今回、紹介する新西国三十三ヶ所観音霊場は、京都市中京区にある「誓願寺」です。多くの人で賑わうアーケードの繁華街である、新京極商店街の中にあります。
新西国三十三ヶ所観音霊場、第15番札所「新京極 誓願寺(山号は無し)」。創建は667年。開基は「恵隠(えおん)」。宗派は「浄土宗西山深草派 総本山」。本尊は「阿弥陀如来像」。新西国観音霊場の本尊は「十一面観世音菩薩像」。
詠歌 「人波に おされながらも 誓願寺 心にふかく 頼みきにけり」
「誓願寺」の創建の詳細は分かりませんが、「天智天皇」が霊夢により大和国の[「賢問子(けんもんし)」、「芥子国(けんしこく)」という名仏師の父子に、「阿弥陀如来像」を刻ませたことが始まりとされています。
667年、「阿弥陀如来像」を本尊として祀るために、「天智天皇」の勅願により奈良(現在の奈良市尼ヶ辻付近)に、「恵隠」を開基として寺院を建立したと伝えられています。
その後、「誓願寺」は都の遷都などにより移転を繰り返します。
長岡京遷都では長岡の乙郡へ、平安京遷都では伏見の紀伊郡深草へ、鎌倉時代初めには一条小川へ、そして1591年には「豊臣秀吉」の都市整理のために現在地へ移転したそうです。
「豊臣秀吉」の側室「松の丸殿(京極竜子)」は「誓願寺」に深い信仰があり、「松の丸殿」の援助により「誓願寺」は6500坪の境内に七堂伽藍が建ち並び、寺院塔頭が18寺もあった大寺院だったそうです。
「誓願寺」は創建以来、合計10度の火災による焼失で再建を繰り返してきたようです。
「誓願寺」の衰退は江戸幕末時代の「禁門の変」の火災で、京の町と共に焼失し再建しようとしますが、明治時代に入り廃仏毀釈の影響もあり、京の町を復興させるため政治家により大歓楽街を作る計画が立てられて、6500坪あった「誓願寺」の寺領から4800坪もの土地を没収されたようです。
この計画で完成した大歓楽街が現在の新京極だそうです。
現在の「誓願寺」は1964年に建立された鉄筋コンクリート製の「本堂」と、「宗務所(寺務所)」のみという昔の大寺院の面影はありません。
「誓願寺」は創建当初の宗派は「三論宗」だったようですが、平安時代後期に「興福寺」の「蔵俊僧都」が帰依し、後に「蔵俊僧都」が「法然上人」に「誓願寺」を譲られてから「浄土宗」のお寺となったようです。
現在は「法然上人」の高弟である「西山善恵房證空(さいざんぜんえぼうしょうくう)上人」の流れをくむ、「浄土宗西山深草派 総本山」となっています。
三条通から四条通までの通りである新京極通と、六角通が交わる場所の新京極商店街の中にあり、交通アクセスは電車では京阪電鉄三条駅、京都地下鉄京都市役所前駅から徒歩約10分ぐらいで、阪急河原町駅からはちょっと距離があります。
新京極通の三角公園と言われる場所の前に、「山門(西門)」があります。
「山門」の左前には「迷子のみちしるべ」という、ちょっと変わった石碑があります。
「迷子のみちしるべ」は左側に「さがす方」、右側に「教しゆる方」と刻まれています。
警察がまだ存在していなかった江戸末期から明治中期まで、迷子が深刻な社会問題となっていたようで、迷子や落し物を探す人は左側の「さがす方」面へ紙に書いて貼り付け、迷子や落し物を見つけた(拾った)人は右側の「教しゆる方」の面へ紙に書いて貼り付けて情報交換を行っていたそうです。
「迷子のみちしるべ」はそういった人たちを橋渡しする(仲人する)石碑ということから、男女の縁を仲介する意味をもつ「月下氷人」から、「月下氷人石」または「奇縁氷人石」とも言われています。
「迷子のみちしるべ」は昔、「誓願寺」で本尊の「阿弥陀如来」のご利益で、行き分かれた母子が再会できた霊験にあやかって建てられたと言われています。
「迷子のみちしるべ」は寺院、神社などに建てられて、京都市内で「誓願寺」の他に「北野天満宮」、「八坂神社」の3つ現存しているようです。
「山門」を抜けるとすぐに「本堂」があります。
「本堂」は1964年に再建された鉄筋コンクリート製の新しい建物です。
「本堂」には本尊の「阿弥陀如来像」が祀られていて、靴を脱ぎ「本堂」内に上がって拝観する形となっています。
「本堂」内は撮影が可能で優しそうなおばさんが、「ゆっくりしていって下さい」と言ってくれました。どこから来たかも言ってないのに、「大阪からですか?」って当てられてびっくりしたんですが、「新西国観音霊場」で訪れる参拝者は大阪人が多いそうです。第1番札所が大阪の「四天王寺」だから多いって言ってました。
本尊の「阿弥陀如来像」は度重なる火災で創建当初のものは現存せず、現在の本尊は「禁門の変」の大火で焼失した後、「石清水八幡宮」に祀られていた「阿弥陀如来像」が、明治時代の神仏分離令によって1869年に「誓願寺」へ移されたもののようです。
「本尊」の右手に新西国観音霊場の本尊である、「十一面観世音菩薩像」が祀られています。
この「十一面観世音菩薩像」は新京極にあった「長金寺(ちょうごんじ)」に祀られていた観音像で、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となり「誓願寺」へ移されて祀られたようです。
「弘法大師」作と伝えられ一言で願いを叶えてくれることから、「ひとこと観音」と呼ばれていているようです。
本尊の左側には流祖の「西山善恵房證空上人」、派祖の「円空立信上人」、記主の「顕意道教上人」が祀られています。
「本堂」の右隅には「びんずる尊者」が安置されています。
「本堂」内には「安楽庵策伝上人(あんらくあんさくでんしょうにん)」の人物画が掛けられています。
「安楽庵策伝上人」は「誓願寺」の55代住職で、笑い話が非常に得意で説教に笑い話を取り入れて、「醒睡笑(せいすいしょう)」という1000以上もの笑話集を著作しています。
「醒睡笑」は後世の落語のタネ本になっているそうで、このことで「安楽庵策伝上人」は「落語の祖」とされています。
「誓願寺」は平安時代に2人の有名な女性作家が極楽往生したと伝えられています。
1人は「枕草子」を著作した「清少納言」で、「誓願寺」で菩提心を起こし庵を結んで極楽往生したと言われています。
もう1人は「和泉式部日記」を著作した「和泉式部」で、娘に先立たれた「和泉式部」は、その苦しみから救われる道を求めて西国三十三ヶ所観音霊場、第27番札所「書寫山 圓教寺」の「性空上人(しょうくうしょうにん)」を訪ねます。
すると「性空上人」から「石清水八幡宮に行き祈りなさい」と言われ、「石清水八幡宮」で祈っていると夢に老僧が現れて、今度は「誓願寺で祈りなさい」とお告げがあり、「誓願寺」にて「阿弥陀如来」に極楽往生の道を祈り、「誓願寺」の側にある「誠心庵」で尼となり極楽往生したと言われています。
このことで「誓願寺」は女人往生のお寺とも言われています。
その他の「誓願寺」の建築物や名所を紹介します。
「山門」を抜けて左手に「手水舎」があります。
「本堂」の階段を上がり左手に「鐘楼」があります。
「本堂」右手前に「円光大師」霊場を知らせる石碑が建っています。
「本尊」の右手に「北向地蔵尊」があります。
「本堂」の裏手に「宗務所(寺務所)」があります。
最後に「誓願寺」は芸道上達の寺とも言われ、それに関わる「扇塚」があります。
能の大成者「世阿弥」の作と伝えられている「誓願寺」という謡曲は、「和泉式部」が歌舞の菩薩となって登場することから、江戸時代以降に能楽や舞踊家の信仰が厚くなったそうです。
このことで能楽や舞踏家を含め多くの芸能関係者が芸道上達の祈願に訪れ、扇子を「扇塚」に奉納するようになったそうです。
「本堂」には絵馬のように扇子へ芸道上達の願いを書き、奉納したものが飾られています。