Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

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 本屋がまた一軒なくなった。通勤で利用する駅の構内に本屋があったのだが、先週限りで営業を終えた。

 

 私が10代だった1980年代には、すでにメディアは若者の活字離れが進んでいる、と伝えていた。大学時代、専門分野以外の本は読まない、という「秀才」が周りに数多くいた。そして今やインターネットの時代である。近所の商店街に2,3軒あった本屋も今はない。

 

 駅の本屋の最終日、本を買った。いつか読もう。

 

 

 

 

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(お題に一言ボケて byアメーバ大喜利)


それよりも大切なのは参議院議員選挙だ!!




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2016年9月19日、国会前で行われた「怒りと悲しみの沖縄県民大会に呼応する『命と平和のための6.19大行動」に参加してきた。毎月19日にはこの場所で安倍政権に対する抗議行動が行われているが、沖縄の人たちと思いを一つにする集会となった。今年4月、沖縄で20歳の女性が暴行の末殺され、元海兵隊員の男が死体遺棄容疑で逮捕された。(報道によれば容疑者は強姦と殺人もしたと供述している。)これに抗議するためこの日、同じ時刻に那覇で県民大会が開かれた。奇しくも、23日にはまた沖縄慰霊の日がやってくる。沖縄の米軍基地に異議を唱えるため、私たちは集まった。(国会前の参加者数は主催者発表で1万人)

 

 

 

「今回事件を起こしたのは一人の元兵士ではないか、なぜ沖縄の基地全体を問題にするのか?」

という人もいる。しかし、これは氷山の一角なのだ。発言者の一人、落合恵子が戦後、沖縄で軍人がウチナンチュに危害を加えた事件を10数件読み上げたが、これも一部である。

 

「けれども、アメリカ軍は日本を守ってくれているんでしょ?」

という人もいるだろう。しかし、沖縄に配置されている軍事力の多くは海兵隊だ。領土を守るのではなく、敵地に殴り込むための軍隊だ。彼らは毎日

"Kill, kill!(殺せ、殺せ!)"
と叫んで戦闘訓練を受けているという。アメリカは世界の警察官だというが、警察官として危険を冒すのはワシントンDCやニューヨークにいる指導者ではなく、こうして訓練を受けてきた兵士である。イラクでもアフガニスタンでも、アメリカ軍の介入によって平和が訪れただろうか?海兵隊員たちはそういう場所で危険を冒す。そのストレスが基地周辺の非戦闘員に向けられるのだ!

 

 

「みんなが納得いくように物事は進まないのだよ。」

という人がいる。だが、こういう人に日本は先進国だ、民主主義国家だと言って欲しくない。日本全体にある米軍基地のうち、面積にして75%が日本の人口1%しか住んでいない地域、日本の国土全体の0.6%にしか過ぎない地域に集中しているのだ。1945年に日本が連合軍に負けた時、沖縄は日本から切り離され、1972年まで米軍によって統治されてきた。沖縄への米軍基地集中はその負の遺産なのだ。

 日本を守るために米軍基地が必要なら、「本土」各地で米軍基地を受け入れるのが人の道ではないのか?

 

 沖縄の米軍基地問題を他人事にしてはならない。

 

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 昨年の夏、作家・太田治子という作家の講演を聴いた。「作家と戦争」というタイトルで開かれたこの講演で戦勝協力者だと批判していた作家の一人が太宰治だった。

 

 彼女の母親は太田静子。小説『斜陽』の材料を太宰に提供した女性だ。やがて静子は小説のヒロイン同様に作家の子を宿す。生まれてきた子供が治子だ。

 今でも不倫が起きれば女の当事者ばかりが世間から激しく非難される。戦後民主主義なんてどこにあるのだ?この母子も世間の白い目にさらされただろう。あの講演の時はそう思った。

 

 2016年6月15日付『東京新聞』夕刊で瀬戸内寂聴が治子のことを書いていた。寂聴にとって治子は何時間話しを聴いても飽きない相手だそうだ。太宰が妻でも静子でもない女性とともに命を絶ったのは治子がまだ乳飲み子のときのことだった。治子は母親から「太宰ちゃま」の話しを聞かされて育った。理不尽な目に遭っても卑屈にならないよう、静子は父親のことをしっかりと娘に語ったのだ。

 華族のお嬢様として生まれた彼女は成人して普通の結婚をしたのだが、最初の子は生後1ヶ月で世を去り、静子はまもなく離婚した。戦後、財産を失った静子は工場の賄い婦として生計を立て、治子を育て上げた。寂聴は母・静子にも取材した経験があるが、当時若かった娘の治子以上に少女を感じさせる人だったという。

 そういえば学生時代に『斜陽』を読んだとき、ヒロイン・かず子に対して私は惨めとか可哀想とかいった印象を持たなかった。それは太田静子が強い女だったからなのだ。

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 アメリカ大リーグ・マリーンズの外野手・イチローが2016年6月15日に快挙を成し遂げた。ピート=ローズの持つ大リーグ通算安打数の記録を抜いたのである。イチローの記録は日米通算であり、ローズの記録と単純比較はできない。しかし、数々の困難を乗り越え、選手として24年間活躍し続けたからこそ到達できた記録である。国籍や民族に関係なく、野球に関心があるすべての人に夢と希望を与える出来事だ。

 ところで安部総理、参議院議員選挙前にイチローへ国民栄誉賞授与なんて考えちゃいけませんよ。今はシーズン真っ只中なんですから。

 

 

 

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 宮沢賢治と彼のファンにとって、彼の弟が清六だったことは幸いなことだった。 

 宮沢清六は賢治の8歳下の弟である。賢治に代わり父の店を継いだ彼は、賢治の死後彼の作品を世に出す一端を担った。

 

 清六にとって賢治はどんな兄だっただろうか。店の仕事はせず理想論ばかりを唱える兄に清六は少なからぬ反感を覚えたのではないか。だが、人間の感情には豊かな襞(ひだ)がある。

 一昨年(2014年)に花巻を旅した時、宮沢賢治イーハトーブ館を訪れた。花巻市郊外の丘の頂上に有名な宮沢賢治記念館があるが、その少し下にある小さな博物館がイーハトーブ館だ。そのとき、イーハトーブ館では清六に焦点をあてた展覧会をやっていた。会場に二人の男が写った写真が掲げてあった。一人は背広姿。兄の賢治だ。もうひとりの男は軍服姿。彼が清六である。この写真は、清六の兵役中、青森県内の配属先へ賢治が面会に訪れた際撮られたものだという。兄弟は照れくさ気味の穏やかな表情で写真に収まっている。

 除隊後、清六は父の店を継いだ。かつて宮沢家は質屋を営んでいた。それを農民からの搾取だと賢治は反発していたのだが、やがて父・政次郎は金物屋に転業する。その店を清六は継いだ。1933年9月21日、賢治が38歳で世を去る。その前夜、賢治は自分の文芸作品に関する全てを弟・清六に託した、という。

 

 賢治の童話で、彼の存命中に出版されたのは『注文の多い料理店』の一篇だけだったという。賢治は自費出版でこの作品を世に出したが、本は売れず、賢治が出版社から本を買い取ったという。賢治の文芸作品のほとんどは彼の生前日の目を見ることはなかった。そして、清六にとって兄がタダの厄介者であったならば、作品の多くは世の人の眼に触れることなく灰となっていただろう。

 

 だが、清六は賢治にとって弟であるとともに理解者だった。承認であるとともに編集者でもあった。清六は賢治の音楽仲間だった藤原嘉藤治とともに原稿の整理を始めた。

 

 1945年8月10日、アメリカ空軍のB29が花巻の町を襲った。賢治と清六が生まれ育った家はこの夜に灰となった。このとき、清六は賢治が残した原稿をトランクに詰められるだけ詰めて庭にあった防空壕へ逃げた。清六がトランクを抱えて壕へ逃げ込んだのは壕の入口に届く間際だったという。清六は何を思って賢治の原稿を守ったのだろうか。

 

 命懸けで賢治の原稿を守った清六は戦後は賢治の紹介者として活躍することになる。清六が世を去ったのは2001年。兄とは違い、満97歳の長寿だった。

 

 私は1996年、賢治生誕100周年の年に花巻を訪ねた。空襲の際、宮沢家は焼けたがその隣の蔵は焼け残っていて、生誕100年の夏その家の人は蔵に昔の花巻の写真を飾って観光客に公開していた。

「体調のいい日は清六さん、ここに来るんですよ。」

とその家の人は話していた。

 

 

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 一昨年(2014年)のゴールデンウイーク、岩手県花巻市を訪ねた。

 花巻駅で列車を降りてから、駅近くの商店で自転車を借りてのんびりと漕ぎ出す。

 

 

 花巻市北側の郊外、花巻空港の近くに岩手県立花巻農業高等学校がある。この学校は宮沢賢治が勤務していた岩手県稗貫農学校(花巻農学校)の後身である。

 この学校に足を運ぶ観光客は私だけではない。この学校の構内には羅須地人協会の建物がある。賢治は農学校を辞めたあと、農家の後継者のための私塾を開くが、それが羅須地人協会である。現在この建物は賢治先生の家と呼ばれ、農業高校の施設として維持されている。賢治が晴耕雨読の生活を送った家の畳でしばらくくつろいだ。

 

  賢治先生の家の中には、賢治在職当時の花巻の様子を示す地図が掲示してあった。銀河鉄道のモデルとなった岩手軽便鉄道(現JR釜石線)の他、現在は廃止になっている花巻電鉄も記載されている。

 

 

 私がここを訪れた時、生徒たちは部活にいそしんでいたが私たちと顔を合わせると元気よく挨拶してくれた。

 この学校には地元の芸能を伝承する鹿踊り部もあって、囃子のパートと踊りのパートに分かれて稽古していた。この地域には他にも鹿踊り部のある高校がある。3年間そこで伝統芸能に打ち込んだおかげで地元での就職を決めることができた生徒もいるという。

 

 

 高校近くの川ではサギが魚とりをしていた。

 

 

 下の写真は宮沢賢治記念館から眺める花巻市街。この記念館は高台にある。この光景を眺めるためにえらい思いをして自転車を押した。 

 

 

 童話作家、教師、農民、技術者、宗教者、菜食主義者、ユートピア思想家…、宮沢賢治を表す言葉は様々である。賢治は質屋の跡取りとして生まれたが、質屋は農民から搾取する商売だとして父を非難していた。その一方で、賢治は現在の言葉で言えばニートとして暮らしていた時期も長い。彼の生涯には矛盾もあるし、失敗も数多くあるだろう。

 だが、それをひっくるめて私は賢治をもっと知りたい、と思っている。

 

 こちらは羅須地人協会の跡地である。羅須地人協会に使われた建物は、元々は宮沢家別宅として市街地の南のはずれ、現在の花巻市桜町に建てられたものである。建物は賢治の死後、人手にわたった後に、賢治ゆかりの学校に移築された。跡地は現在広場となっており、『雨ニモマケズ』の詩碑が建てられている。

 

 

 向こうに賢治が耕していた「下ノ畑」が見える。

 

 

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