七海半太郎の倭女王卑弥呼



西羌

西羌の本は、三苗より出る、羌姓の別(支流)なり。其の国は南岳に近し。
舜の四凶を流すに及んで、これを三危に徙(うつ)せり。河関の西羌の地、是れなり。(後漢書西羌伝)

南岳は、湖南省衡南市の北、祝融峯、衡山峯ともいう。1290m。中国五岳の一つ。(地図参照、長沙の南にあり)
三危は、敦煌の東南30kmの山で、敦煌を西へ出ると有名な玉門関がある。
玉門は玉の産地「和田」方面への道の意(松田寿男)で、漢の関所がある。
河関は、甘粛省蘭州の西で、当時の県名、金城郡に属す。

四凶は、次の四つ。
帝舜は、共工を幽州(北京の西・恒山?)に流し、驩兜(カントウ)を崇山(河南省)に放ち、三苗を三危(敦煌)に竄(のが)し、鯀(コン)を羽山に殛(ころ)す。(書経舜典)
孔安国の注に、三苗は国名で、縉雲(シンウン)氏の後、諸候となり、饕餮(トウテツ)と号す。
三苗は、江淮、荊州に在って、堯、舜、禹のとき、数々の乱を為す。(史記五帝本記)
七海注、江淮は、長江と淮水の間。楚の荊州市は湖北省。

三苗国は、苗民国、三毛国ともいうが、多種の民族からなる共同体の国名です。

徐長龍「長江文明の発見」
およそ5300年前の大渓文化の次に屈家嶺文化がくる。屈家嶺は前3000年紀前半に膨張し、北は河南省、陝西省の南部まで勢力圏を伸ばした。
屈家嶺=石家河文化は、湖北省天門市の石家河遺跡群をさす。
大きな城壁都市が出現し、玉器、金属器は豊富。
三苗国は、この石家河が拠点ではないかという。

七海は、衡山(こうざん)が祝融峯というから、祝融は火山で燭龍と同じ現象を指す。三苗は祝融信仰者でしょう。
顓頊(センギョク)は驩頭(カントウ)を生み、驩頭は苗民を生む。苗民は釐(リ)の姓で肉を食う。(山海経大荒北経)釐とは治、幸の意味。

昔、高辛氏の娘婿の犬封国は、湖南省邵陽(ショウヨウ)市の大きな洞窟へ行った。子孫がどんどん増えた。

西羌は、後漢書において、三苗の子孫、周代の犬戎とみている。
ということは、高辛氏の娘婿の犬封国は、帝顓頊系統の三苗と婚姻している。
晋書においては、西羌を帝舜の子孫とする。つまり帝舜の不肖の息子の昧(マイ)(訂正、商均)がイヌ族とともに三危へ行ったでしょう。
玁允(ケンイン)の匈奴と瞼允(ケンイン)の犬戎は違う。もまた献夷は犬戎でしょう。前者は狼信仰、後者はイヌ信仰です。
(西域の物語ではこれらが区別できず、混同の原因になっていた。)

春秋左氏伝、周の文公18年に面白い記事あり。世間の「ニックネーム」とともに説明します。

1、帝鴻(大暤伏義氏)の不才子・渾沌(コントン)
義を抑えて賊をかくまい、好んで悪徳を行い、やくざ者とつきあう。・・・「わからずや」という。

2、少暤(少昊金天氏)の不才子・窮奇(キュウキ)
約束を守らず親切をつくさず、言葉を飾り立てて治まった世を口先で乱し、うっかり使ってみると出鱈目をやり、人を謗るのが好きで、悪人をかばい、正しい者をこき下ろした。・・・「困った物好き」という。

3、顓頊帝高陽氏の不才子・檮杌(トウコッ)
教えても話してもてんで受け付けず、叱れば逆らい、放せばのさばり、良い人を凌いで誠の道を乱した。・・・「頑固な丸太」という。
1、2、3の三族は、世世、その悪を改めず、恥のうわ塗り、帝堯の時代となりました。

4、縉雲氏の不才子・饕餮(トウテツ)
飲み食い放題、取り込み好き、欲が深くて贅沢、厭きること知らず、いくら積んでも際限なく、孤児にも貧者にも寡婦にも恵まず。・・・「底抜け食らい」といわれた。

大暤伏義氏は、先天易の発明者です。伏義と女媧は、龍座の雄雌星座で、イザナギ、イザナミと同じ星座です。
少昊金天氏は、員神を毎日見て夕日を観察、蓐収という刑天神を残して西へ還った。金天氏は慶州新羅の先祖です。
顓頊帝も五帝の一人です。
縉雲氏は、三苗の後裔だから、先祖は顓頊帝に遡り、しかも周代では犬戎という。つまり、瞼允というイヌ族です。

尭・舜・ウの時代を通して、舜は、上記の不才子を四方に放ったので、中原は安らかになったという。続いてウが洪水を防ぎ、前2070年、浙江省会稽で、即位した。夏王朝の夏后ウという。

重要な件
これら1~4の変り者は、中原の外敵に備えた垣根でした。(刃物もキチガイも使い様)

もとに戻って、西羌は三苗出身で、周代の犬戎だから、殷の武丁から続く鬼方で、西羌は鬼方とする。三危山には帝舜の子「昧(マイ)」(訂正、商均)も居た。
そして、林梅村は盧氏を鬼方という。

帝舜有虞氏(虞氏)の不肖の子:(商均)は、やはり昭武九姓の小月氏へつながるのではないか。
匈奴に破れた月氏は、巴里坤山(バルクル)の大月氏でしたが、この時、河西回廊の張エキ市に居た九姓は、全体を昭武姓の九氏とした。
九氏も居るのは、三苗やイヌ族が混じっていると考えます。

話は三国志の魏に飛びます。
魏の明帝(曹叡)は、魏書本記で、魏は帝舜の子孫で土徳の人と云う。
やはり曹氏は、下記新唐書の昭武九姓の一つです。
大月氏や西域の焉耆(えんき)の王子が魏へ朝貢するのも自然の成り行きでしょう。焉耆は、玄奘のいう阿耆尼国(アギニ:火の国)、現在のカラシャ―ル。アギ二は唐音、アグニは梵語で同じです。
なお、出雲の「阿国・於国・小国」は、アグニ音に似る。火の国:阿蘇山は、燭龍です。宮崎県の高鍋市から変形鏡出土し、燭龍と刻みが入っていた。

昭武九姓
新唐書の、康、安、何、米、曹、石、火尋、戊地、史
北史、隋書の、康、安、何、米、史、鏺汗、烏那遏、穆、漕の九姓。

元中記で、犬封国は、福建省泉市宗武鎮から萩市見島へ来ていた。これが魏志にいう狗奴国の由来でした。
証拠は景行紀にあり、筑後「神木の御木国(みけくに)」は、木佐木地名:象木:歴木あり、歴木(拘奴)を倒したのが狗奴です。御木:三毛国:三苗と同じで、狗奴です。

狗奴:シナの華南から来た。元犬封国は、狗奴国王:卑弥弓呼素で、官名は狗古智卑狗です。

拘奴は、卑弥呼と不和の逸都彦ですが、官名は拘右智卑狗で、王は居ないので、拘奴は狗奴に臣従している。
のち571年、大神比義が宇佐神宮を継いで天皇の護り神となる。

拘奴:天狼(シリウス)星は、天甕星の大物主。夏王の庶流:匈奴も狼信仰だから、シナの華北から来た。夏王の親族でしょう。