『フローラの不思議な本』(三) | なかのたいとうの『童話的私生活』

『フローラの不思議な本』(三)


 

第三章 あたしは妖精なの
 

気づくとたかしは、ぼんやりと机の前にすわっていました。

女の子はいません。

あの本も今はとじられていて、革の表紙には、なみだのあとがてんてんと、しみになってのこっていました。


いったいたかしは、いつまで泣きさけんでいたというのでしょう。

それさえたかしには、わかりませんでした。

泣きつかれて、なんだかもう、へとへとです。

もう、なにを考えるのも、おっくうだったのですが、それでもたかしの頭の中には女の子のさけんでいた言葉のはしばしが、切れぎれになって、こだまのように、くりかえし、くりかえし、ひびいていました。



じゃない……、じゃない……、ゆうれいじゃない……

フローラ……、フローラ……、あたしはフローラ……

ようせい……、ようせい……、あたしは妖精なの……



たかしのマネをして、ただキャーキャー言っていただけの女の子だったはずです。

けれども、それもいつしか、つよく、つよく、それこそ必死になって、たかしになにかをうったえかけるよう、かわっていたようでした。


やがて女の子の目には、なみだがあふれはじめます。

そしてその大つぶのなみだが、ぽたりとこぼれおちる、そのころには、はげしく、たかしよりもはげしく、女の子はわんわん、わんわん、泣きはじめてしまったのです。


ひょっとすると本の表紙にのこっている黒いなみだのあとは、たかしのものではなく、女の子のものだったのかもしれません。



おねがい……、おねがい……、おねがい……、おねがい聞いて……

ちがうの……、ちがうの……、ちがうの……、本当にちがうの……



たかしはまだはっきりとしない頭の中で、ぼんやりとそんなことを考えていました。

そして自分でも気づかないうちにまた、本を開いていたのです。



 
五月十一日 めぐりめぐって三千里
 
どこからどうお話ししたらいいのか、あたしには、けんとうもつきません。

いずれにしてもそれは、とおい、とおい、むかしのことなのです。


あたしがあたしだと気づいたそのときから、あたしはひとりぼっちでした。

あたしにはパパもママもいなかったのです。

せめて、そのどちらかいっぽうだけでもそばにいてくれたなら、きっとあたしをあたたかいそのひざの上にのせてくれて、

あたしがいつ生まれたのか、どこで生まれたのか、本当はどういう名前だったのか、

そういったことを夜がふけて、あたしがねむたくなって、知らないうちに、うとうと、うとうとと、ねむりについてしまう、その最後の最後の、そのときまで、

どこまでも、どこまでも、やさしく、ていねいに、お話ししてくれていたにちがいないのです。


でもそれは夢です。

すべてあたしが夢の中に思いえがいたことでしかないのです。

はかなくて、あわい、夢の中だけにある、あたしだけのお話しなのです。
 

 
いったい、いつのことだったでしょう。

あるときあたしは、人びとから花の都と呼ばれている、古い、大きな町にいました。

その町で、あたしは絵かきのおじいさんといっしょにくらしていたのです。

どうしてそのおじいさんとくらすようになったのかは、あたしにはまったくわかりませんでした。


「ああ、おまえは、なんて、かわいいんじゃ。

 わしゃ、おまえをかくたんびに、

 わしのうでもあがったものだと、つくづく思わずには、いられんぞい。

 まるで鉛のように重たかったかつてのわしの絵筆も、ほら、今ではこのとおり。

 すーい、すいっと。

 おお、空とぶ羽根のようじゃあ。

 それだけではないぞ、ほら、見てみい?

 寒ざむしい、冬の町なみのようじゃった絵の具の色も、

 ああ、なんだか花咲く春の楽園のようではないか。

 それもこれもみな、おまえのおかげじゃ。

 ブラボー! ブラボー! 花の都の花姫よ」


そうです。

あたしは、このおじいさんに、こきつかわれて、毎日のように絵のモデルをさせられていたのです。


「花姫よ、きのうかいた絵は、この前かいた絵の二倍の値段で売れたぞい。

 そして今かいているこの絵もすでに買い手がついておってな。

 なんと、そのさらに五倍じゃあ。

 おお、カネ、カネ、カネ。

 いい、ひびきじゃのう。

 これで長年つづいたびんぼうぐらしとも、ようやく、おさらばできるぞい。

 カネさえありゃ、この世の地獄も、天国じゃあ」


けれどもそうした日々も、長くはつづきませんでした。

そのごまもなく、おじいさんは亡くなったのです。

寿命だったのです。

ずっとひとりぼっちで、おともだちさえいない、かわいそうなおじいさんでした。

あたしとおんなじで、身よりもありません。

このときばかりは、あたしは、おじいさんのために、心からの、せいいっぱいのお祈りをしました。


ところがです。

人のうわさというのは、おそろしいものです。

家を一歩外に出てみると、町では、どういうわけか、あたしが、おじいさんを呪い殺したことになっていたのです。

そして、あいつは魔女だ、もののけだ、火あぶりにしてやる、

殺せ、殺せ、などと言って、みなで、こぞって家におしかけてきたのです。


ああ、このときのことは、今も目に焼きついてはなれません。


家に火がつけられるなんて……
 

 
あたしは泣きました。

火がおそろしかったのです。

それにもう逃げることもできませんでした。

けれどもなんとか覚悟をきめて天国に行ったときの最初のごあいさつを考えていた、ちょうどそのときだったと思います。

とつぜんあたしは気をうしなってしまったのです。

おそろしさにたえられなかったのではありません。

ぷつっと、なにかがとぎれるようにして、深いねむりについたのです。


ふたたび目ざめたとき、あたしは、てっきり天国にいるものだとばかり思っていました。

けれども、そうではありませんでした。

あたしは、あたしの耳にとびこんできたその最初の言葉に耳をうたがいました。


「だんな、

 こいつは、たいへんな、しろものですぜえ。

 この世にふたつとない、たいへんなお宝でございますぜえ。

 なにしろこいつの前の持ちぬしは、

 そんな、たいした、うでまえでもないのに、こいつのおかげで、あの、

 いいですかい、あの、

 花の都で一番と言われるまでの絵かきになったって、まあ、

 そういう話しなんですからねえ。

 いえいえ、なに、あたしが直接、この耳で聞いたんでございますから、

 だんな、まちがいありませんぜえ。

 うヘヘヘ、どうです?

 だんなが持てば、きっと……」


その声には聞きおぼえがありました。

あのかわいそうなおじいさんの絵をいつも買ってくれていた、なじみの画商でした。

どうやら画商が、あたしを火の中から救ってくれたようなのです。

けれども、それもこれも、すべては、お金のためでした。

あたしはそのままどこかの国のいやらしい伯爵に売られ、その画商は一夜にして、おじいさんが一生のうちにかせいだその何倍ものお金を手にいれたのです。


そしてまた、風にふかれるたんぽぽのわた毛のような、そんなさすらいの日々がはじまりました。

あっちの国からこっちの国へ。

王さま、司祭さまから、職人、商人、乞食に、船乗り。

もう数えきれないくらい、多くの人の手から手へ。

みんな目の色をかえて、あたしをもてあそんで、こきつかって、そして、そう、それだけでした。


でも、つらいことばかりというわけでもありません。

本当にたまになのですが、こどもたちに——そうです、こどもたちにです——出会えることもあるのです。

このときほど、うれしいことはありません。

あたしになんの見かえりももとめずに、ただ、ただ、心ゆくまで遊んでくれるのは、こどもたちだけなのです。
 

 
ああ、ピーター、ヨーゼフ、ジュリアに、チャン。

きんのすけに、たま。

ああ、すべてを言いきれません。

でも、みんな、みんな、あたしのたいせつなおともだちです。

はなれていても、どんなに、どんなに、はなれていても……




五月十一日の日記はそこで終わっていました。

つづきがあるのかと思ってつぎのページをめくってみると、そこにはたかしの名前がしるされていました。



 
五月十二日 たかし、ごめんなさい
 
本当に、ごめんなさい。

どうか、ゆるしてください。

ちょっとからかってみようと思っただけなのです。

わるぎがあってしたことでは、けっしてないのです。


あたしはフローラ。

ごぞんじのように、この本の精、妖精です。

もうずいぶん長いことあなたのようなこどもにお会いすることがなかったので、つい——本当に、ついです——わるいクセがでてしまって、あなたをおどろかせてしまったようです。

ごめんなさい。

本当に、ごめんなさい。

どうか、きらいにならないでください。

おねがいです。

あたしはいつも、あなたのそばにいます……



ハッとなって、たかしはふりかえりました。


います。

やっぱり、います。

ちょっと、はにかんだようすで、なんだか、にっこりと、かわいらしく、

そう、女の子らしくほほえんではいますが、

もちろんたかしに、そこまで見ていられるよゆうなど、あるはずもなく、

またまたおどろかされて、こしをぬかして、もう、気もふれんばかりに、思いっきり大きく口をあけて、たかしが、うわァーと、さけぼうとした、まさに、その、瞬間!


「だめよ、だめ、だめ、さけんじゃ、だめ。

 あんたのママが帰ってきてるのよ。

 ギャーギャーわめいたら、それこそ、なにごとかと思うでしょ?」


女の子は、フローラは、そう言って、たかしの口をその手でおさえこんで、すっかりふさいでしまいました。

ものすごい力です。

たかしは声もだせず、息もできず、目をギョロつかせて、ワナワナ、ワナワナ、ブルルっと、ふるえはじめました。

そして心の中では、


(タタリ……ユウレイ……コココ、コロサレル……)


「ちょっと!

 なんど言ったらわかるのよ!

 あたしはゆうれいじゃないの。

 ヨ、ウ、セ、イ。

 かわいい妖精よ!

 わかった?」


わかった、といった感じで、たかしは、すぐに、大きく、いきおいよく、なんども、なんども、うなずきました。

ですが心の中では、


(ヨウカイ……ヨウカイ……ヤッパリソウダ、ヨウカイダ……)


これには、もう、フローラも、がまんがなりません。

自分で言ったこともわすれて声をあららげ、それはそれは大きな声で、思いっきり、たかしを、どなりつけました。


「ちょっと、あんた、いいかげんになさいよ!!

 あたしは、ゆうれいでも、妖怪でも、悪魔でも、魔女でもないの!

 命だって、とらないし、魂もいらない!

 あんたのカゲだって、くるくるっと、まきとったりして、ぬすんだりも、シ、ナ、イ、のっ!

 あたしは、あたしは、あたしは……」


 そのときでした。


「たかちゃん、どうしたの?」

 

 

部屋の外からです。

部屋の外からたかしのお母さんの声が聞こえてきました。

フローラはサッとすばやく、たかしの前から消えていなくなりました。


ドアがひらき、たかしのお母さんが顔をのぞかせます。


「どうしたの、たかちゃん。

 大きな声なんかだして」


ああ、これでもう、ひとあんしんです。

お母さんがきてくれたのです。

たかしはつかれた人がよくやるように、ふうと言いながら手のひらで顔をぬぐいました。


「ふふっ。

 たかちゃん? また寝てたんでしょ。

 目がはれて、まっ赤よ。

 いらっしゃい、

 今日はたかちゃんの大好きな、お父さん特製、唐揚げカレーよ」


お母さんは行ってしまいました。

カチリといってドアがしまります。

たかしはもういちど、ふうと息をはいて顔をぬぐいました。


すると、


「いいなあ。いいなあ。

 パパとママと、夕ごはん。

 いいなあ」


なんと、まだいました。

フローラです。

どこにかくれていたのかは、わかりませんが、フローラは今、うしろ手に手を組んで、まるで、おねだりでもするかのように、うわ目をつかってパチパチ、パチパチ、まばたきをしながら、たかしの顔をチラリ、チラリと、のぞきこんでいます。

そしてもう、いっしょに行く気まんまんで、

たかしにむかって、まっ白い花のように顔をかがやかせて、


「ねえ、たかし、あたしも……」


そこまででした。

フローラの声は、そこでいきなりとぎれてしまいました。

たかしが本をとじたのです。

たかしのお父さんも、たかしのお母さんも、たかしのすぐちかくにいるのです。

今のたかしに、こわいものなんて、ないのかもしれません。

 

 






 

 


 
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆