『フローラの不思議な本』(十)
第十章 いるはずのないもの
たかしのうしろでしずかにドアがしまったとき、さすがのたかしも、これはおかしいぞと思いはじめたようです。
たれたインクのあとが家の中にもつづいているのです。
しかも、ずっと奥のほうにまで。
インクは、すっかりかわききっていました。
床の上では色はわかりにくいのですが、それでも赤と青と黒だということは、見てとれます。
家の中はひっそりと、しずまりかえっていました。
たかしはインクのあとをたどっていきました。
てんてんとたれたインクのあとは、たかしの部屋の前までつづいていました。
だれかがいるとは、とても思えなかったのですが、たかしは、ねんのため、ドアに耳をつけて中のようすをうかがってみました。
やはり物音ひとつ聞こえません。
たかしはドアをあけました。
だれもいません。
部屋の中は今朝、たかしが家を出たときと、なにもかわっていないようでした。
本の上につみあげられた重しも、あやういバランスをたもったまま、くずれることなく、ちゃんと、のっかっていました。
ただ床の上には、やはり、インクのあとがありました。
しかもこんどは、だれとも知れない、そのだれかが、こおどりでもしながらぐるぐると部屋の中をかけまわったとしか言いようがないくらい、そこらじゅうインクのシミだらけなのです。
この部屋のようすを見たときのお母さんの顔がまざまざと目にうかぶようで、たかしは、なんだか、おそろしくなってきました。
どうしようと、手で顔をぬぐいながら天をあおぎます。
すると、なんと天井にまで、シミがついているではありませんか。
まちがいありません。
たかしのいないあいだに、だれかが、こんなめいわくないたずらをするために家にはいりこんだにちがいないのです。
たかしは犯人の手がかりをどうにかして手にいれられないものかと思って、もういちど、玄関までインクのあとをたどっていきました。
そして玄関のドアをあけようと、とってに手をかけた、そのときです。
なにやら外から話し声が聞こえてくるのです。
ドアごしなので声も小さく、もごもごと、こもって聞こえていたのですが、それでもはっきりと男の子の声だとわかるということは、話しをしている本人は、ドアのすぐむこうに、いいえ、ひょっとすると、たかしのにぎったそのおなじとってのむこうがわを、つかんでいたのかもしれません。
「ヘイ、クロ、見てみろよ。
おまえのしかけたワナにひっかかったバカなやつがひとりいるぞ。
世の中には、またずいぶんとマヌケなやつがいたもんだぜ」
「アカ、
ひとりじゃねえぞ、そのマヌケなやつは。
おめえのコギタネエその足をどけてみろよ。
クックックッ、こりゃけっさくだ。
おい、アオ、オメエも見てみろよ」
「ウヒヒ。
クロ、おまえのワナにはオレサマも脱帽しちまうなあ。
それにしても、どうしてみんな手形をのこしていくんだあ?
こっちの大きいのは、おとなのだろう?
そしてそっちの小さいほうは……」
そうです、たかしのです。
どうやらドアをはさんだむこうがわには、三人の男の子がいるようでした。
アカに、クロに、アオ。
まちがいありません。
イヌのポン太にいたずらをしたという三人組のワルガキどもです。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
たかしのいつもの、どうしようがはじまりました。
けれどもこんどばかりは、まよっているひまなどないのです。
いきなりドアがバッとあいて、たかしはとってをにぎったまま、スッと、すっとばされるようにして三人の前へと、ひきずりだされてしまったのです。
「おや、ぼっちゃん、
ごきげんよう」
おそらくアオでしょう。
青いバッジを胸につけた男の子が、帽子をとって、たかしにあいさつしました。
先ほどとは話しかたが、まるでちがいます。
「ぼっちゃんも人がおわるい。
ぬすみぎきは、いけませんねえ」
アカです。
なぜって、赤いバッジを胸につけているのです。
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[photo by Todd Huffman] |
三人とも三つ子のように顔がおなじでした。
顔色は、言われてみれば、たしかにわるく、なんだか日に焼けた新聞紙のような色をしていました。
きている服までおなじ。
全身黒ずくめの、まっ黒です。
かぶっている帽子まで黒く、三人を区別しているのは、胸につけた、まるいバッジだけでした。
ところがクロは、バッジをつけているのかどうかさえ、よく見てみないとわからないのです。
そしてこのクロが、ワルガキどものリーダーのようでした。
そう思ってたかしがチラチラ、チラチラ、クロのことを見ていると、
「ぼっちゃん、ワルガキだなんて、めっそうもない。
わたくしたちほど、おとなしくて、こどもらしい、こどもは、そうはいませんよ」
えっ? まさか! どうして!?
いやもう、たかしは、おどろいて、目をまるくするばかりです。
クロは、そうしたたかしに、目だけが笑っていないその顔で、ゆっくりと、うなずきました。
どうやらクロたちには、たかしの心が見えるようです。
「ぼっちゃん、
それほどおどろかれることもないでしょう。
世の中には、わかろうとしても、けっしてわかりえない、不思議なことが、
たくさんあるものなのですよ」
クロは、どこかで聞いたような、そんなことを言って、一歩前へと大きくふみだし、たかしにグッと、せまってきました。
もう、鼻と鼻が、くっつきそうです。
たかしは、すぐに、はなれました。
けれども、たかしのうしろには、ほかのふたりがすでにまわりこんでいて、ほとんど、うしろには、さがれないのです。
たかしはクロたちにかこまれていました。
クロが口を開きました。
「どうです? ぼっちゃん?
世の中の不思議ふしぎについて、
ぼっちゃんのお部屋で、ゆっくりと、かたりあかしませんか?
いえいえ、ご心配にはおよびません。
わたくしたちも、ちょうど、たいくつしていましてね。
時間なら、死ぬほど……、
いえいえ、山ほどあるんですから」
クロはそう言うと、ほかの二人に目とあごをつかって合図しました。
たかしはアカとアオにうでをつかまれてしまいます。
そして、むりやり、つれこまれそうになったのです。
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[photo by Stinging Eyes] |
たかしのあせが、とまりません。
やめろと言ってやめてくれるような相手には、とても見えないのです。
よけいなことを考えないほうがいいのは、あきらかでした。
あきらかでしたが、それでも、つい、考えてしまうものです。
肩をおとして下をむき、ためいきまじりでたかしは、自分の行くすえについて、あれやこれやと考えていました。
ハハハハハハハハハハハハハ……
でも、そのときです。
まちがいありません。
たしかに聞いたことのある声が、たかしにも聞こえたのです。
「ちょっと、あんたたち、
さっさともどりなさいよ。
どこまでこのあたしに手をかけさせるき?
なめてんじゃないわよ」
そう、フローラでした。
フローラが、クロたちのうしろに立っていたのです。
どこで見つけてきたのか、みょうなスプレーを手にもって。
クロは、ふりかえると、帽子をとってフローラにあいさつしました。
「これは、これは、姫。
ごきげんよう」
「バカなこと言ってんじゃないの。
あたしのたかしから手をはなしなさいよ。
じゃないとこいつで消しちゃうわよ。
シッ、シッ。
さあ行った、行った。
今日はもう、おしまい」
フローラの言葉には力がありました。
フローラがそう言うと、アカとアオは、すぐにたかしのうでから手をはなしました。
そして三人は、そろってニヤニヤ笑いながら、口々にたかしの知らない国の言葉でなにかをワーッと、わめきちらし、まるで、おどりでもおどっているかのように、ぴょん、ぴょん、ぴょーんと、とびはねるようにして、すうっと家の中に消えていったのです。
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[photo by jumpinjimmyjava] |
「まったく、
なんて下品なやつらなのかしら。
もう世話がやけるったら、ありゃしないわ。
たかし、あんたもやられたのね?
手も、うでも、インクでべっとりじゃない」
フローラの言うとおりでした。
いたずらにひっかかった右の手のひらが黒いままなのは、しかたがないとしても、アカにつかまれた右のうでには赤の、アオにつかまれた左のうでには青の、じとっとした、まあたらしいインクのシミが、あらたにできていたのです。
「いい? そのまま、じっとしててよ。
シュ、シューッと。
さあ、きれいになった」
フローラが、手にしたスプレーをたかしにふきつけます。
すると不思議なことに、インクのあとは、きれいさっぱり、あとかたもなく、消えてしまったのです。
それって……
「超強力インク消し。
成分は企業ひみつで、おしえられません」
フローラはそう言うと、くるっとまわって、たかしに背をむけ、こしをかがめて地面にたれたインクのあとを、シュ、シューッと、ひとつひとつ消しはじめたのでした。
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[photo by The Knowles Gallery] |
たかしはその日から毎日、わるい夢にうなされるようになりました。
たとえば、そう、例の三人組が夜、たかしの寝ているあいだに本からとびだしてきて、知らないうちに顔に丸、三角、四角のらくがきをしていき、そのまま気づかずに学校に行ったたかしは、みんなの前で、大はじをかく……、とか、
あいつらをぜったいに出てこさせるものかと、これでもか、これでもかと、本を力いっぱい、必死におさえているというのに、気づくと例の三人組どころかフローラまでが、いっしょになって、たかしと本をおさえている……、とか、
あるいは仕事から帰ってきたたかしのお母さんの顔が、もう、だれだか、わからないくらい、ぐっちゃぐちゃに、らくがきされているというのに、本人は、いたってふつうに、すました顔で、かがみの中のシワを気にしている……、とか、
家族三人、そろってごはんを食べているというのに、フローラがけっとばしたクロのおしりから、チューッと噴水のように黒いインクがとびだして、あたり一面、そこらじゅう、そのとびちったインクまみれになって、ぬれぬれの大惨事……、とか。
そういったたぐいの夢ばかり、たかしは見つづけたのです。
けれども、そのいっぽうで、たかしは、あいもかわらず毎日、毎日、本を開いては、フローラとおしゃべりしていました。
本を開けばフローラはかならず、すぐに、たかしの前にあらわれました。
そして夢にでてくるワルガキどもは、あらわれませんでした。
たかしは、ほとんど、寝ていなかったはずです。
寝ても夢にうなされて、すぐに起きてしまうのです。
ただ、そうは言っても夜は寝る時間です。
でもそうした夜も、フローラといっしょに遊ぶことで、どんどん、どんどん、けずられていったのです。
昼はもちろん学校でした。
ちかごろは、遅刻ばかりしているたかしをむりやり学校へつれてくるために、先生の命令でクラスのだれかが当番になって、朝、たかしの家にやってくるようになっていました。
そんな先生のいる学校でなんて、寝られるわけがありません。
こうした生活をつづけたたかしの顔は、目もあてられないほど、ひどいありさまになっていました。
目の下にはクロがスーッと、なぞったような黒いくまが消えることなく、目玉はアカがペッと、つばをはきかけたように赤く血ばしったままで、顔色は、アオがフーッと息をふきかけたと思えるほど、まっ青になっていたのです。
ここまでくると、いくら毎日、毎日、たかしの顔を見ているからといって、わずかなかわりようには、ほとんど気づかなかったお母さんだったとしても、さすがに目がふしあなでもないかぎり、ちゃんと気づきます。
「たかちゃん?
あしたお母さん仕事休むから、
いっしょに病院行きましょうね。
学校へはもう、つたえてあるの。
だから今日ははやく寝なさい。
あしたははやいのよ……」
そして、とうとう、たかしは、病院へ行くことになってしまったのです。
たかしがつれてこられたのは、近所のかかりつけの小さな病院ではありませんでした。
もっとずっと大きな、大学の病院でした。
朝はやくから、たくさんの人がきていました。
そうした人たちといっしょに、たかしは待合室をかねたロビーで、いつくるとも知れない診察の順番を、ただひたすら待っていたのでした。
たかしのお母さんは先ほどから、置いてあった週刊誌をつぎからつぎへと手にとって、あさるように読みふけっていました。
けれども、たかしはというと、たかしは本どころかマンガだって読む気にはなれません。
ちかくにあったテレビもうるさいだけで、寝てなさいと言われても、こんなにたくさん人のいるところでは、寝られたものではありません。
たかしは、ぼーっとしていました。
ただ、ただ、ぼーっと……。
どれほど、ぼーっとしていたでしょうか。
自分が起きているのか寝ているのか、それが夢なのか現実なのか、それさえも、たかしは、わからなくなってきたようでした。
ぼっちゃん……、ぼっちゃん……
今にも消えそうな声で、だれかがたかしを呼んでいました。
それにしても、ぼっちゃんだなんて、なんだかいやな呼びかたです。
そう思ってたかしは、あたりを見まわしました。
「ぼっちゃん、
ここですよ……」
そう言って答えたのは、知らないおじいさんでした。
おじいさんは、たかしのすぐうしろにすわっていました。
時代劇か仮装大会にでも出てきたのですかと思わず聞きたくなるような、そんな昔ふうのかっこうをしていました。
百科事典にでものっていそうなかっこうでした。
あるいは博物館で見かけるような。
おじいさんは、すーっと、すべるように歩いてきて、たかしの横にすわりなおしました。
やはり知らないおじいさんでした。
「ぼっちゃん?
さがしましたよ。
ぼっちゃんは、あの本をおもちですね?
え?
なぜ知っているのかって?
いえいえ、じつはわたしも……、
あの本にはお世話になりましてねえ。
そうですねえ……、
かれこれ、二、三百年も前の話しになりますかねえ……」
本物です。
たかしの目の前に本物のゆうれいがあらわれたのです。
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆