七海半太郎の倭女王卑弥呼


貝塚茂樹「中国の歴史」上巻、岩波新書1964.春秋列国
越の都「会稽」、楚の都「郢(エィ)」、呉の都は建業[南京]。その東端が上海。

楚国1

二回に渡って考えます。
楚の先祖は、祝融:燭龍を信仰、楚の重黎、呉回兄弟が火を司る巫司といわれる。
きょうのテ―マは、「楚に西戎が居るのは、なぜだろうか」です。
つまり、林梅村のいう昆吾の剣は、楚の昆吾氏とつながるのでしょうか。

楚という集団は、南蛮、東夷、西戎の混成の民族で、殷の武丁王の征伐を受け、殷と敵対していた。前333年には越を従えて、春秋時代、最大地域の強国であった。(徐朝龍「長江文明の発見」)・・・西戎が出てくる。

楚の建国は、前11世紀、鬻熊(イクユウ)から、前223年、最後の王・負芻(フスウ)まで、凡そ800年、殷の武丁時代を含めて、凡そ1000年以上にもなる。
鬻熊は、周の文王に事え、曾孫の熊繹は、封号を貰って立国し、丹陽(湖北省南部)に都を定めた。

克殷のとき、周は、西土八國「庸、蜀、羌、髳(ボゥ)、微、盧、彭、濮」や巴国の協力を取り付け、殷を破った。(書経・牧誓)・・・盧氏がいる。

楚の大姓は、「己、斟、彭(ホゥ)、禿、(女+云)、曹、羋(ビ)、董」の八氏で、多民族の集団であった。(国語の鄭語16)・・・曹と董が居る。
夏、殷時代には、隣国と攻防し盛衰をくりかえしたが、弱小の羋(ビ)姓、即ち荊州の楚部族が生き残った。羋は、羊を意味する族名です。
羋姓は、楚辞で有名な屈原の本姓ですが、屈という地名を負い、姓を替えなかった。
なお、和氏の璧の和氏、呉への亡命者伍子胥、漢の劉邦、項羽も楚の地域から出ている。劉邦は、劉は龍に近似、先祖は龍を制御できる御龍氏であろう。

呉越
越は、良渚文化とほぼ同じエリアに在って、夏王朝(夏后ウ)の「中興の少康の子孫」で、ウの末裔であると、自称していた。ウは会稽で即位した。のちに越も都を会稽とした。魏志倭人伝の会稽は、この地です。
なお、ウの姓は姒(ジ)であって、越の姓は無(ム)ですから、ウの姓ではないと判ります。では、なぜ、越は、ウの末裔と堂々と自称するのでしょうか。
これが、日本書紀の神代紀を解くヒントです。のちに再考しましょう。

呉越の習俗
服の左衽(左前)、髪は断髪、抜歯や黒歯、文身(入れ墨)の風習があった。
龍、蛇、鳥を信仰し、入れ墨は、これらを象る。良渚文化の鳥信仰を受け継ぐ呉は、白鶴を信仰、白鶴舞の儀式が残る(徐朝龍)

呉は、周(姫姓)の泰伯(太伯)と虞仲が行った国で、呉王夫差の姓は、姫姓です。(三国志の呉の孫権は、孫子の後裔で、姓は姫姓ではない)
越は、会稽に都を置き、夏后ウの後裔と自称、越王勾践の姓は無、名は余です。

前473年、呉は越に負けて亡び、越は、都を会稽から琅邪(山東半島)へ移した。
前333年、楚が越に勝ち、越は楚の属国となった。

句呉は、周の太白の字(あざな)ですが、なぜ、句がつくのか。句は鉤と同じ。
於越は、越国で、粤(エツ、オチ)も同じ。(粤は米部の漢字)
(越の南は、百越、閔越あり、その南は恐ろしく広い)

以下、日本との関係を考えます。
1、良渚文化の三苗は、三毛ともいうが、前2200年、太平洋の島々へ渡って行ったのではないか。(小山修三「縄文学への道」を参照)
七海注:太平洋の島は、九洲も含む。
筑後の神木の御木国(みけくに)は、三毛に同じ。また、青森県弘前市には猪土偶が出土。

2、楚の大姓の曹氏、董氏
曹氏は、舜の子孫で、曹魏の明帝が暴露する。(三国志魏書明帝本記)
董氏は、龍(馬のこと)の飼育をした董父。帝舜が馬の飼育係として董氏とした。董氏は、眷龍氏といい、龍族です。(左伝)

3、盧氏は、羅氏とともに、湖北省に居た。日本の末盧國、末羅国は後裔です。

4、東北六県は、蝦夷(カィ)または「エミシ」というが、南史では、大漢国という。夏は大の義だから、夏漢国と読める。
蓋国(北朝鮮ケマ高原)は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。(山海経・海内北経) 七海注記:方位は90度左旋回で適合する。また、鉅燕とは、西に向かって、何処まで広いのでしょうか。

5、邯鄲(カンタン)辺りを北上する「けったいな人」
この人は、楚の国へ行くのに、北へ向かうという。土地の人は、方向が反対ですよというが、一向に聞かず北上していった。
時期は、前223年、楚が秦の始皇帝に負けた後でしょう。
おそらく、朝鮮半島の辰韓へ行ったと思われます。辰韓は、秦の役で、亡命者が来ている。辰韓の言語の於菟:虎が楚語だからです。(魏志韓伝)

6、尾張氏の先祖・天香具山命は、新潟県佐渡弥彦の弥彦神社に祭られている。
香具山の父・天火明命(饒速日尊ともいう)は、神代紀で、火照命、火折命と三兄弟です。当然、物部氏も饒速日尊の後裔です。
北陸三県の越前、越中、越後は、越人の後裔でしょう。
石川県は、白山比メ大神が象徴するように、天山(白山)や楚国に関係するのではないか。

7、裸国・黒歯国は、萩市を代表地点とする。黒歯国は呉越や楚国の連中でしょう。(魏志倭人伝から七海推定)

8、文身国(いれずみ国)は、那須岳を代表地点とする。(南史倭国伝)
有明海の肥前に蠣(かき)地名あり。入れ墨して海に潜り牡蠣をとる。不彌国(文)は、糸島半島の芥屋(魏志倭人伝)
安曇氏や大久米氏は文身していた。(日本書紀)

9、呉服の左衽(左前)は、中原とは反対の日本の風習。(徐朝龍を参考)

10、巴国の巴は、日本の巴紋や勾玉。(七海の推定)
林巳奈夫のいう出土品は、船のスクリュウに似るという。
スサノオは左三巴紋、神功皇后は右三巴紋です。

11、端午の節句、五月五日は、屈原を偲ぶ八坂神社。祇園の八坂神社は、牛頭天王。辰韓の貊(バク)国は牛頭州という。和田にも牛頭山あり。

12、阿蘇山は、燭龍(祝融)です。阿蘇大神は、磐龍ともいう盤龍鏡と同じ。
盤龍地名は、湖北省黄陂県の盤龍湖にあり、殷代初期には盤龍城あり。
肥後は、火の国ともいう。出雲の斐意川は、肥川、簸川とも書く。
阿蘇山の神仙池は、火の神アグニを想起し、インドの神アグニやアスターナ(麹氏高昌国)の湖底と同じでしょう。

以上、西戎らしき国は、克殷の時、周の支援者の羌や盧氏とみられます。