『フローラの不思議な本』(一) | なかのたいとうの『童話的私生活』

『フローラの不思議な本』(一)

フローラの不思議な本

 


 

















 













 
第一章 けっして開いてはいけない本 

 

だれがその本を置いていったのかは、わかりません。

けれどもたしかにその本は、たかしの机の上に置いてあったのです。


家の中にはだれもいません。

たかしのお父さんも、たかしのお母さんも、仕事に出たきりです。

たかしのお父さんもお母さんも、たかしが学校へ行く前に家を出ました。

今朝、最後に家を出てかぎをしめたのは、たかしです。

そしてたかしが学校から帰って、ふたたびかぎをあけるまで、家にはだれもいないはずでした。

それにもかかわらずその本は、たかしの机の上に置いてあったのです。


大きな本でした。

たかしが見たことのある、どんな百科事典や国語辞典よりも大きくて、ぶあつい本でした。

また、とても古い本のようでした。

表紙には革がはられているのですが、その革の表紙は手あかでよごれて黒ぐろとテカり、はしから見える中の紙は、はたけば本当に、ほこりがでそうなくらい、うすよごれていました。


ふだんのたかしなら、こんなにきたなくて、あやしいものに手をつけることは、まずありません。

ですが、このときばかりは、なにも考えずに、いいえ、ただしくは、なにも考えられずに、

そうです、まるでなにかに魅入られたかのように、ぼーっとなって手をのばし、本にふれてしまったのです。


たかしが本を開きます。

その本は、よっこらしょとか、どっこいしょとか、思わず声にだして言ってしまいそうになるくらい、重たい本でした。

その本が、けっして開いてはいけない本だとか、終わらない春のねむりの書、などと呼ばれていて、またの名を『フローラの不思議な本』というのだ、などということは、たかしには知るよしもないことです。


たかしは開いたところから、本を読みはじめました。



 
四月二十七日 霧のため道にまよう
 
ああ、もっとはやく、気づけばよかった。

いったいどこでどう、道をまちがえてしまったのだろう。

それさえわたしにはわからない。

山小屋から山頂まで一本道だと言っていたあのおやじの話しは、うそだったのだろうか。

せめて半日。

いいや六時間。

三時間でもいい。

時間をもどせれば……


この霧のせいなのだ。

この、いまいましい霧めが、わたしの足もとをくるわせ、数あるけもの道のひとつに、わたしをひきいれたにちがいないのだ。

のばした手の先が霧の中に消えていく。

一歩ふみだすこの足の先さえ、白い闇となった霧の中に、のみこまれていくではないか。

おお、もし、ふみだした足の先になにもなかったら。

もしわたしが、切りたった、それこそ何百メートルもあるような崖の上に立っていたとしたなら。

ああ、そのときわたしは、わたしは、どうなってしまうのだろう……


おお、考えるな。

考えてはいけない。

そして動かないことだ。

この霧がはれるまでは、けっして動いてはいけない。

霧はあしたになれば、きっとはれる。

そう、きっと……


ああ、それにしても寒い。

霧がこんなにやっかいだとは知らなかった。

どこもかしこも、びしょびしょではないか。

下着まで水びたしだ。

崖をふみはずすより先に、わたしはカゼをひいてこの山の中で、ひとりさみしく、死んでいくのではないだろうか……
 

 



四月二十七日のページはそこで終わっていました。

どうやら登山をしていて道にまよった男の人の日記のようです。

たかしがページをめくると、つぎの日づけは翌日の四月二十八日。

つづきが書いてあるようでした。


いっぽう前のページにもどると、そこには一日前の四月二十六日の日記があり、そのひとつ前はさらに一日前の四月二十五日。

けれども、そのさらに前のページの日づけは四月二十二日となっていて、どういうわけか二日、日づけがとんでいました。


名前はどこにも書かれていません。

また、月と日はていねいに書かかれているのですが、ざんねんながら、それが何年かまでは書かれていませんので、これらの日記がいったいいつごろのものなのか、たかしには、けんとうもつきませんでした。


一日前となる四月二十六日の日記の題が「山小屋のおやじのたいくつな話しに八時間もつきあわされる」となっていたので、たかしは前の日ではなく、先ほど読んだ日記のつづき、四月二十八日の日記を読んでみることにしました。



 
四月二十八日 伝説のめじかよ、わたしをみちびきたまえ
 
おお、朝日よ、太陽よ、偉大なる光のみなもとよ、わたしは救われた。

わたしは助かったのだ。

霧という名の白い悪魔は、ついにはおまえの足もとにひれふし、あとかたもなくここに消えさった。

おまえのそのかがやきが黄金のシャワーとなってわたしをしんからあたためてくれる。

ああ、なんてあたたかいんだ。

おまえが、これほどまでに、あたたかかったとは。

なくてはならないものだったとは。

ああ、わたしは、なんて無知だったのだろう。

なんて、おろかかだったのだろう。
 

 

だが、よろこびはそれだけではない。

わたしは、やった。

わたしは、ついに、見つけたのだ。

道にまよったまま、どこを、どう、さまよっていたのかは、わからない。

やぶの中に胸までつかって右に左に、手で葉をかきわけながら、まるで海の上でも泳ぐ人であるかのように、おぼれまい、ひきずりこまれまいと必死になって、ふうふう言いながらすすんだかと思えば、

下を見ようものなら、おそろしくて、おそろしくて、もう、足がすくんでしまって、それこそ、気をうしなってしまいかねないほどに垂直に切りたった、高い、かべのような崖にピタッと、はりついて、すこしずつ、すこしずつ、じりじり、じりじりと、よじのぼり、

さらには、それが鳥か、けもののものであるとわかってはいても、こだましあって、ひびきあって音がまざりあっているために、いったいなんの声なのか、もうわからなくなってしまった、そんなぶきみな鳴き声のやむことのない、暗い、どこまでいっても暗い森の中を、

おびえながらも、かけ足で、つまずきながらも、ふんばって、でもけっきょくは、すっころんでしまって、さすって、さすって、足をさすって、どうにか、こうにか、やっとの思いで森をぬけて、

そうしてようやく、あれが山頂と、自分が今どこにいるのか、おおよそであっても、なんとなくであっても、それがわかるようになりはじめた、まさに、そのとき。

まさにそのときだ。

わたしは見つけたのだ。


うるわしの白いめじかよ、伝説のあかしとなる白い光の使者よ、おお、逃げないでおくれ。

どうか、こわがらないでおくれ。

わたしはおまえをつかまえにきたのではない。

おまえの命をうばいにきたわけでも、傷をつけにきたわけでもないのだ。

ただ、ただ、おまえが、おまえだけが知るという伝説の楽園、エリジウムへ、このわたしをみちびいてもらいたいがために、こうして何千キロもの道のりをひとり、こえてきたのだ。

めじかよ……


わたしは必死になって、うったえかけた。

さまざまな苦難のはてに、わたしたちは、ようやく、めぐりあえたのだ。

このチャンスをのがしてなるものか。

ああ、それにしても、めじかは、またなんと、うつくしいのだろう。

日の光をうけたその白い毛なみは、すきとおってダイヤモンドのようにキラキラ、キラキラ、かがいているではないか。


わたしたちは、しばらくのあいだ、見つめあっていた。

じっと、たがいの目を見つめあい、そして、むかいあって。

めじかの黒くみずみずしい、ガラス玉のような、まるいひとみが、わたしを見つめていた。

おお、はかりしれない伝説の使者よ、わたしをためそうというのか?

いいだろう。

だがそんなことをしてもむだだ。

わたしの心に、うそや、いつわりなど、ありはしない。

ありはしないのだ。

見よ、めじかよ!

わたしの魂のすべてを見すかすがよい!
 

 

わたしは待った。

のどがかわき、息もまんぞくにできていなかったはずだ。

ドクドク、ドクドク、脈うつ心臓が、今にもはじけそうだった。

わたしは待った。

ただ待った。

一瞬をこれほどまでに長く感じたことはなかったはずだ。

だが、わたしにはもう、待つしか道はのこされていなかったのだ……


でも、ついに。

そう、ついに。

ついにわたしの、うるわしの白いめじかは、そのうつくしい首を、ふわりと天にむかって大きく、ふりあげたのだ。

それはまるで、わたしに、こっちへこいとでも言っているかのようだった。


もちろんわたしは、すぐにそれにこたえた。

一歩、二歩と、よろこびにうちふるえるこの足を、前にすすめたのだ。

もうめじかは、こわがるようすを見せることはなかった。

やはりわたしは、みとめられたのだ。

うけいれられたのだ。


めじかは、わたしがちかづくと、さそうように首をやさしくひとふりして、ゆっくりと歩きはじめた。

もうなにも、かたるまい。

わたしたちは永遠をちかいあった恋人どうしのように、ともによりそいながら、どことも知れない森の中を奥へ奥へと、すすんでいったのだった。


どれくらい歩いただろう。

それは、ほんの一瞬のようにも、何時間も何十時間も何日も、あるいは何ヶ月もたってしまったかのようにも思える、不思議な時間だった。

気づくとわたしは、森の中の小さな泉のほとりに立っていた。


めじかが泉に口をつけたので、わたしもひざをつき、泉に手をいれ、水をすくった。

ちゃぷんという音とともに、かがみのようにしずまっていた水面はざわめきたち、波紋がいくすじも、すうっと、はしっていった。

だがそれも、すぐにおさまる。

ふたたび銀にかがやくかがみにもどった泉の上には、めじかとわたしの姿がうつっていた。

それだけではない。

そこには泉のほとりに咲く、純白の白いすいせんの花が、うつりこんでいたのだ。

わたしは水を飲むのもわすれて白いすいせんのうつくしさに見とれていた。


ああ、なぜだ。

なぜ、わたしは、このとき、白いすいせんのうつくしさなどに目をうばわれ、見とれてしまったのだろう。

なぜなのだろう。

ふと、われにかえって、めじかのほうをむいた、まさに、そのときだ。

めじかがいない!

めじかがいないのだっ!


おお、めじかよ、わたしを置いていかないでおくれ。

めじかよ、わたしとおまえは永遠をちかいあった仲ではなかったのか?

ともに楽園を目ざそうと、かたいきずなでむすばれた仲ではなかったのか?

それとも、そのすべてが、まぼろしだったとでもいうのか。

めじかよ。

めじかよ。

めじかよ……
 

 



そのときでした。

どこか、とおくから、たかしを呼ぶ声がするのです。



たかちゃん……、たかちゃん……



それは、今にも消えてしまいそうなくらいの、小さな声でした。

それにしても「たかちゃん」なんて呼ぶのは、たかしのお母さんくらいなものです。

でも、どうでしょう。

たかしのお母さんが仕事から帰ってくるのは、まだだいぶ先のはずでした。

へんだなと思って、たかしがふりかえろうとした、まさに、そのときです。


たかちゃん!!


それは、もう、耳もとでカミナリがおちたと思ったくらいの、大きな大きな声でした。

まぎれもなく、たかしのお母さんの声です。

たかしはびっくりぎょうてん。

ハッとなって、とびおきました。


「なに、たかちゃん、いねむりしてたの?

 いくら呼んでも出てこないんだから。

 ごはんよ、いらっしゃい。

 それとも、どこか、ぐあいでもわるいの?」


どうやらたかしは、知らないうちに、ねむってしまったようでした。

せいぜい十分くらいしかたっていないと思っていたのに、時計を見るとすでに二時間はたっていました。


「だいじょうぶなの?」


たかしのお母さんが聞きます。


たかしは、うん、なんでもない、といった感じで首をふりました。


「ふふっ、はやくいらっしゃい」


たかしは、うなずきました。


たかしのお母さんが、部屋をあとにます。


たかしの部屋には、たかしひとり。


どうもすっきりしません。

たかしは、やはり、どこか体のぐあいでもわるいのではないかと思って、机の上のかがみの中をのぞいてみました。


するとそこにです。

そこになんと、いるはずのない、いてはいけない、見えるはずもなくて、見えても見てもいけない、れいの、あの、たたりのおそろしい、あれが——そうです、れいのあれです——見えるのです。


たかしは、見ちゃった、どうしよう、と心の中で思ったその瞬間には、もう、思いっきり、それこそ貝のように、かたく、かたく、目をとじていました。

そして、おそろしさにブルブルふるえながら口をもごもごさせて、


(神さま、ぼくは見てません。

 ぼくにはなにも見えていません。

 おねがいですから、あれをおいはらってください。

 いい子になります。

 なんでもします。

 ですから、おねがいです。

 おねがいです、神さま、あれをおいはらって……)


たかしが、どこの、どの神さまにおねがいしたのかは、わかりません。

たかしがかがみの中に見たものは、ふちからこっそりのぞく、会ったことも見たこともない、知らない女の子でした。

すきとおるように色の白い、とてもかわいらしい女の子です。

たかしは、ゆうれいだと思ったようですが……


それにしてもたかしは、とてもおくびょうな男の子のようです。

 

 






 

つづき
ひとつ前にもどる
『フローラの不思議な本』の最初へ
『フローラの不思議な本』の最後へ
にほんブログ村 ⇒にほんブログ村 小説ブログ 童話・児童小説へ


 


 
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆