過去に「水間寺」の記事を書きましたが、修正版として画像を入れ変えて修正しました。
「水間寺」は新西国三十三ヶ所観音霊場、第4番札所に指定されていて、自分が新西国三十三ヶ所観音霊場の御朱印を頂き始めたお寺でもあります。
「新西国三十三ヶ所観音霊場」の歴史は、通常の西国三十三ヶ所霊場よりは全然浅く、1932年大阪時事新報、京都日日新聞、神戸新聞の三都合同新聞社が企画し読者の人気投票に基づいて、近畿2府4県の古刹名寺の中から選出されたそうです。
その後、戦争により一時途絶えましたが復活し、戦後霊場から2寺院が辞退し、その寺院に代わって新たに2寺院が加わり、更に5寺院を客番として迎えて三十八ヶ所の霊場となっていて、第1番札所は大阪市天王寺区にある「四天王寺」となっています。
新西国三十三ヶ所観音霊場、第4番札所「龍谷山(りゅうこくさん) 水間寺(みずまでら)」。創建は天平年間(729~749年)。開基は「行基菩薩」。宗派は「天台宗」。本尊は「聖観世音菩薩像」。
詠歌 「みなかみは 清き流れの 水間寺 願う心の 底はにごらじ」
「水間寺」の創建年数ですが具体的な年数は分かりませんが、寺伝によると744年に「聖武天皇」の勅願により建立されたと伝えられています。
「聖武天皇」が42歳の厄年の時に病気を患って、なかなか平癒しなかったことから始まります。
ある時「聖武天皇」の夢の中に観音様が現れて、「この奈良の都より西南の方角にあたって、観世音菩薩がご出現なされる。よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」とお告げになりました。
「聖武天皇」は観音様の夢告に従い、「行基」に観音像を探すように勅命を発します。
「行基」は観音様の夢告どうりに、平城京から西南方向へ観音像を探しにいきます。
「行基」が水間の地へ訪れた時に突然16人の童子が現れて、「行基」を近くにあった滝へ誘導します。
その滝には白髪の老人の姿をした龍神の化身が立っていて、「行基」に一寸八分(約6cm)で黄金の「聖観世音菩薩像」を渡しました。
「行基」は都に戻って、この「聖観世音菩薩像」を「聖武天皇」に捧げたところ、「聖武天皇」の病気は完治したそうです。
「聖武天皇」は観音様の霊験に感謝し「行基」に、この「聖観世音菩薩像」を本尊として水間の地に祀るよう勅命を下し、堂宇を建立したと言われています。
創建当初は七堂伽藍を整えて、塔頭が150以上もあったと伝えられます。
しかし1585年、「豊臣秀吉」の紀州攻めの兵火により焼失し再建しますが、その後も火災などによる消失を繰り返して、現在の「水間寺」の寺観は1811年に岸和田藩主岡部氏の保護の元に再興されたものだそうです。
「水間寺」への交通アクセスは水間鉄道水間観音駅から徒歩で約10分、車では「水間寺」に無料駐車場があります。
「水間寺」は「水間」という名で分かるように、近木川と秬谷川(きびたにがわ)の2つの川が流れる間にあります。
「水間寺」には「山門」などの門はないので、「仁王像」などもありません。
境内へ入山する入口は数ヶ所ありますが、旧国道170号線から分かれる道にある「厄除橋」が正門の代わりでしょうね。
「厄除橋」の右手に寺名などを知らせる石碑が建っています。
「厄除橋」を渡り境内に入ると、まず目に付くのが「三重塔」です。
「三重塔」は以前「多宝塔」だったそうで、「豊臣秀吉」の紀州攻めの兵火で焼失した際に「三重塔」へ建て替えられたようです。
現在の「三重塔」は1834年に再建されたものだそうです。
「水間寺」の「三重塔」は江戸時代の浮世草子作家、「井原西鶴」の「日本永代蔵」に記載されたモデルの塔と考えられているそうです。
この「三重塔」の第1層の蟇股(かえるまた)に、十二支が刻まれています。東西南北に3干支ずつ刻まれています。
「三重塔」の右奥に「本堂」があります。
「本堂」は1827年、岸和田藩主「岡部長槙(ながちか)」の寄進によって再建されたものです。
「本堂」には「行基」が龍神の化身から授かった、一寸八分(約6cm)で黄金の「聖観世音菩薩像」が祀られています。
本尊は今まで開扉されたことがない絶対秘仏で、お前立ちの「聖観世音菩薩像」が拝観出来る形となっています。
厄年だった「聖武天皇」の病を霊験により平癒したことで、「厄除観音」と呼ばれているようです。
「本堂」の裏には「普賢菩薩像」が祀られています。
「行基」が龍神の化身と出会った「降臨の滝」は、「本堂」右奥の「鎮守権現宮」が建っている側から柵越しに見ることが出来ます。
秬谷川が近木川に交わる少し手前にあります。
その他の堂宇や史跡を紹介します。
「厄除橋」から境内に入ると左手に「聖観世音菩薩像」、「写経堂」、「客殿」があり、正面には「献馬像」があります。
「写経堂」は150年前に安置された、西国三十三ヶ所観音霊場の本尊が祀られているようです。
「献馬像」には「水間寺」再興に尽力した、岸和田藩主岡部氏の家紋が入っています。
「厄除橋」から右手に行くと詠歌の石碑や、「手水舎」、「地蔵尊」、「千日隔夜宝篋印塔」、「説法石」そして「布袋石像」などがあります。
「千日隔夜宝篋印塔」は1727年に建てられたもので、基礎の1面に前かがみになって念仏を唱えて歩いている隔夜僧が刻まれています。
「本堂」の前方には「経堂」、「鐘楼」があります。
「経堂」にはかつて「聖武天皇宸書の妙典」、「光明皇后の般若経」、「慈覚大師らの妙法経」が納めてありましたが、「豊臣秀吉」の紀州攻めによる兵火で焼失し、現在は「大般若波羅密多経600巻」と「大蔵経」などが納められているようです。
「経堂」には傅大師(ふだいし)と、その長男「普建(ふけん)」、次男「普成(ふしょう)」が祀られています。
「傅大師」は「輪蔵」を考案した人物とされていて、「輪蔵」を旋回することによって読経したのと同じ功徳を人々に与えて、衆生を導いたことにあやかり「経堂」に祀っているそうです。
傅大士像。隠れて見えませんが左右に長男の普建、次男の普成が。
「本堂」の右手には「常寂光堂」、「水子地蔵尊」があります。
「常寂光堂」は先祖供養や水子供養のための回向が、毎日行われているそうです。
「本堂」から廊下で「食堂(寺務所)」と繋がっています。
「食堂」の左手には「護摩堂」があります。
「護摩堂」の左手には「観音院」があります。
「観音院」の左手には「愛染堂」があります。
「愛染堂」の前には「お夏清十郎の墓」があります。
「愛染明王」は恋愛、縁結び、家庭円満の御利益のある愛敬の仏様で、約700年前、水間の豪農「楠右衛門」の娘「お夏」が、この「愛染明王」に祈願し勅使であった「山名清十郎」との恋を成就させたと言われ、その縁で「愛染堂」の前にお墓が建てられたそうです。
「本堂」裏の旧国道170号線を隔てた裏山を登ると、「行基堂(開山堂)」があります。
「行基堂」は17世紀中頃に再建された、「水間寺」最古の建築物だそうです。
「行基」が「水間寺」を建立する際に、「行基堂」の側にある「鏡池」に自分自身の姿を写し、椿木の霊木で自らの像を刻んだものを安置していましたが、「豊臣秀吉」の紀州攻めの兵火により焼失し、現在は作者不明の「行基菩薩像」を祀っているようです。
「行基堂」の側にある「鏡池」の中央には「瑞泉堂」があり、「聖観世音菩薩像」が祀られています。
「鏡池」の前の高台に「弁天堂」があります。
「弁天堂」には「弁財天」が祀られていて、「南海七福神めぐり」の一神となっています。
「行基堂」より右手に行くと「閼伽井(あかい)」、「白衣観音像」、「薬師堂」があります。
「閼伽井」は「行基」が「薬師堂」に祀られている「薬師如来像」へ、水をお供えする為に汲んだと言われて「行基水」、「薬師井戸」とも呼ばれています。
「薬師堂」は「行基」が水間の地に訪れた時に、「聖観音菩薩」の出現を願って「薬師如来像」を祀ったと伝えられています。
あと境内からかなり離れた南方向に「南の院」と、旧国道170号線を北へ進み「降臨の滝」の上辺りの場所に「赤宮」があります。
最後に「行基堂」がある裏山の上は水間公園となっていて、市民の憩いの場所となっています。
水間公園内に「平和観音像」と「鐘楼」があります。
公園内の水間寺駐車場には野良猫が多いみたいです。目つきが悪い。