一番の後悔・これからの教訓 | While there is life there is hope ~肺腺がんと母と家族の歩み~

While there is life there is hope ~肺腺がんと母と家族の歩み~

2008年8月、肺腺がんステージⅣと診断された母と、家族の歩みの記録です。

母は、約3年間、分子標的薬・放射線・抗がん剤での治療の副作用、入院生活には決して弱音を吐かず、「治る」という強い意志を持って臨んできました。あまり家族が見舞いにも行けない遠くにある病院にも何回も入院していましたが、「いやだ、つらい」は一度も聞いたことがありませんでした。「命が長らえると思えばがんばれる」といつも言っていました。


「血液状態が抗がん剤の点滴ができる状態になるまで待ちましょう」(昨年の10月)という位から、病院への入院は望まなくなりました。自己判断ができる間は、ずっと「家が一番いい。」と言っていました。できる限りは、自分で歩いてトイレに行く、イスに座りながらでも料理を手伝う、ということをしたいようでした。「緩和ケア病棟にお世話になる時、と自分が思ったときには、そうお願いするけれど、それまでは家がいいねぇ。」と言っていました。




こういう時期にさしかかり、ひとつ、私が言ってしまった一番後悔していることがあります。母は、私と娘がイギリスから一時帰国し、自分のそばにずっと滞在している状態をとても気にしていました。

「イギリスは寒くなってきたでしょ。寒がりの○○ちゃん(私の旦那さん)は大丈夫かしらね?自分は、お父さんと生協のお助け便でも使って、何とかやるからもう帰りなさい。これだけいてくれたのだからもう十分よ。」というようなことを何度も言うようになりました。

でも、急にめまいで倒れて、救急車に運ばれたりしたことがあったので、父が家にいない間のことがとても心配でした。

私は、「お母さんが入院でもしない限りは、安心できない。自分とお父さんで、本当に料理や洗濯やお風呂、できると思うの?○○(娘)を幼稚園に入れた時点で、長期戦を覚悟していた。簡単に思えるけど、迷いに迷って幼稚園入れることにしたんだよ。簡単に帰れと言わないで。」と言ってしまいました。

その翌日、母は、「緩和病棟に行くから、連絡して。」と私がいないときに父にお願いしていました。結局は、本当は行きたくないことを知っていたので、「○○は、幼稚園楽しくなったところだから、今学期いっぱいいさせて。」とお願いしてやめてもらったのですが。


私が勢いで言ってしまった言葉は、「=もう家では私の助けなしには生活できない。私は、最期までいるつもりでいる。」ということを示すもので、「自分と父で家で生活できる。治療も時期にできるようになる。」と信じたい母にとってつらいつらい言葉であっただろうなぁと思います。

現実的では全くなかったし、旦那さんも「あの時が帰り時では全くないと思った。」と言っていましたが、母の気持ちを汲んで、帰ることも思いやりだったのだろうか、とも思うことがあります。



その時々の選択は、その時その時、一生懸命皆で考えた結果。それで正解、と思うことにします。



でも、ひとつ、やり直せるとしたら、母が信じていることを妨げるような言葉は、いくら思っていようとも、口に出さないように最期まで接したいです。それを言わずに説得する術を何とかみつけたいです。家族から現実を突きつけられる、というのは、ショックだっただろうと思います。ベッドに横たわり、遠くを見て考え込んでいる様子を忘れられません。


これから、ガンの方と接することがあれば、これだけは、肝に銘じて寄り添いたいです。