アスペルガーと正常の間の人々 | kyupinの日記 気が向けば更新

アスペルガーと正常の間の人々

数ヶ月前に、ある女性患者さんが初診した。僕は最初話していたとき、彼女はアスペルガーではないかと思った。そう思った根拠であるが、

1、 服装
2、 容姿・表情
3、 主訴の内容


であった。アスペルガーは痩せ型の人が多く、ひょろっとしていて服装の色合いもモノトーンが多い。(特に黒>参考

あと、わりあい性別、年齢不詳の印象の人も多いように思うが、中には妙に端正で俳優か女優さんもできるのではないかと思うような人もいる。(←意味不明)

つまり根拠がないと言えば、そうとも言える。

とにかく、アスペルガーでも社会生活を普通に営んでいるような限りなく正常に近い人たちは、何か事件が起こらない限り正常人として紛れているのである。

だから、こういう人たちは何もなければ、もちろんアスペルガーとは言えないと思うし、何か精神面で起こったとしても、その程度ならそう診断すべきではないという感覚。つまり幼少の頃からトータルで考えて一般人の感覚で広汎性発達障害が明瞭に見えない限りはそう診断しないのである。

これは、ある意味、きわめて社会的なものを考慮し診断する立場と言える(参考)。また、そういう人に安易にアスペルガーの烙印を押さないという配慮もある。僕は、よく言えば個性、悪く言えば変わり者の人たちを正常域を広く取って包括し、その土俵で治療を進めたいのである。

しかし患者さんによれば、アスペルガーの雰囲気だけはなぜか感じてしまうのである。しかしそう思ったとしても、告知はしない。それかもしれないとも言わない。なぜなら上のように思っていることもあるが、確固とした証拠がないというのももちろんある。

後に、転院して他の精神科医からそう告知されて、僕が全然わかっていないトンデモな医師と思われてしまったとしても、それはまあいいでしょう。減るものでもないし。

もちろん、アスペルガーで生活上のハンディキャップが大きければ、そう診断することで本人や家族の心理的メリットもある(かもしれない)が、他の病院でおそらくそう診断されないような人たちに、積極的に診断・告知するのは、あまりにもと思う。本人もショックだろうし。

そういう理由で、僕はバカみたいにアスペルガーとは診断しないタイプの精神科医である(参考)。しかしその背景を考慮して治療はする。マニュアル的には対応しないのである。僕の治療はアスペルガーに限らず、常にそういうスタイルになっている。

今回の女性は僕がアスペルガーと診断しない程度の、そういうタイプの人だったということでエントリを読んでほしい。これは一部の人たちには参考になるかもしれない。

彼女の困っていることはいくつかあったが、最も大きい原因は「今は育児もしなくてはいけないこと」と言えた。何か仕事をしているようなアスペルガーの人たちは、育児は平行してやっていくには難しい仕事なのである。

アスペルガーと前頭前野」から
「前頭前野」は、コミュニケーション、思考、創造、行動・情動の抑制、意欲、記憶、自発性など多岐の要素と深いかかわりがある。例えば、数人と会話している時に、中心になっている人に注意を向けたり、話に追随したり、笑うところで笑ったりするなど、人間らしい行動、情動を制御しているといえる。また、嫌なことがあってもそれを表情に出さず、上手い具合にバランスをとって円満な人間関係を保てるのもここが関係している。アスペルガーの人は、同時にいくつかの仕事を頼まれるとパニックになったりするが、これは前頭前野が不調だからである。意味不明に暴力を振るうのもこれに関係が深い。

最近、職場の上司の言葉がきつく感じられるようになり、小さな衝突が生じていた。たぶん上司は最近変わったわけではなく、以前からその調子だったと思うが、このような時期は許容力が低下しているのである。もうあの職場では自分はやっていけないという。

アスペルガーの人たちは洞察が出来ない人が多く、自分自身に変化が生じてそういう風になったとは普通は思わない。これはたぶん健康な人でもそうなるように思うので、これ自体は特別でもなんでもない。

一般の人に「あんた、病識ありますか?」と聞いても「(°Д°)ハァ?」と言った答えが返ってくるに違いない。自分のことは案外わからないのである。案外と言う言葉は不適切だ。「自分のことは普通にわからない」のである。

彼女の場合、病院に来ることを決心したのは、ある程度の自分の異変には気付いており、それまでの自分とは違うと思ったからであろうが、それは不眠、イライラなど、自分が感じる範囲だけである。これは過去ログで「統合失調症の人たちは家庭の医学で自分の症状を調べた時に、うつ病になったと思うことが多い」と言うのに似ている。

いろいろと話を聞いていると、育児にしてもこだわりがあり、例えば、何があっても絶対、母乳で育てたい、精神科の薬は母乳に影響するなら飲まないという。このようなこだわりは強迫的であり、やはりアスペルガーっぽいと言える。

ごく軽いアスペルガーの主婦(これは僕が正式に診断しない範囲の人)は、非常に食材にこだわり無農薬とか有害なものを避けようと一生懸命にやっていることがある。きっと彼女はそういうタイプなのであろう。

僕は、これは思ったように薬物治療はできそうにないと思った。たぶん、そういう制約がなければデプロメールかルーラン1~2mgくらいを開始したような気がする。

最初、「育児ストレスでうつ状態になっているようなので、会社を休みましょうか」くらいにアドバイスし普通診断書を書いた。こちらが積極的に言って休ませないと、こういう人はセルフコントロールができず、行くところまで行って遂にはバッタリ倒れてしまうからである。アスペルガー的な人はどこまで悪くなるのか見当がつかないところがあり、早めの休養が予後を良くすると思う。

僕は他に食事療法を薦めた。結局、彼女は薬を飲まないので、「休むこと」と「平凡なお話」と「食事療法」で治療を始めたのであった。(参考

僕は心理的な深い話はしないことにしているので、これまでの経歴や生活上の些細な事件などを最初は聴取していた。幼少時にはどうみてもアスペルガーを象徴しているようなものはないと思った。軽い人はその程度なんだと思う。考え方はやや融通がきかない面があるが、このくらいなら、一般の人にもいくらもいる。ちょっと面白いと思ったのは、彼女は外国人(白人)と結婚していること。

当初、僕はこれはたまたまそうだと思っていて、あまり気にしていなかった。重要視していなかったのである。しかしずっと話しているうちに、この人は外国人だからこそ結婚した(できた)のではないかと思うようになった。彼女は英語はそこまでできるとは言えないのである。

もしコミュニケーションのハンディキャップがわずかにあるとしたら、むしろ外国人の方が付き合いやすいというのはあると思われる。なぜなら、語学のハンディキャップがコミュニケーションのハンディキャップに化けてしまうため、普通の人と変わらない感じになってしまうから。これはアスペルガーのハンディキャップが相対的に薄れる環境だと思った。

だいたい、外国人は積極的に言葉で愛情表現する傾向があるため、アスペルガーの女性には日本人男性よりはむしろわかりやすいような気がする。結婚生活にしても、とまどいが少ないのかもしれない。コミュニケーションに言外の情緒的なものが多い日本文化とは異なるから。日本人は言葉で直接表現することは恥ずかしいのか、

男は黙ってサッポロビール・・

の世界だからである。(←かなり古い)

僕は「ご主人は子供の育児についてどう言ってますか」と聞いてみた。彼女は、自分の国では問題にならないようなもの(悩み)であると、言われたらしい。まあそれでも、本人は納得しないわけだが。

食事療法(今回は取り上げない)が順調に行き、1ヶ月くらい経つと随分元気になった。僕は細かいことは言わない方針なので、最低限の生活のアドバイスだけはしていた。

しばらく時間が経ってから、僕はなぜバッチフラワーを薦めなかったのだろうかとちょっと反省した。バッチフラワーは子供にも使われるくらいだし、母乳から出たとしても、かえって子供の夜泣きが良くなるかもしれない。

たぶん、彼女には有効だし、本人も気に入ると思ったのである。

(これも不思議なボトルに入っているので、人間関係が出来ていない段階で勧めたら、拒絶されていたかもしれないとは思う。)

そんな風に、僕のくだらない話とバッチフラワー(レスキューレメディ)を併用していたら、ずいぶん表情から険がとれてきたと思った。アスペルガーの人たちの表情には大雑把に言って2種類あり、普通は朗らかでない人が多い。いつもシリアスなのである。

僕はもともと彼女は普通の人に含めているが、今回はちょっとだけ僕の主観から、そういう角度で見てきたことについて考察している。結局、彼女は身体的ストレスから、自分の弱点が現れたのだが、いろいろやっているうちによくわからない理由で、今や、薬もろくに使わないまま完治しようとしているのである。

僕は、彼女がこのように良くなったのは、別にデプロメールを使わなかったからとは思わない。デプロメールを使っていた方が、きっと僕自身の苦悩みたいなものは少なかったと思う。結果は同じ人が治療している以上、たいして変わらなかったと思うよ。

正常人を広く取って、無意味なラベリングをしない。これは患者さんへの精神科医らしい接近だと思う。彼女にチューニングを合わせたのである。

僕は、特に内因性疾患などの診断学は重視しているが、治療はまた別な感覚で行っているのである(参考)。これはそういう風にした方が、結局は本人とって人生のストレスにならないということもある。それはストレスと言うより、トラウマと言っても良いのかもしれない。