三國屋物語 第26話
「五年だ……郷里(きょうり)をでて五年」
「駿介どのというのは、おぬしの念者(ねんじゃ)なのか」
篠塚がいいにくい事を、さらりといった。藤木は微苦笑して「そうなるか」と、つぶやいた。
「天野駿介(あまの しゅんすけ)は六年前、何者かに連れ去られた。当時、十四歳だった」
「おぬしが旅に出たのは五年前だろう」
「そうだ」
「なぜ連れ去られてすぐに探さなかった」
「当時、連れ去られたのか出奔(しゅっぽん)なのか意見がわかれた」
「一年たって意見が一致したと? 悠長(ゆうちょう)な話だな」
「駿介の父君が亡くなられたのだ。その遺言が駿介を探してくれというものだった。父君はもちろん駿介が出奔したなどとは信じていない。未練だったのであろう。涙ながらに訴えられ断る事などできなかった。後日、追って藩からも許しがでた」
藤木の表情がつと沈んだ。
「駿介を探さなければ郷里にはもどれぬ」
「おぬしと駿介どのとは血縁なのか」
「いいや」
「血縁でもない、許婚(いいなずけ)でもない。念友とはいえ、他人のために、そこまでするのには何かよほどの理由があるのだろう」
藤木が眉間(みけん)のあたりに煩(わずら)いの色をみせた。
「薩摩では外城(とじょう)の武士を郷(ごう)と呼び、百以上の郷中とよばれる組織をつくっている」
「屯田制度のようなものか」
「ああ。ひとつひとつの郷中は、稚児(ちご)と二才(にせ)と長老(おせ)、この三つで構成されている。稚児(ちご)は元服前の少年。二才(にせ)は元服してから二十四、五才までの武士。そして、長老(おせ)は二才より年上の者だ」
「水戸の村にも似たような風習があるが……」
「薩摩では武士にも、その風習があるのだ。稚児の教育は同じ郷中の二才(にせ)が担当する。わたしと駿介は同じ郷中だった。そして駿介もいよいよ元服が近づいてきたある日、駿介の父君に呼ばれ、息子をたのむといわれた」
篠塚が思い当たったかのように「義兄弟の契(ちぎ)り」と、つぶやく。藤木がうなずいた。
「しかし……。その風習はすでに廃(すた)れたはずであろう。過去、刃傷沙汰(にんじょうざた)が絶えないため死罪とする藩もあったときく。なによりも衆道は大いなる不義(ふぎ)を招くと」
戦国から江戸の初期にかけ、義兄弟の契りは、とりわけ武士の世界に当然のごとくあった。いわゆる衆道(しゅうどう)と呼ばれる男同士の性愛関係をさすのだが、問題にされたのは小姓(こしょう)同士の関係である。藤木のいう二才(にせ)と稚児(ちご)における関係は、まさしくそれで、二才は兄、稚児は弟と解釈していいだろう。天野駿介の父が元服して二才になろうとする息子を、あらためて藤木に託したということは、藤木を息子の庇護者、教育者、そして、念者として選んだということになる。
藤木がいった。
「風俗なれば不義(ふぎ)といわず」
「人情の勢の、とどむべからざる事、か」
「これはまた……」
「熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)であろう」
「詳しいのだな」
「俺は水戸の郷士の出だ。水戸学藤田派の者は蕃山(ばんざん)に傾倒している」
「なるほど。篠塚さんといったか。あんたは倒幕派か」
「さあな」
藤木が興がわいたといったようすで篠塚をまじまじと見た。
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