娘への感謝 | While there is life there is hope ~肺腺がんと母と家族の歩み~

While there is life there is hope ~肺腺がんと母と家族の歩み~

2008年8月、肺腺がんステージⅣと診断された母と、家族の歩みの記録です。

9月に娘とともにイギリスから鹿児島の実家へやってきて、もうすぐ3ヶ月が経ちます。



ここのところ、「娘が不安定になって、自宅での介護の限界を感じた」とか「娘がいるから、病院に居られる時間が限られる。泊まりが出来ない。」とかいう文言が家族や親戚、医師や看護師たちとの会話の中に出てきてしまっています。そのたびに、「でもね、小さいながらにすごくおばあちゃんのためにがんばってきたんだよ。」とたくさん付け加えたくなります。



実際には、親バカっぽくて付け加えはしないのだけれど、ここには記しておきたいと思います。



9月は、母は車で片道45分の病院に入院していました。私と娘の日課は、朝の家事を片づけた後、病院へ出発。途中で母と食べられる美味しいものを調達して、お昼くらいに母と一緒におしゃべりを楽しみながら食べる。ご飯の後は、母のベッドに座って、お絵描きやひらがなの練習やしまじろうの教材で遊ぶ。娘が飽きた頃に帰る。というパターン。美味しいものを食べるのとおばあちゃんの横でお勉強するのを楽しみに、毎日喜んで着いてきてくれました。そこの病院ではなぜか騒がず、いつも静かに遊んでくれました。母も楽しみにしていてくれて「はるちゃんに会うと元気になれるよ。」とよく言っていました。



10月はじめから11月末にかけては、自宅で母と過ごすことができました。娘の役割が自然とできてきました。内容は、めがねやクッション、ティッシュ、水のペットボトルなどおばあちゃんがリクエストするものをおばあちゃんの移動するところに運ぶ。点滴をしているときには、おばあちゃんが移動するときに点滴のレールをトイレやダイニングまで押していったり、ママと一緒に(汽車ぽっぽごっこをしながら)おばあちゃんをささえたりする。おばあちゃんが夜中にトイレに立てなくなって家族があたふたしている間も娘も起きてきて何かできないかとクッションを運んできた光景を覚えています。



自宅では、おばあちゃんとは本当によくお話をしていました。「(旦那方の祖母)○○ばあばは、イギリスに一回来たから今度は、□□ばあちゃんの番だね。元気になったら一緒に行こうね。」と誰も教えてないのに、よくこれを言っていて、イギリスではどこにいこう、何をしよう、と二人であれこれ話していました。この会話も本当にいい薬だったように思います。



緩和ケア病棟では、「そうね~」とか「それは楽しいね」と時々反応ができるくらいなのですが、娘の話をすると母はいつも本当にいい表情になります。娘は行くといつも手を握り、じっと母を眺めています。帰るときは、意識があるとバイバイのしぐさをしてくれます。





私が「母が大変なときにそばで出来る限りのことをしたい。」という希望を叶えられているのは、旦那さんの理解と、娘の協力あるが故です。まだ3歳だけれど、立派な働きをしてくれている、と思う瞬間がたくさんあります。この出来事を、成長しても忘れずに心のどこかで覚えていて欲しいなぁと思います。寝顔を見ながらよく「ありがとうね。」と話しかけています。


あ~、本当に親バカですね。




母は、仕事をやめてまで、私が娘を産む手助けをしてくれました。一人目が大変なことになってしまったので、何とかこの娘だけは無事に産ませてあげたい、という並々ならぬ思いがあったそうです(父談)。今回、娘とともに母の闘病のお手伝いができている、ということは縁を感じるというのか、本当にありがたいことだと思っています。