだ。

羊が出てくる。281ページ以降に綿谷ノボル自身が、対ソビエ
ト戦に備えた防寒対策として大量の羊毛が必要で、そのため
には満州での緬羊事業の成功が不可欠であると。そして綿谷
ノボルの伯父は満州で石原完爾と会うのだ。

これは『羊をめぐる冒険』で描かれた世界である。背中に星
の印のついた羊が入り込んだ羊博士が報告書をまとめたこと
になっている。

この場面は綿谷が自分の「正統性」を主張した部分ある。自
分はリーダーにふさわしい出自を持っていると。しかしそれ
が事実だかはわからないのだ。誰にもわからない。<プリン
シプル>という言葉から白洲次郎を連想させる。白洲にはさ
まざまなエピソードがあり、最も有名なのは「クリスマスプ
レゼント事件」だが、これは事実なのだろうか? 私にはわ
からないし、この事件が事実なのか否かにはあまり興味がな
い。私が興味を感じるのは、「なぜこのような白洲像が必要
だったのか」という点に尽きる。マッカーサーを怒鳴り散ら
す男の存在が、いささかでも敗戦国となった日本人の劣等感
を和らげてくれるというのだろうか。

私は白洲次郎が良い悪いと言うつもりは毛頭ない。私が「邪
悪」だと感じるのは、民衆をコントロールしようとする意思
であり、反対にイメージを鵜呑みに仮面の下に別の顔がある
ことを「想像だにぜず」、鵜呑みにして信じ込んでしまう心
理である。

綿谷ノボルの世界に移動した岡田はそこで暴力的な民衆の姿
を見る。

彼らはテレビの言うことをそのまま信じているのだ。
(442ページ)


だから綿谷の擁護者であり信者である。そして綿谷の敵であ
る岡田は「その場所」にいる民衆の敵でもある。

この作品は巨大な現代の暴力システムを描いている。このシ
ステムの特徴は暴力の担い手が権力の側ではなく、コントロ
ールされた民衆側(つまり私たち自身)にあると言うことで
ある。この物語ではその中心に綿谷ノボルがいる。ナチス党
の中心にヒットラーがいて、彼らの信奉者である一般市民が
むしろ積極的にユダヤ人や同性愛者に進んで暴力をふるい、
社会から排除していったように。

僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と
結びついている。シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という
街で結びついている。間宮中尉と占い師の本田さんは満州と
もうこの国境における特殊任務で結びついていて、僕とクミ
コは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。そして僕と
間宮中尉は井戸の底によって結びついている。間宮中尉の井
戸はモンゴルにあり、僕の井戸はこの屋敷の庭にある。ここ
にはかつて中国派遣軍の指揮官が住んでいた。すべては輪の
ように繋がり、そして輪の中心にあるのは戦前の満州であり、
中国大陸であり、昭和十四年のノモンハンでの戦争だった。
でもどうして僕とクミコがそのような歴史の因縁の中に引き
込まれていくことになったのか、僕には理解できない。それ
らはみんな僕やクミコが生まれるずっと前に起こったことな
のだ。
(285~286ページ)


まさしくその通りだ。なぜ時空を超えて人が結びつくのか。
それは人は時間軸を超えてもなお横穴によって結びつくこと
が可能であるということなのだ。それを「歴史の共有」と言
わずして何と言おう。歴史的な経験は、それがDNAによって記
憶されるのか否かは別にして、人間の無意識の層の中にある
のである。だからそれにアクセスさえできれば(方法はわか
らないが)その歴史の痛みや哀しみや辛さを共有できる。い
や、既に共有しているのだ。私たちはそれに気がつかないだ
けだ。

ライアル・ワトソンという科学者がいる。その著書に『生命
潮流』というものがある。(かなり難解な本である)疑似科
学という扱いを受けており正当に評価されているようには思
えないが、ここに「百匹目のサル現象」という興味深い仮説
が掲載されている。

詳しくはサイトなどを参照していただきたいのだが、ここに
はあくまで仮説として、サルという生命体が空間の隔たりを
超えて結びつく「暗渠」を持っていて、サルという種が芋を
洗って食べるようになるという進化を、別々の場所で同時に
達成するという、不思議な現象を紹介している。

さて、まだまだ語りたいことがたくさんあるが、結論的なこ
とを書かなければならない。それはやはり「誰が綿谷ノボル
を殺し得たのか」である。

岡田亨は綿谷を殺しきることはできなかったが、それでも彼
の目的は達成できた。彼はある意味で綿谷に最も苦しい罰を
与えることに成功した。間宮中尉の言うように「死ぬべきと
ころで死ぬことができなかった」のである。さらに生命維持
装置で生きている綿谷ノボルは既に、自死を選ぶことさえで
きない。

岡田はバットで何物かを撲殺した(と思った)後その男の顔
を確かめようとするが、クミコによって「待った」がかかる。
岡田はそれをしないで自分の世界に戻る。この男は本当に綿
谷ノボルであったのだろうか? それとも、ぜんぜん別の人
物だったのではないのか? それは綿谷の本性としての牛河
かもしれないし、それは岡田亨の一部分なのかもしれない。
その可能性だってある。だから、クミコは顔を見せたくなか
ったのかもしれない。

最後に生命維持装置を止めたのはクミコだった。だから綿谷
を殺したのはクミコだったということになる。クミコは一族
の人間として、自らの血を自らの手によって浄化したかった
のかもしれない。だから、岡田にとどめを刺すことをとどま
らせたのだろう。

穢す存在としての「綿谷ノボル」と、浄化することにコミッ
トした「岡田亨」と「クミコ」。その結果として、涸れた井
戸に水が戻り、澱んで途絶えた水の道に再び水流が復活した
のだ。

この物語は1984年から1986年までを描いているから、この物
語に登場する牛河は『1Q84』の牛河とは別人物である。この
作品で語られる彼の境遇も、『1Q84』のそれとは違う。

牛河は「醜いもの」「下賤なもの」「穢れたもの」という最
悪な配役を任された重要な役者である。しかし、牛河の姿は
実は仮面の下の綿谷ノボルの姿そのものであることが示唆さ
れている。

そして牛河が家から一歩でると変装を脱ぎ捨てて、綿谷ノボ
ルに戻るところを想像した。でもそれは馬鹿げた想像だった。
(212ページ)


最後には牛河は岡田の味方につく。牛河もまた綿谷ノボルの
本性を知っており、いずれ破綻するのを知っていたのである。
牛河自身もまた、「浄化」に力を貸したのだ。

総合的に見ると、この物語は失われ損なわれた水の流れが復
活するという話に見える。心理学的な解釈で表現するとなる
と(私には難しいのだが)、それはため込まれ塞がれ、行き
場を失った正しい欲求が、本来の力を呼び覚ます覚醒の話と
も読める。「井戸」の水の復活は、病んでいた「イド」の再
生を連想させる。

何よりもこの作品は、それまで救うことのできなかった登場
人物を、たとえば『ノルウェイの森』の直子を、『世界の終
りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」を力ずくで
救出したロマン劇でもある。

私は12月28日の記事で書いた通り、この作品が現時点で村上
春樹の最高傑作だと思っている。それはいまだにこの作品が
私にとっての多くの謎を含んでいるからだ。暗闇の208号室で
岡田亨が倒し、滅ぼしたものは何であるのか? 私はまだこ
の本を何度も再読するだろう。このような本を読める自分は
本当に幸せであると思う。

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)/村上 春樹

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もっとひどいことにだってなったのです
新潮文庫 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル第2部:
予言する鳥編』254ページ


今は待つしかありません。お辛いとは思いますが、もの
ごとはしかるべき時期というのがあります。潮の満干と
同じことです。誰もそれを変えることはできません。待
つべきときにはただ待つしかないのです。
(20ページ)


予言者加納マルタは岡田亨にそう言う。そう言うのみで
ある。非常に抽象的で何のヒントにもならない。岡田は
具体的なヒントが欲しかった。

予言

第1部の最後で、間宮中尉は本田伍長から「あなたはここ
では死にません」
と予言される。(272ページ)間宮は一
瞬よろこびを感じる。それは良い予言のように感じたか
らだ。しかし実際はそうではなかった。間宮はその後に
自身の身を置くことになる地獄の中にあっても「死ぬこ
とができないのだ」と悟るのである。間宮のいう「恩寵
が失われた」というのは意味深い言葉だ。

岡田は途方に暮れている。そして自分がどうなるのか、
どこに流されていくのか知りたいと思う。しかしノモン
ハン戦争時の本田伍長も、加納マルタも予言者はその予
言の危険性を熟知しているのだ。

岡田がこの物語の結末を知ったらどうなるのだろうか。
それはありがたい「奇蹟」となるのだろうか。『カラマ
ーゾフの兄弟』の大審問官が指摘するように、「あなた
の奇蹟が民の恩寵を奪ったのではないのか」

妻のクミコが家を出て行く。その後、岡田亨は妻の実家
側から離婚のための書類に判を押すように迫られる。し
かしこの一方的なやり方に岡田はどうしても納得がいか
ない。何かイヤなものを、イヤな存在を感じる。

そしてこの物語はしだいに岡田亨対綿谷ノボルという対
立の構図に整理されて展開していくことになる。

君たちが結婚してから六年経った。そのあいだに、君は
いったい何をした? 何もしていない——そうだろう。
君がこの六年のあいだにやったことといえば、勤めてい
た会社を辞めたことと、クミコの人生を余計に面倒なも
のにしたことだけだ。今に君には仕事もなく、これから
何をしたいという計画もない。はっきり言ってしまえば、
君の頭の中にあるのは、ほとんどゴミや石ころみたいな
ものなんだよ。
(57ページ)


綿谷ノボルはずいぶんひどいことを言う。なぜこんなに
人を傷つけ地に落とすようなことを言わなければならな
いのか。賢い人は簡単に敵を作ったりしない。だからこ
の綿谷ノボルの偏執狂的な嫌悪感が強調される。読者は
この嫌悪感を共有する。これが村上春樹の作戦だ。

あなたの価値観から見れば、たしかにゴミや石ころのよ
うなものかもしれない。でも僕はあなたが思っているほ
ど愚かじゃない。僕はあなたのそのつるつるしたテレビ
向き、世間向きの仮面の下にあるもののことを、よく知
っている。そこにある秘密を知っている。クミコもそれ
を知っているし、僕もそれを知っている。その気になれ
ば、僕はそれを暴くことができる。白日のもとに晒すこ
ともできる。そうするには時間がかかるかもしれないけ
れど、僕にはそれができる。僕は詰まらない人間かもし
れないが、少なくともサンドバッグじゃない。生きた人
間です。叩かれれば叩きかえします。そのことはちゃん
と覚えておいた方がいいですよ。
(64ページ)


岡田の精一杯の反抗だった。はったりもきいている。し
かし、すでに読者は岡田の方に共感している。読者は岡
田がすでに危険な賭に出てしまったと感じる。相手はマ
スメディアを味方につけた現代の寵児である。やがて叔
父の地盤を次いで保守的な政党から立候補し代議士にな
らんとする人間だ。民衆もこれからの日本を引っ張って
いくリーダーとして綿谷ノボルに期待している。そんな
男を敵に回すのである。

岡田はクミコが想定外の妊娠をし、経済的な理由から堕
胎をしたとき、札幌で不思議な「手品」をするシンガー
と出会う。まるでギター抱えたスメルジャコフのような
男である。(これは私のイメージだが)

自分の痛みは自分にしかわからない、と人は言います。
しかし本当にそうでしょうか? 私はそうは思いません。
たとえば誰かが本当に苦しんでいる光景を目の前にすれ
ば、私たちもその苦しみや痛みを自分自身のものとして
感じることがあります。これが共感する力です。
(129ページ)


このスメルジャコフ的な男はこう言うのである。

井戸

パール・ジャムというロックバンドのヒット曲に“I Got
Id”というタイトルの曲がある。ヒットしたのは95年
頃だっただろうか。私は最初にこの「Id」をIDカードの
「Id」、つまりアイディンティフィケーションの意味だ
と思っていたが、それは間違いで、心理学の用語であり、
フロイトが提唱した「イド(エスとも言う)」という概
念の歌だと気がついた。

心理学用語上の「イド」とは性的衝動(リビドー)や攻
撃的衝動をため込んでいる無意識の領域であり、リビド
ーなどが意識の中に浮上してくる際の通路である。専門
家ではないのでこれ以上はよくわからないのだが、私は
ある時から、村上春樹が「井戸」を「イド」としてつか
っていると確信した。

したがって、「井戸」は意識から無意識へ降りていく通
路であり、無意識の領域から発せられる名状しがたい衝
動のたまり場であり通路である。

村上作品に「井戸」が登場するのはかなり早い段階だと
思うが、このような意味合いで使われたのは『ノルウェ
イの森』からであり、井戸ではないが「意識の縦穴」が
登場したのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダー
ランド』からではないかと思う。

岡田は自ら進んで宮脇邸の涸れ井戸の底に降りる。そし
て横穴を見つけ、壁を通過して別の世界へと足を踏み入
れる。そこはホテルの208号室で、電話で卑猥な話をする
謎の女がいる。

「オカダトオルさん、私の名前をみつけてちょうだい。
いいえ、わざわざみつける必要もないのよ。あなたは私
の名前を既にちゃんと知っているの。あなたはそれを思
い出すだけでいいのよ。あなたが私の名前をみつけるこ
とさえできれば、私はここを出て行くことができる。そ
うすれば、私はあなたの奥さんをみつける手伝いをして
あげられると思う。
(140~141ページ)


岡田は「井戸」によって、「井戸の力」によって、クミ
コを「救出」できると確信するのである。

伯父さんの助言(313ページ以降)は印象的な言葉である。
伯父さんは「その土地が何を求めているのか」知る術を
知っているのである。岡田はこの助言を得て、新宿西口
の広場で「観察」をはじめる。するとスメルジャコフ的
な男と運命的な再会を果たすのである。

それがいったい地理的にどのあたりになるのか、よくわ
からなかった。どちらが北でどちらが南なのかもわから
ない。たぶん、代々木と千駄ヶ谷と原宿の三つの駅を結
ぶ三角の中だろうと僕は見当をつけたのだが、確信はな
かった。
でもいずれにせよ、それは都会の真ん中に、見過ごされ
たようにぽつんと残された地域だった。たぶんもともと
道路が狭く車がほとんど入れないせいだろう、その一画
だけには、長いあいだ開発業者の手が及んでいなかった
のだ。そこに足を踏み入れると、二十年か三十年時間が
逆戻りしたような気分になった。
(324ページ)


井戸から攻撃的な能力を与えられた岡田がギターを持っ
た男に誘導されるようにこの都心の一画に足を踏みいれ、
「復讐」を行う。そこは復讐に適した土地であったのか
もしれない。

このあたりはおそらく渋谷側原宿分水のあるあたりであ
ろう。つまり暗渠のある地域である。道が狭く車が入り
にくいのはその道そのものが暗渠上にある可能性もある。
暗渠が道になっている場合は通行できる車の重量が制限
されている場合が多い。川に蓋をしただけであるので、
暗渠上に高い負荷をかけるのは危険だからである。

暗渠であるならば開発はできないし、周辺の地域も開発
が遅れてしまうだろう。そう言った意味からもそう考え
る合理性はある。

最後に、昨日の記事でこじつけた『カラマーゾフの兄弟』
的な解釈についてである。第2部において、岡田亨対綿谷
ノボルという構図が明確になった段階で、私はこの物語
が「誰が綿谷ノボルを殺し得たのか」という『カラマー
ゾフの兄弟』的な解釈ができると考えた。

綿谷ノボルというのはカラマーゾフの三兄弟にとって滅
ぼすべき父フョードル的存在になってくるのを感じる。
綿谷ノボルは古い日本的(家長制度的)な人間としてだ
けでなく、マスコミの寵児という現代的な要素を併せ持
っているキャラクターである。であるがゆえにますます
邪悪で危険な存在になっている。

ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いたア
レクセイは非力だったが、死後書かれることがなかった
この続編では、アレクセイが成長を遂げ、何かを獲得し、
何かを打倒する物語になった可能性があると言われている。
あくまで可能性の問題だ。

岡田亨が「あざ」を獲得したときから、この作品は『カ
ラマーゾフの兄弟』の続編的な要素を身にまとったと言
ってもいいのだろうと思う。

かつて加納クレタであった女は言う。

良いニュースは小さな声で語られるのです
(355ページ)


ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)/村上 春樹

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私は暗渠が怖いの
新潮文庫 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル:第一部』
195ページ


この作品は「暗渠」の物語である。「暗渠をめぐる冒険」
と言い換えても良いほどである。もちろんこれは私の読み
方であり、仮説である。残念ながらそれを証明する術はな
いし、その可能性はゼロである。

しかしこうも考える。その仮説は証明されなければいかな
いのか? 仮説は仮説のままで良いのではないかと開き直
れたときに、私はとてもシンプルな村上春樹のファンにな
った。それでよいのだ。なぜ眉間にしわを寄せて本を読む
必要があるのだ。

路地とはいっても、それは本来的な意味での路地ではない。
正直なところ、それは何とも呼びようのない代物なのだ。
正確に言えば道ですらない。道というのは入口と出口があ
って、そこを辿っていけば然るべき場所に行きつける通路
のことだ。しかし路地には入口も出口もなく、両端は行き
止まりなっている。
(23~24ページ)


失業中の主人公、岡田亨が猫を探しに行く路地は暗渠であ
る。仮説であるが間違いない。世田谷区の住宅地で入口と
出口がふさがった「囲繞地」として存在していながら、誰
も所有権を主張しない土地が残っているなら、それは暗渠
としか考えられない。暗渠は不動産上は特別な手続きを経
なければ河川と同様の扱いになる。暗渠は元は川であるか
ら、涸れてしまっている場合もあるし、ひっそりと流れて
いる場合がある。水が流れていない場合でも暗渠は下水道
の役割を果たし、集中豪雨のときに水を然るべきところに
逃がす役割を持っている。都市を洪水から守る役割を担っ
ている。

おそらくこの暗渠は世田谷区か都が管理しているものであ
る。河川に所有権が及ばない通り、暗渠も区や都が管理し
ている以上所有権は及ばないのである。もしそうでなかっ
たらこの土地はとっくに誰かに買い取られて、近接する宅
地と合筆されているはずである。そうすればその宅地は広
くなり価値が上がるからだ。

村上春樹の作品では、その解読のためのヒントを小説の中
に潜り込ませることが多い。これも仮説である。だが私は
経験上それを確信している。

「ねえ、岡田さんには何かとくべつ具体的に怖いものがあ
る?」話が途切れたときに、彼女はふと思いついたように
僕にそう尋ねた。
「とくにそういうものはないと思う」と僕は少し考えてか
ら言った。怖いものはいくつかあるだろうけど、とくべつ
と言われると思いつけない。「君は?」
「私は暗渠が怖いの」と彼女は膝を両腕に抱きしめるよう
な格好で言った。「暗渠って知ってるでしょう? 地下の
水路。蓋をされた真っ暗な流れ」
(194~195ページ)


この暗渠恐怖症の彼女は岡田亨がかつて勤めていた法律事
務所の同僚で寿退社をする女性であるが、こともあろうか、
彼女は岡田亨を自宅に誘い一夜をともにする。彼女は彼に
「充電」を求める。

「怖いのよ、岡田さん」と彼女は言った。「怖くて怖くて
仕方がないの。我慢できないくらい怖い。そのときと同じ。
私はどんどんそこに流されていくの。私にはそこから逃げ
ることができないの」
(196ページ)


彼女は結婚に暗渠に吸い込まれる自分を見ておびえるので
ある。彼女は子どもの頃に農業用水路に落ちて危うく暗渠
に吸い込まれそうになった幼児体験を持つ。岡田亨は彼女
に共感する。彼はすでにクミコと結婚しているので、「結
婚っていうのはみんな同じだよ」と慰めるのだが、

「そんな風に言っちゃうのは簡単よ。みんなそうなんだ、
みんな同じだって、言うのは」
(197ページ)


彼女は言葉を求めてはいなかったのだ。彼女が求めていた
のは「充電」である。それは彼に抱きしめてもらうことだ
った。暗渠に吸い込まれそうな自分をしっかり支えて欲し
かったのだ。やがて吸い込まれてしまう運命にあったとし
ても、彼女はそれを求めないわけにはいかなかった。不謹
慎な行為である。それは岡田亨にとっても不謹慎な行為だ
った。それは妻のクミコに露見し、のちの彼の運命を変え
てしまったのである。

予知能力者本田さんは岡田夫婦のよき理解者であり、二人
の縁結びの神であり、本田さんのもとを訪ねてお告げを聞
きに行く。本田さんはのノモンハン戦争の従軍経験を持つ
元旧軍兵士である。

ただし水には気をつけた方がいいな。この人はこの先、水
に関連したことで苦労することになるかもしれん。あるべ
き場所にない水。あってはならん場所にある水。いずれに
せよ水にはずいぶん気をつけた方がいい」
(98ページ)


本田さんはこのように岡田亨の未来を運命付けてしまった。
そうして暗渠をめぐる冒険が始まるのである。

暗渠は横穴である。それに対する縦穴は井戸である。

暗渠である(私がそう仮定する)路地に面した空き家の庭
には涸れた井戸がある。これが第2部以降きわめて重要な役
割を果たす。岡田は井戸を通じて暗渠に至り、横穴を通っ
て何かを行うことになるのである。

このようにこじつけていくと、加納マルタが予言した意外
なところで見つかる水玉のネクタイも「水」との関連性を
考えざるを得なくなるのである。

「水はないのよ」と笠原メイは言った。「水のない井戸」
飛べない鳥、水のない井戸、と僕は思った。出口のない路
地、そして・・・・・・。
(124ページ)


あるべき場所になく、あってはいけないところにあるもの。
都市にとって暗渠というのはそのようなものであった。歴
史的にも。都市化の進行とともに暗渠には生活排水が流れ
込みどぶ川化した。そして異臭がすると理由で上から蓋を
かぶせられるのである。暗渠がある場所とはもとは河川で
あるので、例外なく低地である。そして、世田谷区だけで
はなく、東京には実に暗渠が多く存在しているが、それは
すでに知る人ぞ知る存在になっていて、むしろ現在では
「隠されるべき存在」となっている。

宮脇さんの空き家が「幽霊屋敷」と呼ばれるのには科学的
には証明できない理由がある。それは土地というものが歴
史を内包した存在であるからなのだ。その土地でかつて血
が流されたのであれば、その血が土地に染みこんだいる。
かつて天災によって多くの涙が流された土地ならば、その
涙が染みこんでいるのだ。

この作品には歴史的な共有というテーマが描かれている。
日本人の歴史的な体験は時空を超えて、密かに繋がった横
穴(暗渠)を通じて多くの人に共有されている。モンゴル
との国境で山本が味わった苦痛と加納クレタの苦痛、本田
さんが味わった渇きと、クミコの渇き・・・

私が痛いというときは本当に痛いのよ
(175ページ)


読者もこの悲痛な謎に満ちた加納クレタの「痛み」を共有
するようにできているのである。本当にその通りになる。
見事である。この作品は(まだ未完だと思われる『1Q84』
を除けば)現時点で村上春樹の最高傑作だと思う。

終わる前に、もう一つ。

実はもう一つ仮説がある。(本当はたくさんある)

もちろん僕には特徴がないというわけではない。失業して
いて、『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部覚えて
いる。でもそんなことはもちろん外見からはわからない。
(69ページ)

村上春樹の作品の中に『カラマーゾフの兄弟』が頻繁に出
てくることは、昨日まで書いていたこの作品の記事の中で
も触れた。私は村上春樹の作品を読む際に『カラマーゾフ
の兄弟』が出てきたら、その作品の中で主人公は「カラマ
ーゾフの兄弟」を「通過」した存在であり、あの兄弟の誰
かを受け継ぐ存在であり、作品の中に「カラマーゾフ的」
な何かがあるものだと確信するのである。そしてそれを必
死で見つけようとする。

岡田亨はアレクセイ・フョードロビッチ・
カラマーゾフなのだろうか?


とすると綿谷昇はイワンか? 本田さんや間宮中尉はゾシ
マ長老か? きりがない・・・

それもふまえて、明日に『第2部:予言する鳥編』を書く。

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)/村上 春樹

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お家へお帰りなさいまし。殺したのはあなたじゃないん
ですから

新潮文庫 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(下)』
220ページ


パーヴェル・フョードロヴィチ・スメルジャコフ

カラマーゾフ三兄弟の父フョードルが白痴の乞食女に生ませた
という私生児であり、カラマーゾフ家の住み込みのコックとし
て離れで暮らす、暗い性格の青年である。小説では完全にフョ
ードルの子であるとは断定できない存在として書かれている。

いつも隅の方から世間をうかがう、人見知りのはげしい少年に
なった。少年時代には、猫を縛り首にして、そのあと葬式をす
るのが大好きだった。
(上巻:234ページ)


という動物虐待の傾向をも持っていた。またスメルジャコフは
イワンの影響を強く受けていた。彼もまた無神論者であった。

わたしの考えでは、かりにそんな不慮の災難にあって、キリス
トの御名と自分の洗礼とを否定したとしても、ほかならぬその
ことによって、苦行のために自分の命を救い、長年それらの善
行で臆病をつぐなうためだとしたら、やはり何の罪もないだろ
うと思うんです。
(上巻:241ページ)


スメルジャコフは神を否定した瞬間からキリスト教徒としての
あらゆる権利を剥奪されるのであるから、キリスト教の教義に
よって裁かれることはあり得ないというのである。イワンはス
メルジャコフが自分の影響を受けていることを知りつつも、反
対に彼に嫌悪感を抱いている。

だが、最後にイワンを決定的に怒らせ、これほどの嫌悪を心に
植えつけたいちばん主要なものは、日を追うにつれてますます
強くスメルジャコフが示すようになった、一種特別ないやらし
い狎れなれしさだった。無礼な態度をあえてとるわけではなく、
むしろ反対にいつもきわめて丁寧な口をきくのだが、なぜかわ
からぬうちにスメルジャコフはどうやら何かの点でイワンと連
帯しているような気になったらしい按配で、話をするときはい
つも、まるで二人の間には、かつて双方から言いだして二人だ
けは知っているが、まわりにうごめく他の俗人どもには理解も
及ばぬ、何か秘密の取りきめでも存するかのような口調になる
のだった。
(中巻:14ページ)


このように思想的な連帯感(と言えるのかはわからないが)に
ついて無関心だったにはイワンの方であった。これがイワンの
欠点であり、限界であったのだ。

このイワンとスメルジャコフの関係についてはさらに深く考え
る必要があるように思える。二人は使用者と使用人の関係にあ
る。スメルジャコフはイワンの考え方に自分に一番近いものを
感じていながらも、イワンの欠点を熟知しており、彼を軽く見
ているところがある。

これは父フョードルの死後、つまり殺人事件発生後の会話である。

「あのときわたしの申しあげたかったことは、つまりそのため
にあんなことを口にしたわけですが、あなたが実のお父さまの
殺されるのをあらかじめ承知のうえで、見殺しになすったとい
うことでございますよ。その結果、世間の人たちがあなたのそ
んなお気持や、そのほかいろいろなことについて、けしからぬ
ことを推論しないようにと思いましてね。あのときお上に申し
立てないと約束したのはそのことだったんです」
(203ページ)


「わたしが今『そのほかいろいろなこと』と申しあげたのは、
たぶんあなた自身もあのときお父さまの死を望んでおられたは
ずだ、という意味でございますよ」
(203ページ)


この言葉の意味が示すように、イワンはスメルジャコフに見透
かされていたのである。イワンは父が兄ドミートリイの手によ
って殺されることを望んでいた。そのためにイワンはアリバイ
をつくるために家を離れるのである。「それでもことは起こる
はずだ」と妄想を抱いているのである。

たしかにドミートリイは父に対して殺意を持っていなかったと
は言えないだろう。あまりに周囲にそれを公言していたし、そ
の嫌疑が説得力を持つほど彼の行動は血の気が多すぎたのだ。
イワンはそれを利用しようとした。しかし、殺したのはスメル
ジャコフであって、ドミートリイではなかった。

「殺すなんてことは、あなたはご自分では絶対にできなかった
し、そんな気もありませんでしたが、だれかほかの人間が殺し
てくれたらと、それをあなたは望んでらしたんです」
(205ページ)


「あなたは残念ながらフョードル・カラマーゾフを殺すことは
できないんですよ」という言葉のように思える。それは私がこ
の作品を「誰がフョードル・カラマーゾフを殺し得たのか」と
いう視点で読んでいるせいだ。残念ながら力不足ですというこ
となのだ。

イワンの持ていたのは「すべては赦される」という思想とも呼
べない弱い発想であり、そんなごまかしでは「父殺し」などで
きるはずがないと、スメルジャコフは考えた。ではスメルジャ
コフはドミートリイのことをどう考えていたのだろうか。スメ
ルジャコフはドミートリイの「力」をどう考えていたのか。

スメルジャコフはドミートリイには「力」があっても「扉を開
ける能力も冷静さ」も持っていないと考えた。フョードルが決
めていた扉を開けるサイン(グルーシェンカが来たというサイ
ン:ノックを5回)をスメルジャコフはドミートリイにこっそり
教える。しかしフョードルから信用されていたのはスメルジャ
コフのみであり、父は警戒心から最後までドミートリイに対し
て絶対に扉を開けることはなかったはずだ。だから、またドミ
ートリイにもフョードルを殺す能力はなかったのである。スメ
ルジャコフはドミートリイには殺人を完遂することができない
という確信があったから、みずから赴きそれを実行したのだ。
アリバイ工作までして。

では、フョードルを殺したのはスメルジャコフなのだろうか?

答えは否である。ドストエフスキーは、父殺しにスメルジャコ
フを利用しただけであり、殺したのはイワンである。

「でしたら言いますが、殺したのはあなたですよ」怒りをこめ
て、彼はささやいた。
(220ページ)


「よくまあ飽きないもんですね! 差し向かいでこうして坐っ
ていながら、なんでお互いに欺し合いをしたり、喜劇を演じた
りすることがあるんです? それとも相変わらずわたし一人に
罪をかぶせたいんですか。面と向ってまで? あなたが殺した
くせに。あなたが主犯じゃありませんか。わたしはただの共犯
者にすぎませんよ。わたしは忠僕リシャールで、あなたのお言
葉どおりに、あれを実行したまでです」
(221ページ)


つまりこういうことだ。イワンがスメルジャコフを唆して、遠
隔コントロールし、フョードルを殺したのである。これは、村
上春樹が『海辺のカフカ』の中で、「父殺し」の意思を持つカ
フカ少年に代わって、ナカタさんが無意識の中で殺害を実行し
たのと同じ設定である。スメルジャコフは無意識ではなかった。
しかし、

もしあなたが残れば、そのときは何事も起こらなかったでしょ
うよ。わたしだって、あなたが事件を望んでおられないと知れ
ば、何一つ企てなかったでしょうからね。
(229~230ページ)


というスメルジャコフの言葉からも明らかである。イワンがア
リバイのために家を空けることが、スメルジャコフにとっての
「指令」であり、スメルジャコフは殺意もお金に対する欲求も
ないにもかかわらず、単に「精神的な結びつき」において、
「父殺し」を実行したのである。

では、繰り返すようだが、フョードル・カラマーゾフを殺すこ
とができたのはイワンなのだろうか?


この答えも否である。イワンは残念ながら一人では何もできな
い存在として描かれた。それは、ドミートリイも、スメルジャ
コフも同じなのである。父を殺し遺産を奪いたいという殺意と
動機だけでは不十分だったのだ。それがロシアの歴史である。

ドミートリイの無実の罪を確定させたのは農民の意地であった。
これは、「父殺し」という罪を確定させ、完成させたのは結局
のところ農民(ナロード)であった、という実に逆説的な結論
の物語なのである。

力と知恵と連帯とが古いロシアを倒し得るのだ、とドストエフ
スキーは考えていたにちがいない。私はそう確信している。そ
して書かれなかった続編にこそ、そのすべてを兼ね備えた存在
としてアレクセイを登場させるつもりだったのだ。

エピローグで貧しい子どもたちに「カラマーゾフ万歳」と叫ば
せることのできるアリョーシャに、すでに連帯力を備えたアレ
クセイに、ドストエフスキーはロシアの未来を託したのである。

残念ながら、レーニンはアレクセイではなかった。またアレク
セイになることもできなかった。そしてレーニンの後を継いだ
スターリンの時代には、父フョードルが復活してしまうことに
なる。歴史は複雑である。

しかし、この作品はアレクセイのような存在こそが暴走するロ
シアを正しい方向に導くことができるという、「予言書」であ
る。いや、変なイメージを付与するのはもうやめよう。こんな
にスリリングで、示唆に富んだ小説は他に例がないと思われる。
スケールの大きさも他の追随を許さない。私は文学論者ではな
いので、この本がなぜ理屈抜きで面白いのか、また、これだけ
示唆に富んでいるのか説明できない。私がこの三回の記事で示
すことができたのは、せいぜい「私はこう読んだ」レベルの話
である。

「大審問官」のところだけでも読む価値がある本。いや、そん
なこと言わずに長い休みを利用してゆっくり読んで欲しい傑作
である。そして、この本はなるべく若いうちに読んだ方がいい
と思う。何となくである。それからもう一つ。村上春樹が好き
な人は、この作品はマストである!

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)/ドストエフスキー

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しかし、その血のために、もう一つの、僕に何の罪もない恐ろ
しい血の責任までとらされるのは、やりきれませんよ・・・・・・

新潮文庫 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(中)』
367ページ


ゾシマ長老

アレクセイの師でありロシア正教にとって、この小説の舞台と
なる血の宗教的重鎮であるゾシマは、この小説においてどのよ
うな役割を与えられたんであろうか。

上巻の「場違いな会合」において、ゾシマは分裂の危機にあっ
たカラマーゾフ一家を救済するため、文字通り「場違いな会合」
を開くのである。しかし、この試みは失敗に終わる。父はドミ
ートリイを罵り、ドミートリイは「なんでこんな男が生きてい
るんだ」と叫ぶ。イワンはこれらを無視し傍観者然とする。ア
レクセイはどうすることもできない。ゾシマはこの会合の後に
体調を崩し昏睡状態に陥る。その直前に、ゾシマはアレクセイ
に「この一家を救うのだ」と言い残して。

ゾシマ長老の失敗はある意味で、宗教は古いロシアを葬り去る
主役になり得ないというドストエフスキーのメッセージを読み
取ることができるだろう。ドストエフスキーは宗教の役割を全
面的に否定した訳ではない。しかし、彼は宗教が果たす役割に
は「限界がある」ということを言いたかったのだと私は思う。

中巻の「第六編 ロシアの修道僧」ではゾシマの僧になる前の
俗世での象徴的な出来事がアレクセイの手記という形で語られ
る。私にとって印象に残ったのは「決闘の話」と「神秘的な客」
である。

ゾシマが士官学校生だった頃に色恋沙汰から決闘することにな
った。決闘とはピストルを持って交互に打ち合うあれである。
映画などで見たことがあるであろうか。この頃の西洋社会では
主として貴族たちの名誉を守るために、このような決闘という
名の殺し合いが合法的に認められていたのである。

弾丸はわずかに頬をかすめ、耳にかすり傷を負わせただけだっ
た。「よかった、あなたが人殺しをせずに住んで!」わたしは
叫んで、自分のピストルをひっつかみ、うしろに向き直るなり、
高く森の中へ投げ棄てた。「お前の行く場所はそこだ!」わた
しは叫んで、敵の方に向き直った。「おねがいです、愚かな青
二才のわたしを赦してください、自分がわるいのにあなたをさ
んざん侮辱したうえ、今は人を射つようにことをさせたりして。
わたし自身はあなたの十倍もわるい人間です、いやおそらくも
っとわるいでしょう。このことを、あなたがこの世でだれより
も大切にしていらっしゃるあの方に伝えてください」
(71ページ)


ゾシマは後悔していたのである。決闘というくだらない行為以
上に、最初の一発を順番に従って相手に撃たせた後に懺悔した
自分に。なぜ、その一発が撃たれる前に懺悔し和解を求めなか
ったのか。

そんな行為はほとんど不可能でした。なぜなら、わたしがこの
方の射撃を堪えぬいたあとでこそ、はじめてわたしの言葉が何
らかの意味を持ちうるのですけれど、もしここについてすぐ、
射撃の前にそうしたりすれば、臆病者、ピストルがこわくなっ
たな、聞く耳持たんわ、とあっさり片づけられたにちがいない
からです。みなさん。
(72ページ)


これは自分の名誉や権威によりどころを求める考え方であり、
ゾシマ自身が、多くの人がこのようなくだらないものに対する
強いこだわりを捨てきれないことで、いかに悲劇的な状況に陥
っているか、ゾシマ自身が痛感しているのである。このような
「自負」とか「矜持」とか「プライド」とか、何かとカッコの
良い響きがあるが、その本質たるや誰もよくわからない、誰に
も説明がつかないものを、ゾシマは見抜き森に棄てたのである。
「それにこだわるなら森の中に拾いに行けばよい」と。

ゾシマが聖職者となって一定の地位に就いたあとに、その「神
秘的な客」はやってきた。そして「私は人を殺しました」と告
白するのである。「私はどうしたらいいでしょうか」とゾシマ
に問うのだ。

「楽園はわたしたち一人ひとりの内に秘められているのです。
今わたしの内にもそれは隠れていて、わたしさえその気になれ
ば、明日にもわたしにとって現実に楽園が訪れ、もはや一生つ
づくんですよ」
(78~79ページ)


「これは精神的、心理的な問題です。世界を新しい流儀で改造
するには、人々自身が心理的に別の道に方向転換することが必
要なんです。あらゆるに人が本当に兄弟にならぬうち、兄弟愛
の世界は訪れません。人間がどんな学問やどんな利益によって
も、財産や権利を恨みつらみなく分け合うことはできないので
す。各人が自分の分け前を少ないと思い、のべつ不平を言った
り、妬んだり、お互いに殺し合ったりすることでしょう。あな
たは今、いつそれが実現するかと、おたずねでしたね。必ず実
現します、しかし最初にまず人間の孤立の時代が終わらなけれ
ばならないのです」
(79ページ)


「孤立?」私は思った。原卓也さんはこれを「孤立」と訳した。
私は「疎外」ではないのだろうかと思ったのだ。この「神秘的
な客」が「マルクス的な何か」だと思ったからだ。この珍客の
言葉は、そののちにゾシマが直面するカラマーゾフ一家の悲劇
や、この地球上の私有財産にまつわる悲劇の予言のように響く
が、この客はこのように言葉を続けるのである。

なぜなら今はあらゆる人間が自分の個性をもっと際立たせよう
と志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるか
らです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生じ
るのは、人生の充実の代りに、完全な自殺にすぎません。それ
というのも、自己の存在規定を完全なものにする代りに、完全
な孤立におちこんでしまうからなのです。なぜなら、現代にお
いては何もかもが個々の単位に分れてしまい、あらゆる人が自
分の穴に閉じこもり、他の人から遠ざかって隠れ、自分の持っ
ているものを隠そうとする、そして最後には自分から人々に背
を向け、自分から人々を突き放すようになるからです。一人で
こっそり富を貯えて、今や俺はこんなに有力でこんなに安定し
たと考えているのですが、あさはかにも、富を貯えれば貯える
ほど、自殺的な無力に落ち込んでゆくことを知らないのです。
(80ページ)


この男はゾシマに何を求めたのであろうか。ここで財産を無力
を蕩々と述べて、ゾシマから何を引き出そうとしたのだろうか。
ゾシマはこの男に「罪の告白」を勧めるのだが、この男は「裁
き」を求めたのである。ゾシマの「告白なさい」という言葉は
とても事務的に聞こえるではないか。男は自白書を当局に提出
するが、その中で、『私は苦しみを欲する!』と書くのである。
これは『罪と罰』の中でも、看守長に煉瓦を投げつけた囚人の
話と同じである。彼は救いの言葉よりも罰を求めたのである。

この話はロシアの来るべき個人主義的な考え方の終演を予言し
た。結果としてその通りになってしまった。自己実現を人間の
生きる目的とする自由主義的な社会思想は、社会主義国家の中
では抹殺され、私有財産は否定され、宗教そのものも不要であ
ると否定されるのである。

ゾシマ長老が死んだのちに腐臭が立ちこめる。アレクセイはそ
のことに動揺するのである。動揺する裏には、イワンから聞か
された「大審問官」が大きく作用しているのである。さらにそ
こには、アレクセイの中に流れている「カラマーゾフ一族の血」
も影響しているといって良いのかもしれない。

「あんな小柄な、枯れきったお身体で、骨と皮だけだったのに、
どうしてこんなにおいが生ずるんだろう?」
(130ページ)


「お前まで迷ったのか?」突然パイーシイ神父は叫んだ。「お
前まで不信心者どもといっしょになっているのか?」嘆かわし
げに彼は付け加えた。
アリョーシャは立ちどまり、なにか捉えどころのない目でパイ
ーシイ神父を見たが、またその目を急いでそらし、地に落とし
た。横向きのまま立ち、質問した相手に顔を向けようともしな
かった。
(139ページ)


アリョーシャ(=アレクセイ)はこのまま修道院を去るのであ
る。しかし彼は宗教心を棄てることはなかった。彼は「一本の
葱」によって救い出されるのである。崩れかかっていた何かが、
芥川龍之介が『蜘蛛の糸』で描いた「救いの葱(!)」によっ
て救われた。そしてゾシマ長老が生前命じた、この俗世でカラ
マーゾフ一家を守れという使命を全うしようと奔走することに
なる。

しかし残念ながら事件は起きてしまう。

私はカラマーゾフ三兄弟とゾシマ長老について書いたが、もう
一人重要な人物について書いていない。勿体ぶった訳ではない
のだが、これは明日にとって置きたかった。「カラマーゾフの
兄弟」とはドミートリイ、イワン、アレクセイの三兄弟とプラ
ス・ワンが存在するのである。読んだ人なら「何もったいつけ
ているんだ!」と怒られてしまいそうだが、私はあえて明日そ
の人物を書く。それが私のこの小説の読み方だからだ。

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)/ドストエフスキー

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それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を
探し出すことでもあるかるからだ。

新潮文庫 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(上)』
488ページ


keiさんからコメントいただいた通り、あと一週間で2010年
も終わる。このブログも7回で終わることになる。今日から
紹介する作品はわずか3作品である。これはわたしのBIG3で
ある。これら3作品は私にとって非常に重要な作品となった。
そしてこれらの重要性を超えることは今後あるのだろうか、
このBIG3が入れ替わることはあるのかと考えると、おそら
く可能性は低いだろうと、残念ながら感じる。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

この作品ほど「現代文学の最高峰である」と評価する声が
大きいものもないだろう。評論家や作家だけでなく、多く
の学生にも読み続けられる作品。近年亀山新訳物がベスト
セラーになったが、このような高尚な作品がベストセラー
になるのだから、日本もまだ捨てたもんじゃない。

この作品をどのように紹介するのがふさわしいのか私は迷
ったのだが、結局そんなかっこよい紹介の仕方をする力量
もないので素直に紹介することにする。本当はものすごく
思い入れが深いのでカッコをつけて凝った紹介をしたいの
であるが、この巨星のような作品に一体何ができるという
のだろう。

この作品はドストエフスキー最後の作品となった。続編と
いうか、続きがあるという説が有力だが、中途半端な終わ
り方ではなく、「見事に完結した作品」である。この続編
をもみたいというのは多くの読者の偽らざる気持ちであろう。

『罪と罰』と同じように、いや、それ以上に現代小説のあ
らゆる要素を含んでいる。哲学、宗教学、倫理学、法学、
経済学の方面からアプローチできるし、「推理小説」「サ
スペンス小説」「法廷小説」「ミステリー」「恋愛小説」
「オカルト」・・・まさに人類の英知の集結点のようにも、
また出発点のようにも見える作品である。

ここまでべた褒めするとドン引きされてしまうかもしれな
いが、この作品は別である。これでも形容しきれていない
のだ。

さっきも書いたが格好つけられる作品ではないので素直に
書くと、私にとってのこの作品は、

「誰がフョードル・カラマーゾフを殺したのか」ではなく、

「誰がフョードル・カラマーゾフを殺し得たのか」である。

三兄弟の父、狡猾で好色な父フョードル・カラマーゾフは
誰かが葬らねばならない古いロシアの象徴であり、それを
熱血漢だが父譲りの好色でロマン派の色濃い、典型的な古
いロシア気質の長兄ドミートリイか、インテリゲンチャで
あり無神論。自由主義論者で思想家の側面を持つ「ロシア
の新世代」次男イワンか、それともロシア的良心の代表者
である三男アレクセイか。誰が古いロシアを滅ぼすのか? 
これがこの作品の見所である。(もちろん私的に)

ドミートリイ

情欲は虫けらに与えられたもの!

俺はね、この虫けらにほかならないのさ、これは特に俺の
ことをうたっているんだ。そして、俺たち、カラマーゾフ
家の人間はみな同じことさ。天使であるお前の内にも、こ
の虫けらが住みついて、血の中に嵐を巻き起こすんだよ。
これはまさに嵐だ、なぜって情欲は嵐だからな、いや嵐以
上だよ!
(202~203ページ)


理性には恥辱と映るものも、心には全くの美と映るんだか
らな。ソドムに美があるだろうか? 本当を言うと、大多
数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が存在している
んだよ——
(203ページ)


ドミートリイは自分の血、すなわちカラマーゾフの血を否
定しない。それを受け入れてさえいる。彼は古い地主階級
の精神を受け継ぐものであり、それを倒そうとする力は
「憎しみ」や「怒り」であり、過去の克服の手段は「力」
である。「暴力」と言ってもいいのかもしれない。

イワン

「兄さん、もう一つ質問していいですか。どんな人でも、
ほかの連中を見て、そのうちのだれは生きていく資格があ
り、だれはもう資格がないなんて、決定する権利を持って
いるものでしょうか?」
「何のために、資格の決定なんてことを持ちだすんだい? 
その問題はたいていの場合、資格なんぞという根拠じゃな
く、もっと自然なほかの理由にもとづいて、人間の心の中
で決められるんだよ。それから権利という点だけれど、期
待する権利を持たぬ人間なんているもんかね?」
「でも、他人の死をじゃないでしょう?」
「他人の死だってかまわんだろう? あらゆる人間がそん
なふうに生きている、というよりそれ以外に生きていかれ
ないとしたら、何のために自分に嘘をつく必要があるんだい?
(270~271ページ)


イワンはカラマーゾフの血を否定している。自分にその血
が流れていると言うことは知りつつも、それを英知で克服
しようとする。彼はそのために知識を身に付け、思想によ
って武装したのだ。イワンは父や兄とは違い、農奴制は否
定的だし、神という存在は人間にとって必要だがそれは人
間が作り出したものであり、神自身は存在しないという考
え方を持つ。だから修道院で育った末の弟とも相容れない
のである。

270~271ページの引用部分は、イワンとアレクセイの会話
だが、『罪と罰』にも出てきた「裁く権利」への回答とし
て、人間は裁かないとしても、「心の中で裁きを加える権
利がある」というのである。つまり人には憎むべき相手に
殺意を抱く権利はあるのだと。

アレクセイ

これがその二百ルーブルです。誓ってもいいですけど、あ
なたはこれを受けとるべきですよ、でないと・・・・・・でない
と、つまり、世界中の人がみなお互いに敵にならなければ
いけなくなりますもの!
(398ページ)


アレクセイは兄ドミートリイが屈辱を与えたスネギリョフ
二等大尉に和解を求め、二百ルーブルを渡すのである。ス
ネギリョフ二等大尉は貧しい境遇にある子供を抱えた男で
ある。アレクセイはこのような貧しいものにも等しく愛情
を注ぎ、敵対することをよしとしないのである。

しかし、スネギリョフはこの二百ルーブルという大金をア
レクセイの目の前でくしゃくしゃにし、地面にたたきつけ、
足で踏みふけるのである。非常に印象に残ったシーンであ
る。

「一家の恥とひきかえにあなたのお金を受けとったりした
ら、うちの坊主に何と言えばいいんです?」
(405ページ)


スネギリョフはそういうと泣きながら立ち去るのである。
アレクセイは神を信じ、天国を信じていながら、その神秘
主義的な教義には疑問を持っている「新しい聖職者」であ
る。ドストエフスキーはこの若者に未来の理想のロシア像
を重ねていたにちがいない。

彼はこのような「仕打ち」を受けても、自分の非を認め、
自分のやり方がまずかったのだと考える。そこにはもっと
大きな問題があることをまだ彼は知らない。彼は初々しく、
まだ社会の中に飛び出したばかりの青年なのだ。アレクセ
イはバラバラになっているカラマーゾフ一家をかろうじて
結びつける存在である。父からもドミートリイからも信頼
されているのは彼だけなのである。

上巻の最後に「大審問官」という章がある。イワンが神が
いるならなぜこの世から惨たらしい幼児虐待や強姦、貧困
が無くならないのか、それを問う叙事詩である。この部分
だけでも解説本があるほど有名な箇所であり、ドストエフ
スキーが生涯をかけて問うた「神とは何か」である。

大審問官は16世紀のセビリアにおいてイエスを糾弾する。

われわれはお前の偉業を修正し、奇蹟と神秘と権威の上に
それを築き直した。人々もまた、ふたたび自分たちが羊の
群れのように導かれることになり、あれほど苦しみをもた
らしたおそろしい贈り物がやっと心から取り除かれたのを
喜んだのだ。
(494ページ)


この「奇蹟」「神秘」「権威」は新約聖書のマタイによる
福音書4章のイエスと悪魔の問答を指している。悪魔はイエ
スを試みに合わせる、つまり試すのである。

ここでは有名な「人はパンのみに生きるにあらず」という
と言う言葉がある。しかし人間の歴史とはパンを奪い合っ
た歴史ではなかったのか、と審問官は問うのである。イエ
スが死人を甦らせたり、不治の病を治したりした奇蹟や神
秘は、人々に信仰を与えはしたが幸福を与えたのか? 反
対に、人々にパンを与えてきた人たちはどんな者だったの
か?

チムールとかジンギスカンといった偉大な征服者たちは、
全世界の征服を志して、この地上を疾風のように走りぬけ
たものだが、その彼らにしても、無意識でこそあったけれ
ど、やはり人類の世界的、全体的統合という、まったく同
じ偉大な欲求を示したのだ。(中略)とにかく、人間の良
心を支配し、パンを手中に握る者でなくして、いったいだ
れが人間を支配できよう。
(495~496ページ)


パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パン
より明白なものはないからな。
(489ページ)


イエスは沈黙するしかなかったのである。歴史がそれを証
明した。イエスが地上に君臨した時から15世紀を経て、時
は宗教改革の時代を迎えたのである。

この「大審問官」の章はあまりに説得力があり、迫力があ
るので、イワンの劇中劇とというよりもドストエフスキー
の宗教論の提示として読めてしまう。それだけ内容が深い
し濃いのだから仕方がない。

しかしこの「大審問官」の前にドストエフスキーはアレク
セイとスネギリョフとの場面で金(パン)の前にひれ伏す
ことのなかった人を描いているではないか。

アレクセイはイワンのこの大叙事詩が間違えたものである
ことを知っていたはずだ。それはイエスのことではない。
「人違い」でしょうと。しかし、それにもかかわらず、こ
の叙事詩がアレクセイの心に大きな何かを残すのである。

ところが人間たちはもともと単純で、生まれつき不作法な
ため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら
恐れ、怖がっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会に
とって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つ
なかったからなのだ!
(486ページ)


人間は実は自由なんて望んでいない。急に自由が与えられ
たら途方に暮れてしまう。村上春樹の小説に出てきた台詞
である。この台詞はもちろんこの『カラマーゾフの兄弟』
を意識したものであろう。村上春樹の作品には頻繁にこの
作品が登場することから見ても、影響の大きさが分かるし、
村上春樹の作品を「解読」するには『カラマーゾフの兄弟』
の解読が不可欠なような気がするのである。

「大審問官」のテーゼである「羊の群れは羊の群れである
べきなのだ」
の「羊」は村上作品に登場する「羊」や「羊
男」を読み解くキーになるのではないか。

中巻を明日書く。

(私は亀山訳より原卓也訳のほうが好きである。したがっ
て新潮文庫を採用した)


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