「敵といふもの今は無し秋の月」 | メタメタの日

 高浜虚子のことを調べ始めだのだけど、やはり凄い。一筋縄ではいかない。曲者であることは、森鴎外と匹敵するだろう。鴎外は、天皇が現人神でないことも、大逆事件が死刑に値しない冤罪であることも知っていた。しかし、明治政府の高級官僚として、そうである「かのように」世に処した。死に臨んだときは、処世の虚飾を一切脱ぎ去り、ただ「森林太郎」とのみ墓石に刻ませた。その鴎外を敬愛していた虚子は、鴎外同様に曲者であるだけでなく悪人でもある。本人自身がそれを認めていた。


 初空や大悪人虚子の頭上に


 大正7年(あるいは6年)正月、虚子44歳。すでに数年前から彼が率いる「ホトトギス」が俳句界を制覇していた。当然、いろいろな批判が浴びせられた。自分ほど悪口を言われた俳人はいない、最近はその悪口が減って寂しいと晩年自嘲している。



 敵といふもの今は無し秋の月



 昭和20年8月15日。終戦の詔勅を聞いたときの句だという。虚子71歳。

 今回、この句を初めて知って舌を捲いた。昨日まで敵、敵と言っていたものが無くなった虚脱感。しかし一日で無くなってしまうところを見ると、はじめからそんなものは無かったのではないか、いつもと変わらない秋の月・・・米英を鬼畜と呼び、大東亜の理想を大言壮語していた時代に、虚子はそれを信じてはいなかった。高村光太郎や斎藤茂吉が皇軍を詠っていたときに、虚子はそのような句をつくっていない。

 戦中でも戦後でも、新聞記者から、戦争の俳句に及ぼした影響を質問され、「俳句にはちっとも変化はない」と答えて、記者から、あきたらぬ顔や憐むごとき目で見られたという。虚子は、文学報国会俳句部長として柳田国男や釈迢空などと連句を巻き、痔の痛みを抱えながら日本各地の句会に参加し、三国の女弟子の家に一泊し、疎開先の小諸で玉音放送を聞いた。

 天皇を信じていなかった鴎外、戦争の大義も敵の存在も信じていなかった虚子。しかし、鴎外は天皇の藩屏として、虚子は文学報国会俳句部長として身を処した。彼らの心中を思い、いま、北朝鮮にいるだろう鴎外や虚子のことを思った。