While there is life there is hope ~肺腺がんと母と家族の歩み~

While there is life there is hope ~肺腺がんと母と家族の歩み~

2008年8月、肺腺がんステージⅣと診断された母と、家族の歩みの記録です。

母が、肺癌と分かり、この病気について全く無知な私は、同じ病気をかかえる方々やご家族の声が聞きたいと思い、ブログを始めました。同じ病気を抱える方々やご家族と経験を共有したり、励まし合うことができればと思っています。  (20108月)

20076月    咳の症状あり
              ↓
            咳喘息と診断される
・20088月    血痰・背骨に痛みあり
              ↓
           肺腺がん ステージⅣ との確定診断
            [背骨・脳に転移あり]
20089月    放射線治療(背骨)実施
           [?グレイ×10回照射]

20089月末~20103月上旬 イレッサ服用(1回目)
20103月上旬~5月下旬    タルセバ服用
20105月下旬  放射線治療(原発巣肺癌)実施
            [?グレイ×5回照射]

20106月~2011年6月末 アリムタ+カルボプラチンによる抗がん剤治療 12回実施
        [1コース目85%、2コース目から70%濃度で]

・2011年5月上旬  脳MRI検査にて12個の腫瘍がみつかる

              ↓

             ガンマナイフ治療

・2011年7月上旬  CT検査にて胸椎(9・10・11・12番目)に腫瘍が見つかる

              ↓
            放射線治療(胸椎)実施
            [?グレイ×10回照射]

・2011年7月上旬~8月下旬 イレッサ服用(2回目)

                   月1回ペースでゾメタ点滴

・2011年8月下旬   ジェムサール による抗がん剤治療
             [1回実施 80%濃度で
]
・2011年9月上旬  脳MRI検査にて7個の腫瘍がみつかる

              ↓

             ガンマナイフ治療

・2011年9月中旬 放射線治療(原発巣肺癌)実施

            [3グレイ?×15回照射]

・2011年9月下旬 カルボプラチン+TS1による抗癌剤治療(1回)

・2011年10月~12月上旬 緩和的治療(11月癌性髄膜炎と診断される)

・2011年12月9日  永眠

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まだ母の最期のことで書きとめておきたい事があるのですが、今日は、別のことです。


明日、鹿児島からイギリスへ、父と弟家族がやってきます。去年は、ちょうど今頃、母の主治医から家族の招集があり、私は旦那さんと娘と、急いで鹿児島に帰ったなぁとその時のことを思い出しているところです。


主治医の先生から聞いた話は、去年は、そうならないことを願いたくて、詳しく書きませんでした。「ガンが成長してきていて、静脈をふさいでしまう(上大静脈症候群になる)可能性がある。そうなると2週間で・・・」という話でした。いちかばちかの放射線治療で、それは免れたのですが、その後も、今度は別の症状(癌性髄膜炎)に悩まされました。どちらの説明も家族しか聞いておらず、母は聞かずに過ごしました。「この症状はどういうことなんだろう?」とよく考えていたようです。でも、看護士であった母が知るには酷すぎる進行状況だと思ったので、これらは言わなくてよかったと今でも思っています。


去年の今頃から年末は、本人・家族とともに大変苦しくて、思い出すと切ないことがとても多いです。でも、神様が、お別れの時間を本人・家族にプレゼントしてくれた、とも思えます。イギリスから帰り、3ヶ月一緒に苦しいことを分かち合えた、本人・家族それぞれがガンと闘う・それを支えることにもベストを尽くせた、お互いに感謝の気持ちを伝え合えた、貴重な3ヶ月でした。


亡くなってしばらくは、「がんばった挙句にこんな苦しい思いをして、長く生きる事がよかったのか悪かったのか」などと、色々なことを考えましたが、最近ようやく、「母が最期まであきらめないでできうる限り治療をがんばったおかげで得ることのできた貴重な3ヶ月だった。最期までみんなで全力でがんばれてよかった。」という自分の結論に達しました。


昨日の夢に母が出てきました。夢の中の母は、まだ亡くなっていなくて、私に「今度、お父さんと○○(弟)たちがイギリスにいくでしょう?お父さんはあちこちチョロチョロ動き回るんじゃないか心配だわ~○○は英語話せるかしらね?」と言っていました。私が「お母さんも来ればいいがね~」と言うと、「お母さんは病気だからね~。姉ちゃん、大勢来て大変だけどみんなをよろしくね~。」と言いました。


たまたま自分が考えていた事が夢に出てきただけかもしれないのですが、何だか母からのメッセージのような気がして、目覚めて涙が出てきました。



今のイギリスの生活は、毎日が充実していて、楽しい日々です。父や弟家族にも短い滞在だけれど、いい思い出をたくさん作って帰って欲しいなあと思っています。


余談ですが、この前、飛行機に搭乗した時、娘がふと「今日は、飛行機に乗るからばあばに会えるね~。」と言いました。娘は、雲の上におばあちゃんがいる、と思っているようです。本当に飛行機に乗るたび、会えるとうれしいよなぁ~音譜


空の上から母が、「みんな~、楽しみなさいよ~。」と見守ってくれている気がしてなりません。












母が亡くなって半年が過ぎました。色々なことを思い出し、寂しく思ったり、後悔したり、という日々を過ごしていましたが、母がいない生活というものにようやく慣れてきたような気がしています。


父は、生活そのものが激変したので、私とは全く違う気持ちでいるかもしれません。長年連れ添ってきた仲のいい夫婦が、片方を失う、というのは、やはり経験したものにしか分からない寂しさがあると思います。穴は埋められないけれど、子どもたちでできることを精一杯やっていきたいと思っています。





ようやく、書きたい気持ちになったので、母の最期の様子を少し記録しておこうかと思います。



緩和病棟に入ってすぐに、だいぶ意識が朦朧として、目も見えているのかいないのか、声も聞こえているのかいないのか、という状況になってきました。激しい痙攣の起こる日もありました。

食べ物もだんだんと飲み込めなくなってきました。液状にしたものを口に入れたはいいが、途中で意識がとぎれてしまって飲み込めず、あわててかき出すということも出てくるようになりました。後半は、水を含ませたガーゼで口や歯を潤すということだけになりました。

なるべく間を空けないように、母がひとりになる時間が少ないようにしたい、という父の意向から、親戚・家族でなるべくそばに誰かがいるように努めました。大変でしたが、今は、それができてよかったと思っています。父がいなければ、きっとあきらめていました。




そんな中で、嬉しかったのが、娘が、幼稚園で作ったお店屋さんのコック帽子をかぶってお見舞いに行ったところ、顔を娘の方に向けて(本当に見えていたかは分かりませんが)「あら、はるちゃん、来てくれたの。帽子、ステキね~」と一生懸命言葉を発し、にっこり笑ったことでした。それが、娘とおばあちゃんの最期のうれしいやりとりでした。今思えば、娘とのお別れの日だったなぁと思います。


イギリスの私の旦那さんも、最期に間に合いました。母は、「ま~~ま~~」と驚いているような声を出して、その後、みんなが理解できるような「ありがとう」という言葉を一生懸命発していました。旦那さんは、短い間にすごく変わってしまった母に驚いていましたが、間に合って言葉を交わせてよかった、と言っていました。



亡くなる数日前の日曜日だったでしょうか。弟家族が生まれたばかりの赤ちゃんを連れて家族みんなでお見舞いに来た日がありました。その日は、なぜか意識がはっきりしている時間が長くて、語りかけるとわかっているなぁという日がありました。2人の弟・下の弟の奥さん・私が病室に居る時に、父に「今だったらお母さん意識がはっきりしているよ」と電話をすると、父は急いでやってきて、感謝の気持ちをつづったある手紙を読みました。家族みんなの気持ちを代弁してくれるいい手紙でした。


以下、その手紙を告別式でのメッセージ用にアレンジしたものですが、記録しておこうと思います。



「結婚以来30余年、病床にふしたことのなかった君が、突然の体調の異変に気づいたのが4年前、それが最初で最後の病床になってしまった。不治の病と知ってから3年半、奇跡的と思われる生命力の強さと、生きることへの執念でよく頑張った。家族を思う一念でがんばってくれたのだろう。


君への感謝の気持ちは言語に尽くせないが、最後に3つの言葉でお礼に代えたい。


1つは、私にとってかけがえのない3人の子どもを生み、立派に育ててくれたこと。
これからは、この娘、息子たちを頼りにして、また孫達の成長を楽しみにしていく。

2つ目は、どの子どもたちに誰にも真似できない教訓を残してくれたこと・
決して不平、不満、他人の悪口を言わない、怒らない大様な心、人のために尽くす犠牲的行動の数々、枚挙にいとまがない。

3つ目、痴呆気味の義母を看取ってくれたこと。
あれはお年寄りの病気なのよ、と軽く聞き流し、笑って取りなしてくれた。


私も子ども達も、君のこの生き様を見ならって頑張るよ。後は心配いらない。ありがとう。」






読みながら、途中途中、父が「聞こえているか?」と声をかけると、母は、うなずいていました。手紙を父が読み終わった後、私が「お父さん、お母さんが大好きみたいだね。」というと、本当ににっこりと笑いました。あの笑顔はみんな忘れることができません。意識のはっきりしない反応のない時間がとても長くなってきていた時だっただけに、みんなびっくりしました。母の力をふりしぼった意思疎通のできるお別れの日だった気がします。


母は、別れを言うべき家族には、しっかりお別れを済ませて、旅立ちました。最期の日のことについてもしかり(今度書きます)。すごく母らしいと思いました。
母は、約3年間、分子標的薬・放射線・抗がん剤での治療の副作用、入院生活には決して弱音を吐かず、「治る」という強い意志を持って臨んできました。あまり家族が見舞いにも行けない遠くにある病院にも何回も入院していましたが、「いやだ、つらい」は一度も聞いたことがありませんでした。「命が長らえると思えばがんばれる」といつも言っていました。


「血液状態が抗がん剤の点滴ができる状態になるまで待ちましょう」(昨年の10月)という位から、病院への入院は望まなくなりました。自己判断ができる間は、ずっと「家が一番いい。」と言っていました。できる限りは、自分で歩いてトイレに行く、イスに座りながらでも料理を手伝う、ということをしたいようでした。「緩和ケア病棟にお世話になる時、と自分が思ったときには、そうお願いするけれど、それまでは家がいいねぇ。」と言っていました。




こういう時期にさしかかり、ひとつ、私が言ってしまった一番後悔していることがあります。母は、私と娘がイギリスから一時帰国し、自分のそばにずっと滞在している状態をとても気にしていました。

「イギリスは寒くなってきたでしょ。寒がりの○○ちゃん(私の旦那さん)は大丈夫かしらね?自分は、お父さんと生協のお助け便でも使って、何とかやるからもう帰りなさい。これだけいてくれたのだからもう十分よ。」というようなことを何度も言うようになりました。

でも、急にめまいで倒れて、救急車に運ばれたりしたことがあったので、父が家にいない間のことがとても心配でした。

私は、「お母さんが入院でもしない限りは、安心できない。自分とお父さんで、本当に料理や洗濯やお風呂、できると思うの?○○(娘)を幼稚園に入れた時点で、長期戦を覚悟していた。簡単に思えるけど、迷いに迷って幼稚園入れることにしたんだよ。簡単に帰れと言わないで。」と言ってしまいました。

その翌日、母は、「緩和病棟に行くから、連絡して。」と私がいないときに父にお願いしていました。結局は、本当は行きたくないことを知っていたので、「○○は、幼稚園楽しくなったところだから、今学期いっぱいいさせて。」とお願いしてやめてもらったのですが。


私が勢いで言ってしまった言葉は、「=もう家では私の助けなしには生活できない。私は、最期までいるつもりでいる。」ということを示すもので、「自分と父で家で生活できる。治療も時期にできるようになる。」と信じたい母にとってつらいつらい言葉であっただろうなぁと思います。

現実的では全くなかったし、旦那さんも「あの時が帰り時では全くないと思った。」と言っていましたが、母の気持ちを汲んで、帰ることも思いやりだったのだろうか、とも思うことがあります。



その時々の選択は、その時その時、一生懸命皆で考えた結果。それで正解、と思うことにします。



でも、ひとつ、やり直せるとしたら、母が信じていることを妨げるような言葉は、いくら思っていようとも、口に出さないように最期まで接したいです。それを言わずに説得する術を何とかみつけたいです。家族から現実を突きつけられる、というのは、ショックだっただろうと思います。ベッドに横たわり、遠くを見て考え込んでいる様子を忘れられません。


これから、ガンの方と接することがあれば、これだけは、肝に銘じて寄り添いたいです。

しばらく、本人家族ともにつらくて仕方なかった時のことは思い出したくなくて、ブログも写真もみていませんでした。




治療の最後の方の母を思い出すたび、「どんなにつらかっただろうか」とあんな言葉をかけるべきではなかったとか、もっとこうしてあげたかった、とか色々な思いが沸いてきます。





これから、少しだけ、母の緩和的治療について、今、思うことを書きたいと思います。




がん性髄膜炎と分かった頃は、本当に痛みとの戦いでした。脳のほうの痛みは、体のほうの痛みよりコントロールしにくかったように思います。とにかく首筋をすごくいたがっていました。


母は、人並み以上の基礎体力があり、それがゆえに、治療を長く続けることができました。がん性髄膜炎は、ガンと長く付き合ったからこその症状なのだと思います。本当にどうしてあんなに治療をがんばった母が、最後にあんなに痛い思いをしなければならなかったのか、神様は残酷だと思えてなりません。




在宅治療中、お医者さんは、「しっかりした意識の中で家族とやりとりできる期間を縮めることになってしまう」と積極的には強い薬(痛み止め)を使いませんでした。命を扱うお医者さんとしてはもっともな判断だと思います。



でも、今思えば、もっと早くに、『意識が朦朧としてもいいから、痛みをとることをとにかく優先してください」と家族が強くお願いすればよかったと思えてなりません。家族との時間を長らえることよりも、もっと早く痛みから解放してあげたかったです。



周りの人は、最後まで母の希望を尊重して、自宅で看てあげられればよかったね、と言いましたが、早く緩和ケアのプロに任せたほうが、痛みに対する苦しみは少なかったのではないか、とも思ったりします。



緩和ケア病棟の看護師さんが、義理の妹と話しをする中で言っていたそうなのですが、母が最終的にお世話になった病院では、「自宅療養をする場合というのは、普通は、痛みを抑える方法をしっかりと病院で確立してから、自宅へ戻す」のだそうです。母の場合は、痛みのケアを模索中の大変な時を自宅で過ごすことになってしまいました。痛みをあまり感じることなく、ゆるやかに最期を過ごされる方とは、選ぶべき方法が違ったのではないか、と思います。



本人が直接意思を伝えられたら一番だったのですが、最後の方は、少し認知症のような症状も出てきていて、現状認識や的確な判断をすることは本人はできなくなってきていました。だからこそ、家族が判断し、お願いしてあげるべきだったかもしれません。




何に重きをおくか、によって緩和ケアの内容は大きく違ってきます。本当に難しい選択だったなぁと感じます。


母が亡くなって、ちょうど1ヶ月が過ぎようとしています。



亡くなるまでは悔いのないようやるだけのことをやろうと思って日々過ごしていましたが、亡くなってから葬儀の前後も本当に忙しくて、休む間が全くありませんでした。たどり着ける気がしないほど疲れていましたが、年末にどうにか娘と二人イギリスに戻ってきました。



実家の方では、まだ週ごとの法要やら、弔問に来てくださった方々へのリスト作りやお返しの用意などバタバタと忙しそうです。弟夫妻が父と頑張ってくれています。母のそばで一番長くがんばってきた父をまだまだ休ませてあげられなくて、また弟夫妻にも色々委ねてしまい、遠くにいる私は少し心苦しいです。最近は、父は夕方家に戻ると一人が寂しくて、「ワーッ」と叫びたくなるそうです。家族のいる私でさえとても寂しくなるので、一人の父はなおさらだと思います。「寂しさが癒えるのには、ただ時間が必要」とよく同じ思いをした方々から言われます。一段落したら、父にはイギリスにも骨休みに来て欲しいです。



娘は、3歳なので、死というものを理解できていないだろうと思っていました。でも、少しずつ、大好きなおばあちゃんにもう会えないのだということは理解しているようです。先日は、夜に布団の中でおばあちゃんとの思い出話をしていたら「ばあばとまだお別れするの嫌だったの。」とシクシク泣き出してびっくりしました。飾ってあるおばあちゃんの写真(数枚あり)をめくり手を合わせる(ふり?)のが最近の日課になっています。そしてある曲をよく歌っています。実家でよく流していたので覚えました。それを歌っていると、空におばあちゃんが見えるのだそうです。



母が生前、「私にもしものことがあったら葬儀で流せたら流してくれないかしら?」と言っていた曲です。実際に母を偲ぶ写真のスライドショーの時に流してもらいました。しんみりなりすぎず、爽やかな曲です。歌詞もいいなぁと思うので、記しておくことにします。



「明日咲くつぼみに」     唄・三波 春夫   作詞・永 六輔



想い出のふるさと

想い出の人々


明日咲くつぼみよ

今日散る花びらよ


想い出の笑顔よ

想い出の涙よ


昨日 今日 明日

過去 現在 未来


時は還らず 世は移りゆく

いつか別れの 言葉さようなら


想い出のあの町

想い出のあの人


明日咲くつぼみに

今日の生命を




母は、いつもと変わらない様子で、明るい声の調子で、「この曲を流してね」と言っていましたが、

実際に聴いてみたら、いろいろな思いがつまっているように思いました。



母を見送り、考えていることが色々あります。ベストと思って選んだ方法に後悔がないとは言えません。

何が正解だったのか、よく分かりません。書きたい気持ちになったら、母の最期の様子、感じたこと、

学んだこと、書けたらと思います。



これまでブログを通して、やりとりして下さった方々には感謝の気持ち、まだまだこれからのことを応援したい気持ちでいっぱいでいます。




12月9日の夜、母が亡くなりました。昨日、告別式を終えました。



まだ実感があまりわいていないところです。落ち着いたらブログに色々と記せたらと思います。





今日は、私が母のところに行っている時間は、痛がっている表情をしていることが多く、話しかけても答えられない状態の時が多かったです。やってあげられたことは、目のまわりの目やにをふく、渇いた口の中をスポンジでしめらせくちびるにリップクリームを塗る、汗ばんだところを濡れタオルで拭く、母の表情を見てナースコール、とこれだけでした。



反応がない時は「話が聞こえているのに反応できないのか」、目は見えているのか、よく分かりません。先日、看護師さんが、「耳は生きているんですよ。ちゃ~んと聞こえているんですよ。」と言っていたので、いびきをかいていないときには色々話しかけたり、挨拶代わりに手を握ったりということを努めるようになりました。



父は、そのあたりは不器用で、手を握ったり、寝ているのに話しかけたりは恥ずかしそうです。人目をはばからずどんどんできることをやったらいいと思います。でもできるかぎり、母のところへ足を運んで、あれこれ母のためにと思いついたこと(結構的はずれなこともあるけれど)を看護師さんに頼むようにしていて、深い愛情を感じます。



最近、風邪を引いたり、集団検診で引っかかる項目があったりと、父は元気がありません。母と生活していた頃と比べて、食欲もだいぶないように思います。今まであまり気が回りませんでしたが、父のことも母のことと同様、サポートして行かなくてはと思います。




昨日、また弟のお嫁さんが母の看病を手伝いに戻ってきてくれて、母のことに加え、家事・娘の世話まで気づいたことをやってくれています。心細いことも多いので、私の相談相手としてもありがたい存在です。


弟たちも最近の週末は出来る限り帰ってきてくれています。仕事や家庭のことも大変だろうけれど、うまくやりくりして、がんばってくれています。


それぞれがいっぱいいっぱいですが、何とかみんなで力を合わせて、両親を支えていければいいです。

9月に娘とともにイギリスから鹿児島の実家へやってきて、もうすぐ3ヶ月が経ちます。



ここのところ、「娘が不安定になって、自宅での介護の限界を感じた」とか「娘がいるから、病院に居られる時間が限られる。泊まりが出来ない。」とかいう文言が家族や親戚、医師や看護師たちとの会話の中に出てきてしまっています。そのたびに、「でもね、小さいながらにすごくおばあちゃんのためにがんばってきたんだよ。」とたくさん付け加えたくなります。



実際には、親バカっぽくて付け加えはしないのだけれど、ここには記しておきたいと思います。



9月は、母は車で片道45分の病院に入院していました。私と娘の日課は、朝の家事を片づけた後、病院へ出発。途中で母と食べられる美味しいものを調達して、お昼くらいに母と一緒におしゃべりを楽しみながら食べる。ご飯の後は、母のベッドに座って、お絵描きやひらがなの練習やしまじろうの教材で遊ぶ。娘が飽きた頃に帰る。というパターン。美味しいものを食べるのとおばあちゃんの横でお勉強するのを楽しみに、毎日喜んで着いてきてくれました。そこの病院ではなぜか騒がず、いつも静かに遊んでくれました。母も楽しみにしていてくれて「はるちゃんに会うと元気になれるよ。」とよく言っていました。



10月はじめから11月末にかけては、自宅で母と過ごすことができました。娘の役割が自然とできてきました。内容は、めがねやクッション、ティッシュ、水のペットボトルなどおばあちゃんがリクエストするものをおばあちゃんの移動するところに運ぶ。点滴をしているときには、おばあちゃんが移動するときに点滴のレールをトイレやダイニングまで押していったり、ママと一緒に(汽車ぽっぽごっこをしながら)おばあちゃんをささえたりする。おばあちゃんが夜中にトイレに立てなくなって家族があたふたしている間も娘も起きてきて何かできないかとクッションを運んできた光景を覚えています。



自宅では、おばあちゃんとは本当によくお話をしていました。「(旦那方の祖母)○○ばあばは、イギリスに一回来たから今度は、□□ばあちゃんの番だね。元気になったら一緒に行こうね。」と誰も教えてないのに、よくこれを言っていて、イギリスではどこにいこう、何をしよう、と二人であれこれ話していました。この会話も本当にいい薬だったように思います。



緩和ケア病棟では、「そうね~」とか「それは楽しいね」と時々反応ができるくらいなのですが、娘の話をすると母はいつも本当にいい表情になります。娘は行くといつも手を握り、じっと母を眺めています。帰るときは、意識があるとバイバイのしぐさをしてくれます。





私が「母が大変なときにそばで出来る限りのことをしたい。」という希望を叶えられているのは、旦那さんの理解と、娘の協力あるが故です。まだ3歳だけれど、立派な働きをしてくれている、と思う瞬間がたくさんあります。この出来事を、成長しても忘れずに心のどこかで覚えていて欲しいなぁと思います。寝顔を見ながらよく「ありがとうね。」と話しかけています。


あ~、本当に親バカですね。




母は、仕事をやめてまで、私が娘を産む手助けをしてくれました。一人目が大変なことになってしまったので、何とかこの娘だけは無事に産ませてあげたい、という並々ならぬ思いがあったそうです(父談)。今回、娘とともに母の闘病のお手伝いができている、ということは縁を感じるというのか、本当にありがたいことだと思っています。




訪問医療の先生・看護師さん、訪問看護チームの皆さん、ケアマネージャーさん、福祉用具レンタルのお兄さん、家族、親戚、色々な人の助けを借りて、自宅での緩和治療を続けてきました。


最近は、訪問看護の方が居ない時には、先生の指示を仰いで、点滴に薬を注入したりすることも家族が担っていました。


それでもだんだんと脳の方の症状が出てきたりして、痛みの出方も多くなってきて、夜も本人・家族ともに寝られない日々が続いて、自宅で看ることの限界を感じました。小さな娘も張りつめた空気の中で毎日生活していて、おしっこを漏らすようになったり、甘えたいのに甘えられない反動で私が母の世話をしていない時に甘えが激しくなったり、不安定になってきました。


家族でよく話し合って、先週の火曜日に、緩和ケア病棟に転院することにしました。本人の希望を最期までかなえることができなくなることは、とてもくやしかったです。でも限界であったことは後で考えてもそうであったと思います。



先生や看護師さんへの連絡や薬や食事の管理の負担は減り、母が痛みを我慢する時間も減りました。



だんだんと眠っていたり朦朧としている時間が増え、会話を交わせる時間が少なくなってきています。今夜は、私以外の家族がダウンしてしまって、病室に誰も泊まることができなくて、長い時間一人です。よく眠れているといいです。明日は、娘を幼稚園に送ったら、なるべく早く顔を出したいです。



前回日記を書いた日の夜は、安眠剤でふらつきが出て、家族が支えてもトイレに歩みをすすめられない、横たわってするのも慣れずにできない、ということになってしまいました。痛みも最高潮になってきたので、早朝、CVポートを入れる病院に行き導尿・検査CVポート手術をしました。本当に本人・家族ともにつらい夜でした。



病院から帰ってきて、母は、痛みが飲み薬だけではなかなか止まらなくなり、CVポートを通して、いくつかの痛み止めを朝・夕入れることになりました。CVポートは高濃度の点滴を好きなだけ入れられる、ポートを通して痛み止めなどの薬も色々入れられる、針を何回も刺されることがない、というので、とても便利。母は、「もっと早く入れられればよかったわ~」と言っていました。



母の「なるべく痛みなく、楽に過ごしたい」という希望から、少し強い薬も入れることになりましたが、本当に楽になったようで、久しぶりにいびきをかいて寝ていました。眠れない夜が続いて、家族も交替でマッサージをする日が続いていたので、気持ちよさそうに寝ている母を見たときに、本当にホッとしました。



先生から説明をうけたことが色々あって、ネットで情報検索をしていたら、本当に自分の気持ちがめいってしまったので、情報検索はやめることにしました。



滅入ったのとホッとした反動か、2日間くらい「燃え尽き証拠群」みたいな自分になっていました。弟がちょうど休みだったので来てくれて、家事や娘の世話など色々とやってくれて、ゆっくり眠って、回復できました。



しばらく、自宅での看護の自信がなくなっていましたが、色々な人の力が借りられることも分かり、前向きに自宅でサポートを続けていきたいという気持ちでいます。