母の緩和ケアについて 今思うこと | While there is life there is hope ~肺腺がんと母と家族の歩み~

While there is life there is hope ~肺腺がんと母と家族の歩み~

2008年8月、肺腺がんステージⅣと診断された母と、家族の歩みの記録です。

しばらく、本人家族ともにつらくて仕方なかった時のことは思い出したくなくて、ブログも写真もみていませんでした。




治療の最後の方の母を思い出すたび、「どんなにつらかっただろうか」とあんな言葉をかけるべきではなかったとか、もっとこうしてあげたかった、とか色々な思いが沸いてきます。





これから、少しだけ、母の緩和的治療について、今、思うことを書きたいと思います。




がん性髄膜炎と分かった頃は、本当に痛みとの戦いでした。脳のほうの痛みは、体のほうの痛みよりコントロールしにくかったように思います。とにかく首筋をすごくいたがっていました。


母は、人並み以上の基礎体力があり、それがゆえに、治療を長く続けることができました。がん性髄膜炎は、ガンと長く付き合ったからこその症状なのだと思います。本当にどうしてあんなに治療をがんばった母が、最後にあんなに痛い思いをしなければならなかったのか、神様は残酷だと思えてなりません。




在宅治療中、お医者さんは、「しっかりした意識の中で家族とやりとりできる期間を縮めることになってしまう」と積極的には強い薬(痛み止め)を使いませんでした。命を扱うお医者さんとしてはもっともな判断だと思います。



でも、今思えば、もっと早くに、『意識が朦朧としてもいいから、痛みをとることをとにかく優先してください」と家族が強くお願いすればよかったと思えてなりません。家族との時間を長らえることよりも、もっと早く痛みから解放してあげたかったです。



周りの人は、最後まで母の希望を尊重して、自宅で看てあげられればよかったね、と言いましたが、早く緩和ケアのプロに任せたほうが、痛みに対する苦しみは少なかったのではないか、とも思ったりします。



緩和ケア病棟の看護師さんが、義理の妹と話しをする中で言っていたそうなのですが、母が最終的にお世話になった病院では、「自宅療養をする場合というのは、普通は、痛みを抑える方法をしっかりと病院で確立してから、自宅へ戻す」のだそうです。母の場合は、痛みのケアを模索中の大変な時を自宅で過ごすことになってしまいました。痛みをあまり感じることなく、ゆるやかに最期を過ごされる方とは、選ぶべき方法が違ったのではないか、と思います。



本人が直接意思を伝えられたら一番だったのですが、最後の方は、少し認知症のような症状も出てきていて、現状認識や的確な判断をすることは本人はできなくなってきていました。だからこそ、家族が判断し、お願いしてあげるべきだったかもしれません。




何に重きをおくか、によって緩和ケアの内容は大きく違ってきます。本当に難しい選択だったなぁと感じます。