正子の住んでいた「猿町」は、旧町名です。
途中、道行く60代くらいの男性に「この辺は昔猿町と呼ばれていた場所らしいのですが、何かご存知でしたら教えていただけませんか?」と聞くと
「え?この辺は『さとまち』と言ったらしいですよ…よくわかりませんが?」と教えてくださいました。
「さとまち」と「猿町」音は似てますね・・・
と、思っているところで目の前にY字路が・・・
そこには、こんな御堂があり脇にあった石碑には「あった!猿町道」の文字。
↓
やはり、正子の住んでいたころは猿町と呼ばれていたようですね。
そして、やっと探して辿り着いたお寺で、ご住職に御挨拶をし、まりぴょん自筆の家系図を見せると、千田家のお墓のみがあると思って行ったお寺に、野添家のお墓もありました。
大発見をしたかのような、嬉しさでした。
正子の母は、野添家から千田家に嫁いで、野添家は薩摩藩の出身だから、てっきりお墓は鹿児島かと思っていましたが、お墓の移管をしていました。
日本画家となった草郷おじさんのお墓があって、しかもお寺の
ふすまにはおじの描いた絵があるというではありませんか!
さっそく見せていただきました。
お寺の方は、若き日の卓おじさんを知っていて、「当時、このふすまが真っ白だったので、アユがあまりはっきり見えなかったのですが、草郷さんは『年月が経つと、ふすまにアユのおなかがくっきりと浮き出てきますよ』とおっしゃっていましたが、本当にその通りになったんですよ」と話してくださいました。
両家の墓誌には、正子の日記に登場する人々の名が刻んでありました。
千田家の墓誌には・・・
預かっていただいたお宅でごちそうになった桃で、疫痢となり亡くなった春子ちゃん。
東京から来たお客様に買っていただいた桃を食べて、春子ちゃん同様疫痢で亡くなった愛子ちゃん。
お正月に、生まれてすぐに亡くなった赤ちゃんの名前は、貞三と書いてありました。
そして、朝鮮の京城で亡くなった、警察署長だったお父様。
母、ヒデの名前もありました。
野添家のお墓には、観音様が祀ってありました。
正子の日記「観音様の手 」に、書いてある通り、
卓(野添草郷)おじさんは、観音様が好きだったようです。
おじいさん(第二章6話おじいさんのにわとり 他に登場)、
おばあさん(8話洋服 、10話おせんべいの袋 、28話ごったん 他に登場、)
卓おじさん、おじさんの好きになった欣子さんの名前もありました。
おばあさんに「うちは、士族ぢゃ」と言われて、家出をして、鎌倉で欣子さんと暮らしていましたが、二人は結婚したんですね。
きょうは、色々なことを知りました。
とても清々しい気持ちです。
ご先祖様、私は正子の孫のまりぴょんです。
このお寺を、正子の日記から探して今日初めて参りました。
皆さんのことを書いた正子の日記を、ブログというものに書いています。
知人からは、「三丁目の夕日」の、大正版みたいで面白いとか、サザエさんみたいで、次を読むのが楽しみ、感動して泣いた~等色々感想をいただいています。
今日は、正子の日記の正確なことにとても驚きつつ、先祖の皆さんにお会いできたこと嬉しく光栄に思います。
正子の日記がなければ、孫の中で唯一私に日記が手渡されなければ、今日という感動の日はありませんでした。
今、私は正子の日記を「供養の写経」と言いがなら、日々ブログに書き写していますが、実際にあったお話と情景描写がリアルに感じられるため、皆さんと同じ次元というか、空間というか、そんなところに一緒に住んでいます。(まりぴょんは、愛子ちゃんの生まれ変わりかしら?)
愛子ちゃんのお話「トマトと云うもの 」を絵本にしたい!、正子の日記を本にして、多くの人に読んでもらいたい!、ご先祖様が生きた証を世に出したい!ずっと思い続けています。
正子も生前私に「まりちゃん、おばあちゃんのこの日記を、世に出してね」と言っていました。
ご先祖様、応援してくださいね。
また、会いに来ます。
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