社会的な目線での統合失調症とアスペルガーの共通点 | kyupinの日記 気が向けば更新

社会的な目線での統合失調症とアスペルガーの共通点

社会的な地位が桁違い高くなると疾患が問題にならなくなること。周りがその人に合わせてくれるような環境。そのくらいの地位。例えば、弁護士、医師、大学教授、大学の教官、会社の風見鶏的オーナー、作家、画家、漫画家などである。これは過去ログから。

この意味で精神疾患は社会的な要素が高いといえる。例えば今この状態は病気と言えるが、100年前ならば病気と扱われなかったようなものもある。余談だが、一般に統合失調症の場合、社会的に地位が桁外れに高いケースでは、あまり病気が問題にならない傾向はある。桁外れに高い地位とは、大学教授や風見鶏的な会社オーナーとか作家や画家などである。彼らは周囲の者が合わせてくれるので、まあマイペースでやれるというか、ちょっと変わった人だけど・・くらいで済んでしまうのである。(「精神疾患と社会とのかかわり」から)

そのような社会的地位では、ちょっとばかり変でも周りから仕方がないと思われていたりする。それはそれで手放しでは喜べないんだけど。

まあ、困りながらも周囲はサポートする。彼はかけがえがない存在だからだ。いつもそのような環境にいると、本人も自覚がない。病識もない。随分迷惑をかけているかもしれないことは意識できない。しかし、「この自覚なし」、「病識なし」で済む環境だからこそ、微妙なバランスが取れているのであった。

真に孤独な仕事の場合は、そこまで迷惑がかかっていない。個人で行う創造的な仕事などはそうだ。その環境では、究極の1人勝手でもまだ大丈夫なのである。

変に自分を意識するとか、他人に配慮しようとか合わせていこうとすると、何か病気になるかもしれない。それは精神だけ言っているのではなく、胃潰瘍などの身体疾患も含まれる。何か壁にぶつかって、それを克服できるような人。それはそれで価値があるが、危ない橋を渡ることでもある。

アスペルガーは、高知能とか高機能という意味が内在するので、その点で統合失調症とは一般人の認識が異なっている。そういうこともあるのだろう、自分にその診断がつくと自らアピールする人たちがいる。統合失調症の人たちがその診断をアピールしないのとは大きな違いだ。これは単に病識があるなしとは少し異なる認知の歪みのような気がしている。アピールすることは、自分を特別にみてほしいという言外の意味もあるのだろう。本人にとって、良いか悪いかと言えば良くはないと思う。アスペルガーは「そう悪くはない特別な疾患」に見られたいのかもしれない。

アスペルガーの家族が、すぐに攻撃的になるのはたぶんそのことと関係している。このような社会とのかかわりはたぶん周囲の人からも少なくとも快くは思われないだろう。ただ、彼らにはわかりにくいことだとは思う。

アピールすることで、何か良い事があるとすれば、本が書けるくらいであろう。

アスペルガーという診断について僕ができれば告知したくないのは、アピールするようなアスペルガーになってほしくないからである。これは過去ログのコメント欄から。

アスペルガーは正常からかなり重い人まで連続しているので、その望ましい対応は千差万別です。現在は広汎性発達障害がブームのようになっており、ブランド化しているのを僕は憂慮しているのです。過去ログもその目線で書いたものがあるし、今回のエントリもそういう気持ちが含められています。僕は、「アスペルガー症候群」と告知した時、ショックを受ける家族も、また大喜びする家族も何か間違っていると思うのです。だから、僕はなるだけ告知しない方針で臨むことにしました。(「アスペルガーと正常の間の人々」から)

社会的にその存在を主張することは、その疾患の治癒とか寛解の方角には行っていないような気がしている。それは、その個人だけではなく、アスペルガーの社会的評価についてもそうだと思う。

このような考察から、軽いアスペルガーの中学生や高校生は専門性の高い職種を目指すべきだ。それは知的に高い職種だけではなく、そうでないものたくさんある。何か病状を悪くして疾患をアピールしなくて済むようにしないといけないと思うのであった。

けっこう年齢がいって、それなりに適応を果たしていた人たちは、軽かったのももちろんあるが、消極的ではあるが結果的にまだ社会に適応できる職種を選択していると思う。

参考
①頭部外傷から統合失調症になるのか?
②統合失調症の寛解という意味
③社会的な目線での統合失調症とアスペルガーの共通点
④精神疾患と暴力、触法性
⑤2ちゃんねるとアスペルガー
⑥発達障害は統合失調症の免罪符ではない
⑦赤