Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 私は裏千家で茶道を習っている。習い始めて10年くらいか。
 先日、裏千家の先代の家元である千玄室のことをNHK Eテレで取り上げていて、稽古に行ったときそのことが話題になった。先代家元のことを流派内では大宗匠と呼ぶのだが、何人かの生徒が
「大宗匠の番組、観ます。」
と言っていた。しかし、私は彼の番組を観る気にはならなかった。
 
『NHKアカデミア』というE-テレの番組のサブタイトルは『千玄室 茶道と世界平和』。リモートで視聴者の質問に答えるコーナーもあったようだが、「世界平和」という言葉がむなしく思えた。
 
 何年か前、大宗匠が国連幹部にお茶を点てた、という新聞記事を読んだ。そのころ、国連の人権問題を扱う委員会で従軍慰安婦問題を取り上げていた。記事によると茶席で大宗匠はそのことに触れ、
「どうぞお手柔らかに。」
と言ったと書かれている。この人はこの問題を戦争で人生を奪われた人の問題ではなく国と国との問題としてとらえていないな、と思った。そういう人が「平和」を口にしても私は信じられないのだ。
 
 大宗匠は第二次世界大戦中は海軍にいた。特攻隊に志願しており、敗戦があと何日か後ならば出撃して散華(戦死)していた。彼のことを取り上げるとき、よく出てくる言葉が「特攻隊の生き残り」だ。
「先代家元は特攻隊の生き残りだから平和の尊さを分かっている。」
とネットで書いている人がいたが、特攻隊の生き残りの、戦後の生き方は様々だ。
 
 特攻隊の生き残りといえば、私の通っていた高校の先生にも特攻隊の生き残りがいた。
 1年生の時、理科Iの生物分野を教わった先生は定年後非常勤講師として私達を教えていた。ある時、始業のチャイムが鳴っても私たちが騒いでいると、
「君たちは明日戦争で死ぬとは思わないからそうやって騒いでいられるんだ。私の友達でだらしのない男がいたが、最期は笑って死んでいったぞ。君たちは彼のように死ねるか?」
と語って先生が私たちを叱ったことがあった。
 
 私が2年生の時、1986年4月29日に政府主催の大きなイベントがあった。「天皇陛下在位60周年記念式典」である。天皇陛下とは昭和天皇のことだ。たまたま家のテレビでこのイベントの中継の終わりの方を観ていたら、中曽根康弘首相(当時)が
「天皇陛下万歳!」
の音頭をとっていたのだが、これには気味悪さを感じた。後日、放課後用事があって学校の職員室へ行ったら生物の先生がほかの先生たちと雑談をしていて、中曽根の万歳に触れていた。先生もあの万歳には違和感を感じていた。先生に話しかけると、先生は式典自体にも違和感を感じたと語り、
「あの人はあの戦争に対して責任がある。だから『自分にはあの戦争に対して責任がある』と認めてほしい。」
と先生は私に語った。
 こういう話を書くと、その教師は日教組だから偏ったことを言うのだ、と思う人もいるだろう。私はこの先生が組合員だったかどうかは知らない。だが、あの先生に叱られたことのある者としては、彼の戦争や天皇に対する思いは、若い仲間が死んでいった、自分もその仲間と同じように死んだかもしれない、そういう思いから発したものだろう。
 戦後権威ある立場に就いた人の語る平和より、戦争で死んだ人のことを思って語る平和こそ私は信用する。
 
*****
 
 下の写真に写っているのは私の家にある茶道具だ。茶杓(ちゃしゃく)と茶筅(ちゃせん)は私が店で買った安物だが、茶碗は父方の祖母の遺品だ。
 祖母は経済的に恵まれた境遇に育ったのだろう。茶道や箏(こと)のたしなみはあった。だが、戦後の混乱期は違った。あのころは日本全体が貧しかったが、父の家はそれ以上に貧しかった。そして祖母がそのたしなみを披露することはなかった。祖母がどの流派で茶を習ったのかもわからないが、祖母の所有した茶道具はいくつか遺っているから私はたまにそれで茶を点てている。
 
 

 

 私が大学に入学した時、入学式はなかった。1970年前後の学園紛争のときから入学式は開催されなくなり、大学当局が入学式を復活させようとすると新左翼の学生が妨害活動をやるので入学式はやらない、というのが私のいた大学だった。

 だから大学生活はクラス(大学の教養課程にもクラスがあって、第二外国語の講義はクラスでまとまって受けていた)ごとに講義室に集まり、住所届や履修届の用紙などの書類を受け取ることから始まった。書類を受け取った後は2年生の先輩が開いてくれたコンパだった。桜どころか肌寒い日だったが、キャンパス近くの桜の名所で花見コンパである。向かいの席に女子学生が座って、話しかけてみたら学科は私と一緒だという。これは幸先良いぞ、と思ったが女子学生とは全く話が合わない。そのうちに彼女たちはさっさと帰ってしまったので面白くないから大手メーカーの焼酎を一気飲みしたら、気が付くとベッドの中だった。

 

 私は大学に入学するにあたり大学の寮に入った。幸い同じクラスに同じ寮の者がいて、焼酎を一気飲みしてゲロを吐いて潰れた私と一緒にタクシーで一緒に帰ってくれた。(タクシー代はコンパを開いた先輩が持ってくれたとのこと)寮のベッドに寝かされて、酔いがさめるまで私は

「○○子」

とうわごとを言っていたという。○○子とは私が高校卒業の時振られた同級生だ。

 

 私にとっては、あれが入学式だった。

 

 なぜ新左翼は入学式に反対したのか?

 彼らが配っていたビラには入学式はエリート意識注入の場だ、と書いてあったのを覚えている。

 確かに、エリート意識は不要だ。むしろ人と対等な関係を築くうえで邪魔なものだ。だが、入学式がなくても、周囲から優秀だとおだてられたりしているうちに、ついついそんな邪魔なものを身に着けてしまう。

 大学の知り合いで、社会的地位を得た者の投稿をSNSで読むことがあるが、努力しても生活に困窮している人を見下しているのを読むとうんざりする。

 

 なお、私の出身大学でも私が卒業した年度から入学式が復活した。

 

 入学式といえば、近畿大学の入学式で世耕弘成・参議院議員のが式辞を述べた、というのがニュースになっていた。世耕氏は学校法人近畿大学の理事長だが、政治資金パーティーの収入を政治資金収支報告書に記載していなかったとして問題になっている人物だ。心ある教職員や卒業生は彼が理事長職にいることに問題意識を感じ、彼に辞職を求める活動をしている。そんな彼が、これからこの大学で学ぼうとする若者に式辞を述べるのだ。

「変化の激しい社会で自分の立ち位置をしっかりと把握してもらい、立派な社会人として近畿大を巣立っていただきたい」

という言葉には虚しさしか感じない。

 

 下にシェアする映像では世耕氏の式辞以外にも入学式の映像を紹介しているが、この大学の卒業生であり音楽プロデューサーのつんく♂がプロデュースしているというと、この式は中身のないただ愉快ならばいい、というものに思える。

 

 つんく♂は癌で声帯を失った後も音楽活動をしていて、素晴らしいじゃないか、という人もいるだろう。しかし、スポーツだとかエンターテイメントで活躍している障碍者を素晴らしい、と言っている人で、身の回りの障碍者には冷淡な人は結構いる。

 これから大学で学ぶ人はそういうことに疑問を持ちながら専門知識を習得してほしい。

 

 

 

 

 

 川勝平太静岡県知事が入庁式訓示での職業差別発言を理由に辞意を表明した。このことについて川勝氏を擁護する気にはならない。しかし、これまでリニア新幹線の建設は川勝氏が抵抗して静岡県内での工事が始まらなかったせいであり、川勝氏がやめれば建設工事が進む、というような報道には違和感を覚える。

 

 川勝氏がリニア建設に反対したのは水資源の問題だ。計画ではリニア新幹線は南アルプスを貫く長大なトンネルで静岡県北端を通過する。このトンネルが地下水脈を遮り、県を南北に貫く大井川の水量を減らすのではないか、というのが川勝氏の指摘だが、リニア新幹線を建設するJR東海の説明には川勝氏だけでなく、多くの住民は納得していない。

 

 そもそもリニア新幹線はそのほとんどの区間がトンネルの中であり、南アルプストンネルの他にも長大なトンネルが地中深くに建設されることとなる。それらのトンネルの自然環境や沿線住民の生活環境への影響はどうなのか?

 幹線車両が空気抵抗に逆らって時速500kmで走るための電力はどうやってまかなうのか?

 

 こういった問題に対してはっきりとした説明がなければ私もリニア新幹線には反対だ。

 

 

 

こちらの写真は2022年5月に長野県飯田市内で行なわれたリニア新幹線反対デモ。(『中日新聞』Web版より引用)

2024年3月30日、東京・新宿でパレスチナ・ガザでの停戦を訴えるラッピングデモに参加した。3月30日はパレスチナ人にとっては「土地の日」という特別な日だ。1976年のこの日、パレスチナ人の土地を収用するイスラエル軍とパレスチナ人との間で衝突があり、6人のパレスチナ人が死亡した。その事件を記憶に遺す日だ。

 

 パレスチナ以外でも世界各地で戦争が行なわれているが、続けていい戦争なんて一つもない。土曜日、私も抗議行動に参加することにした。

 

 

 

 

  パレスチナ・イスラエル戦争に対する抗議行動はこの日世界各地で行なわれたが、東京・新宿で行なわれた行動を主催者は「新宿円周ラッピングデモ」と呼ぶ。新宿駅という巨大施設を取り囲む形で参加者がプラカードを持って立つ、そういう行動だ。私は東口のアルタ前広場でこの行動に参加した。

 午後2時から約1時間、さまざまな人がスピーチをした。停戦を求める決議を市議会で成立させた茨城県守谷市の市議会議員、飛び込みでマイクを握った学生…。

 私たちをあざ笑いながら通り過ぎる若者もいた。だが、私たちは平和をあきらめるわけにはいかない。

 

 

 東口での集会の後、私たちは南口へ集約して

「Free Palestine!」

を叫んだ。気が付くと集会にはいろいろな肌の人たちが集っていた。

 

白人男性たちが言い争うのも目にした。

1人の男性は柔道着の上衣を着ているのだが、その上衣の胸には小さなイスラエル国旗、背にはオリンピックイスラエル代表選手であることを表す「ISR」の文字を印刷した布が縫い付けられている。彼は停戦を求めにここへ来たのではなく、「イスラエル政府の立場」を主張しに来て、パレスチナ国旗やパレスチナの伝統的な柄の布を身に着けた男性たちと口論をしていたのだ。幸い彼らは暴力に訴えようとはしていない。そのうちに言い争っていた集団は集会の輪から離れていった。

 

 パレスチナ武装組織・ハマスはイスラエルを攻撃するにあたりイスラエルの民間人を人質に取った。このことが戦争の終結を難しくしている。

 イスラエル人の人質と、ガザの人びとの命の重さは等しい。

 だが、解ってほしい。ハマスとは無関係な子供たちを死に追いやっても人質問題は解決しないのだ。人質問題は交渉により解決しなければならない。

 

 

 今年は桜が咲くのが遅いなあ、と思いながら今日(2024年3月24日)、散歩をしていたら桜の花が咲いているのを見つけた。表通りの並木の桜はまだ蕾を固くしているが、個体差というか、この木はソメイヨシノとは違うのか、表通りから外れた場所でひっそりと花を咲かせている木があった。
 

 
 ここ近年は桜の咲くのが早くなった。私の住む東京都だと3月中に桜は満開となり、下手をすると4月の入学式のころには散ってしまう。今年は3月に入って寒い日が続いたおかげで「例年並み」になったのか。
 
 桜といえば、私が中学校で学んでいた時、年度初めのクラス集合写真の撮影は校庭のわきにある桜の木の前で行なわれた。写真が手元に残っていないのだが、確か1年、2年のとき撮った写真は満開の桜を背景にしたものだった。しかし3年の年度が始まるときに桜は咲いていなかったから、花の咲いていない桜の木の前で写真を撮った。この年は1984年。この年の冬は東京でも雪がよく降って何度も雪掻きをした。もちろん校庭にも雪が積もったからサッカー部員が懸命に雪掻きをした。この年は元号では昭和59年だったからこの年の雪は「五九豪雪」として記録に残った。
 あの時、学校の桜からちょっと離れた場所に梅の木があって、3年の集合写真のときには梅の方が満開だった。なんであっちで写真を撮らないんだろう、とその時思った。
 
 今まで生きてきて、もっとも私の心の残っているのは高校を卒業した春、東京の千鳥ヶ淵で観た桜だ。1年間学ぶことになった予備校の入学式が日本武道館で行なわれたので出席した。入学式が始まる前、近くの千鳥ヶ淵あたりをぶらぶらしながら満開の桜を眺めた。
 高校3年間、学校の勉強を舐めていたので浪人は当然の結果だった。卒業式の後、同級生の女の子に手紙を書いたのだが、「一流大学」に受かった彼女から
「浪人でしょ?変な手紙書いていないで英単語でも覚えていたら?」
という返事を受け取って、ようやく私は自分の立場を理解し、勉強して運命を切り開こう、と思った。そういう感性が鋭くとがった時の桜だった。
 
 人生を通じて桜を愛でることができるのは10回だけだ、という意味のことを言った戦国武将がいたそうだ。
 人生50年といわれた昔。ましてや戦乱の世では心にゆとりをもって花を眺める機会はどれだけあったか。
 それに比べ、平成令和の私たちは桜の花を飲み会の大義名分に利用しているだけなのかもしれない。
 
 
 さて、上の画は『源氏物語』を原作とした漫画『あさきゆめみし』(大和和紀・作)の一場面だ。若き光源氏は父帝の後添えである藤壺に恋をし、不義密通したのだがそのことは誰にも語れない。
 その藤壺が若くしてこの世を去った時、光源氏は
「ことしばかりは」
とつぶやく。
「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」
という古今和歌集に掲載された歌を踏まえてのことである。
漫画ではこの場面を満開の桜と、その下で独り泣く光源氏の姿で表現している。
 私は予備校生の時古文の勉強と息抜きのためこの漫画を読んだ。恋愛至上主義的者だった当時の私はこの見開きの画が大いに心にしみわたった。 
 今思うに、藤壺の幻影を追って女遍歴をつづけた光源氏の生涯を最も顕著に象徴した場面がこの場面だ。

 神戸大学のバトミントンサークルの部員が合宿のため宿泊した旅館で故意に障子を破り、天井を突き破ったりしてその写真をSNSに投稿した、というのが問題になっている。

 神戸大学といえば国立大学だ。問題を起こした学生の周囲には

「勉強ができる。」「頭がいい。」

と持ち上げる人も少なからずいただろう。そういうことがこの騒動とも関係あるような気がして嫌な気分になる。

 

 今回の事件とは関係ないが、「一流大生」が事件を起こしたというと2016年に東大の学生、大学院生が他大学の女子学生にわいせつ行為をはたらいた事件を思い出す。

 姫野カオルコがこの事件に取材して『彼女は頭が悪いから』(文芸春秋・刊)という小説を発表した時には東大の学生や教員から大きな反発があったという。反発した人たちはこの小説が東大全体を悪く言っているように受け止めたようだが、そんなことはない。この事件では5人が逮捕され、そのうち3人が起訴されて裁判で執行猶予付きの有罪判決を受けているが、彼らは東大生であるとともに他にもいろいろな要因が重なって事件を起こしたことがこの小説ではそういうことがちゃんと描かれている。

 また、事件を起こした学生たちが自分より低い学歴の者を見下すところは、東大生に限らず様々な属性の者に当てはまる。

 

 この小説で、東大生の一人が通学する電車の中で高校の同級生と会う場面がある。この学生の出身高校からは毎年多数の生徒が東大に進学するのだが、その同級生は東大生ではない。すると、その学生は京王井の頭線の駒場東大駅(東大生の1,2年生が学ぶ駒場キャンパスの最寄り駅)で降りるとき同級生に

「ここはお前の降りる駅じゃないね。」

と言う。この場面で私は自分の恥ずかしい言動を思い出した。

 

 私は一浪で東北大学理学部に進学した。進学が決まった時、友人の何人かに電話でそれを報告したのだが、その時私はある友人を怒らせたのだ。

 彼は早稲田大学を目指して勉強したのだが高校3年の本番では早稲田に落ち、明治大学の文系学部に進学していた。彼と話をしていて、そのことに触れた時彼は怒り、

「お前のその言葉を聞いて電話を切ろうと思った。」

と怒った。その時私は私立だとか文系だとかを低くみていて、その本音を出したことに彼は怒ったのだ。  

 私はすぐに謝った。そして、彼は私が高校を卒業するとき大失恋して浪人生活に入ったことを知っていたから、それに免じて私を許した。

 その時、大学のことを鼻にかけることはするまい、と思ったはずだが、大学に入って数か月の間は恥ずかしい言動をなんどもやっていたな、と今になって思う。

 

 私は大学を卒業した後、同じ東北大学の大学院に進学したのだが、そのころこんなことがあった。二人の同期生が結婚にはカネがかかる、という話をしていて、私はそれを横で聞いていたのだが、一人の男が

「バカ私立大の女と結婚するとカネがかかる。」

と言ったので、私は

「学歴や性別で差別するのか!?」

と怒った。その男は女性を差別し、自分より学歴が低い人を差別している。

私が怒ってもその男は気に留めない。もう一人の同期生が

「お前は嫌いな話だろうけど、世間体って大事なんだぞ。」

というのだが、彼は私が何に怒ったのかわかっていないようだった。

 「バカ私立大の…」といった男は明らかに女性を差別していた。そして、自分より学歴の低いものを莫迦にして優越感を満たす。彼と件の東大生の感性は大して変わらない。

「頭がいい。」

と持ち上げられて気分がよくなり、人の痛みには気づかずに年齢だけは大人になった者は気の毒だ。

 

 

 2011年3月11日、岩手県沖で発生した地震が東北や関東の大地を揺らし、地震に伴なって起きた津波は2万人近い人々を呑み込んだ。
 私は1989年から1999年にかけて仙台に住んでいた。震災が起きたのは私が仙台を離れておよそ10年経ってからだが、大地にとっての10年はまばたきのようなものだろう。
 地震と津波により福島県の太平洋岸にあった原子力発電所で大規模な放射能漏れが起き、多くの人が住む家を追われた。この原発事故により人生を大きく変えられた友もいる。
 
 今年(2024年)元旦、今度は能登で地震が起きた。今も多くの人たちが不自由な避難所暮らしをしている。
 能登半島には志賀原発があるが稼動していなかった。かつては半島の先端、珠洲市でも原発をつくる計画があったが、地元住民の反対運動のため建設には至らなかった。もしも志賀や珠洲で原発事故が起きていたら、今度は能登の人びとが大変なことになっていたかもしれない。
 
 3.11をわすれない。
 
 

 

 

 

 津軽鉄道のストーブ列車に乗った翌日、私はJR五能線に乗車した。五能線は秋田県の東能代駅から青森県の川部駅まで日本海の海岸線に沿って通じた鉄道路線で、東能代、川部のどちらの駅でもJR奥羽本線に接続する。

 夜の間にまた雪が降って、朝の五所川原は雪の町になっていた。滑って転ばないよう重心を低くして宿から駅まで歩く。

 

 

 私はこれまで五能線に3回乗り通した。これまでの3回はいずれも東能代で乗車して川部まで乗る、という旅だった。今回は川部から五能線に乗る。これまでの旅と違うといえば、これまで五能線に乗った時は国鉄時代に製造されたキハ40系ディーゼル車に乗ったが、今回はGV-E400系という最新鋭のディーゼル車だ。高度経済成長期に蒸気機関車を淘汰して動力を近代化するため製造されたディーゼル車両では液体式と呼ばれる制御方式が採用された。液体式の車輛では内部に粘性の高い油が入った液体変速機でエンジンの動力を車軸に伝える。一方、GV-E400系は電気式といって、ディーゼルエンジンで発電機を回し、発生した電力で電気モーターを回して走る。

 

 

 昨日乗った津軽鉄道の駅を横目に見て、五能線の列車は雪の五所川原を出発した。電気式ディーゼル車だと発進するときエンジンの他にモーターなどの電気系統も音を立てるのか、と思ったが聴こえるのはディーゼルエンジンの音だけである。

 

 

 列車が鯵ヶ沢駅へ近づくと鉛色の海が見えてきた。いよいよ日本海を眺めながらの旅が始まる。

 この駅で乗客の大半が降りた。残ったのは数名の鉄ちゃんらしい乗客だけである。ここから先は快速運転だ。停車するのは深浦や能代といった比較的周辺人口が多い駅の他に千畳敷、十二湖といった観光客の利用がありそうなところだ。

 

 

 奇岩の並ぶ海岸線のそばを列車は走る。この路線に限ったことではないが、風光明媚なところというのは得てして人が住むには厳しいところで人口は少ない。ましてや過疎化少子化で余計に公共交通の利用者は減る。

 今回私が乗った列車もこの冬は平日は鰺ヶ沢から先が運休だ。昼間に列車を運休にして、その間に線路の枕木を交換する、ということなのだがそれだけ地元の人の利用が減っているのだ。

 列車が南へ進み、深浦駅あたりになると五所川原を出るとき積もっていた雪は無くなっていた。海の色も冬の鉛色から春の青色に変化しつつある。そういうのを眺めていたら

 

 ♪春色の汽車に乗って海へ連れて行ってよ

 

 という出だしの歌謡曲が頭に響いた。1982年に松田聖子が歌った『赤いスイートピー』だ。

 

 

 この歌が流行したのは私が小学校卒業を控えた時。松田聖子に関心はなかったがこの歌はいいな、と思った。いまでもそう思う。車の助手席よりも汽車やバスで好きな人と出かける方が一緒の時間を楽しめる、と思う女性だっているだろう。

「車を持たない男は女の子にもてない。」

青年期の私が何度も聞かされたことだ。だが、すべての女性が車を持つ男としか付き合わない、というのは社会の表層だけをみて現実を知った気になる者が言うことだ。

 

 五能線の旅を初めて2時間余り。遠くに風力発電所の大きな風車がみえて、ドン・キホーテにはあれが何に見えるだろうかと思ったら列車は能代駅到着。次の東能代駅で奥羽本線の各駅停車に乗り換えだ。

 

 奥羽本線の弘前行きに乗って、今度は鷹ノ巣駅で降りる。今度は秋田内陸縦貫鉄道に乗る。海の阿房列車の次は山の阿房列車だ。

 

 

 秋田内陸縦貫鉄道は鷹巣駅と角館駅を、文字通り秋田県を縦貫するように結ぶ路線だ。鷹巣駅ではJR奥羽本線に、角館駅ではJR田沢湖線(秋田新幹線)に接続する。この路線は、国鉄赤字ローカル線として廃止対象になっていた阿仁合線と角館線を第三セクターが引き継ぐことで1986年に開業した。

 私がこの路線に前回乗ったのは1989年夏、比立内駅と松葉駅の間の未開業区間が開業して文字通り内陸縦貫鉄道となって間もなくのことだ。

 あの頃は第二次世界大戦の体験者で健在の人がまだ多かった。どうしてそういう話を聞くことになったのか覚えていないが、あの時私は鷹巣から阿仁合まで同じボックスに座った高齢男性から戦争体験を聴いた。

 男性は中国大陸に出征し、戦後はシベリアに抑留となった。

「シベリアの冬は寒いというより痛かった。」

と男性が言ったことを今も覚えている。厳しい強制労働に耐えて故郷に戻ってきたら、今度は警察官が家に尋ねてきて、共産主義思想に染まっていないかと聞かれたのがつらかったという。収容所で生き延びるにはスターリン独裁体制に順応するしかなかっただろう。それが今度はGHQによる赤狩りである。

 

 あの時、途中の交換駅ですれ違った急行列車に若い女性車掌が乗務していた。その女性車掌の一人が翌年1990年に運転士免許を取得した。現在では大都市圏の通勤路線でも女性の鉄道運転士は珍しくないが、その第一号はローカル線の運転士だった。

 

 

 

 初の女性運転士のニュースは当時一般紙でも大きく取り上げられた。初の女性運転士は秋田美人だ、とも報道されたが、こうやって「女性初」だと取り上げるのは女性差別の裏返しである。何年か後に立ち読みした鉄道雑誌の短信記事で、この女性が結婚退職したことを知った。「女性初の鉄道運転士」として世間に注目されることに彼女は重圧を感じていた、と記事には書かれていた。

 このブログを書くため、検索したところ、2021年に『毎日新聞』に掲載された記事を見つけた。この記事によると現在彼女は地元の社会福祉協議会で働いているという。

 

 今回の旅行で、私はこの路線の阿仁合駅で途中下車した。

 この駅の所在地は秋田県北秋田市阿仁銀山。ここはかつて鉱山で栄えた町だ。

 

 

 阿仁合駅で降りて、まずイベント会場への無料シャトルバスにのって公民館へ行く。私がここを訪れたのは2月24日。翌週末は桃の節句ということで公民館では数多くのひな人形が飾られていた。

 

 ここを訪れて、この鉱山町に平賀源内が来たことがあるのを知った。平賀源内は江戸後期の文人であり科学者だ。鉱山での仕事の経験もある彼は当時秋田藩が経営していたこの地の銅山の技術指導のためここを訪れた。この頃、イギリスでは産業革命が始まり、ジェームズ・ワットが蒸気機関の事業を立ち上げていた。

 平賀源内とかかわりのある人物で、角館出身の秋田藩士・小田野直武がいる。彼は絵の才能があり、杉田玄白と前野良沢がオランダの解剖学書を翻訳して出版した際、その図版を彼が作成した。

 秋田の山間部の町に来て、日本の江戸時代の科学史を知りたくなった。

 

 阿仁合駅の周辺には明治初年にこの地によばれたドイツ人鉱山技師の住居として用いられた洋館もあれば、寺もある。狭い地域にいろいろな宗派の寺が建っているところは島根県の石見銀山と似ている。様々な事情を抱えた鉱山労働者が仕事の安全を祈ったり、鉱山事故や塵肺のような職業病で逝った身内を弔ったりしたのだろう。

 

 

 2時間ほど鉱山町に滞在して、再び秋田内陸縦貫鉄道の客となる。今度は転換クロスシートを備えた急行列車だ。

 線路際を川が流れている。列車が長いトンネルに入ったと思うと、やがて列車のエンジン音が静かになった。列車が下り勾配にかかり、終点角館駅に近づいた。今回の乗り鉄の旅も終わりだ。

 

 翌日は角館の武家屋敷街を歩き、稲庭うどんを食べ、秋田新幹線で帰途に就いた。

 そこは「昭和」の駅だった。

 

 

 青森県は五所川原でJR五能線の列車を降り、宿に荷物を置いて津軽鉄道津軽五所川原駅のホームに立つと、そこには昔国鉄で走っていた客車が停まっていた。かつて鉄路を走っていたのは電車ではなく、機関車が客車や貨車を牽く汽車だった。客車の乗降扉は手動だ。この手動扉のおかげで昔は動きかけた汽車に飛び乗るという芸当もできたが、走る汽車から乗客が転落する、という事故もあった。鉄道ファンが「旧型客車」と呼ぶこのタイプの車輛は昭和50年代に急速に淘汰された。私の少年時代のことだ。東京で自動ドアの電車を当たり前だと思って育った私は「昭和」の人間ではあっても旧型客車の思い出はない。

 人は古臭い、きれいじゃない、という旧型客車に私は憧れる。そして今日私は津軽鉄道のストーブ列車の客となった。

 木製の内装をニスで仕上げた車内に入ると、だるまストーブが熱を放っていた。真冬には地吹雪が襲うこの地では、汽車の車内にだるまストーブが据えられていた。津軽鉄道は日本のクルマ社会化が進む昭和30,40年代、大掛かりな近代化を行なうことなく廃止をまぬかれ生き延びてきた。現在この鉄道でも地元客の通勤通学輸送は「時代に合った」ディーゼル車で行なわれているが、古き良きストーブ列車が今では観光客を楽しませている。

 ストーブ列車は地元客のためのディーゼル車と併結して冬季(12月~翌年3月)に運行され、普通運賃に加えてストーブ列車料金500円を支払うことで乗車できる。車内では観光アテンダントが観光案内をしたり、飲み物を売ったり、車内で乗客が買ったスルメをストーブで焼いたりしてくれる。

 

 

 

 

 津軽鉄道の終点は津軽中里駅だが、私は途中の芦野公園駅で下車する。

 ここは太宰治の紀行文『津軽』で有名なった駅だ。太宰が帰省した当時の駅舎は現在カフェとして利用されている。そう、この駅がある金木の町は作家・太宰治の故郷だ。

 

 

 一駅手前の金木駅に向かって歩くと斜陽館がある。ここは太宰治こと津島修治が生まれてから青森中学校へ進学するため故郷を離れるまで過ごした家だ。

 太宰は1909年、この土地の地主の六男としてこの地に生まれた。「金木の殿様」と呼ばれた津島家は第二次世界大戦後の農地改革により土地を失って没落し、屋敷は人手にわたった。現在太宰の博物館となっているこの屋敷は彼が没落華族の女性を主人公にして書いた小説から名を採って「斜陽館」と呼ばれる。

 

 私にとって太宰治は嫌いだが気になる作家だ。いや、白状すると高校生の頃は彼に酔っていた。

「生まれてすみません。」

という『人間失格』の有名なフレーズに酔った。だが、大人になる過程でいろいろ挫折を味わってみるとあの台詞は自分は偉いと思い込んだ者の自惚れから出た言葉だと分かる。

 地主の子として生まれた彼は、自分の家が小作人から搾取していることに罪の意識を感じていた、というがその家に甘え続けていたのが太宰ではないか。心中事件を起こし、相手の女性を死なせても、政治力のある長兄にかばわれて刑事責任を問われることはなかった。プロレタリア文学に傾倒した時期もあったが単に流行に乗っただけだろう。『斜陽』の主人公のモデルとなった女性との間に娘が生まれたが、もちろん娘は婚外子である。この母子はどれだけ苦労したことか。最期、太宰は妻でない女性とともに玉川上水に身を投げたが、彼は女性と心中したのではなく女性により道連れにされたとも言われている。しかし、女性が自死を決意する原因をつくったのは太宰だ。

 太宰が嫌いな理由はいくらでもあるが、私もまた弱い人間だ。そういうわけで私は太宰が気になる。

 

 

 斜陽館の近くには雲祥寺という寺がある。ここは太宰が幼いころ、小森の女性によく連れてこられた寺だ。幼い太宰が観た地獄絵図は今も本堂にあり、誰でも観ることができる。

 

 次のストーブ列車までまだ時間があったので太宰にゆかりのあるもう一つの建物を訪れた。度重なる戦災で焼け出された太宰が金木に疎開した時に過ごした家・旧津島家新座敷は斜陽館と金木駅の中間地点にある。この建物はもともと津島家の離れとして建てられた家だが、農地改革後は屋敷を手放した太宰の親族の住居として現在の場所に移築されたものである。

 太宰は敗戦の翌年までこの新座敷で暮らし、ここで『トカトントン』、『女生徒』などを世に出した。

 

 

 またストーブ列車がやってきた。通常、この列車は機関車の後にストーブ列車用の客車と地元利用者用のディーゼル車「走れメロス号」が連なるのだが、この日は機関車が整備のため走れない、ということで機関車代用の走れメロス2両が客車を牽いた。

 

 

 この後私は終点の津軽中里駅までストーブ列車に乗った後、折り返しのストーブ列車に乗って五所川原駅まで戻った。

 普段は休日でも明るいうちから酒を呑むことはないが、ストーブ列車に乗るときは特別だ。観光アテンダントがワゴンで酒類を売っていたので日本酒を買って呑んだ。ここ津軽でも暖冬のため近年はめったに雪が積もらないという。それでも前日積もった雪が車窓に広がる。金木で香港からの団体がストーブ列車に乗り込んできた。同じボックスに座った香港人に、車窓を指さして

「You are lucky!」

と私は言った。 

 

 

 

 

追記

 この日私は五所川原駅近くの宿に泊まった。宿の近くの居酒屋の店内で、『なごり雪』という歌が流れているのを聴いた。上野駅地平ホームと思われる場所での別れの情景を描いたこの歌。中学生のとき好きだったひとが何かのお楽しみ会で歌ったのが心に残っている。

 

 

(海山阿房列車に続く)

 

 

 国旗国歌法で日本国の国歌とされている『君が代』は私が小学校低学年のとき父から教わった。

 父と『君が代』というとこんなこともあった。私が小学校高学年のときだったか、休みの日に家でのんびりしていたら、『君が代』を変な節で歌って、最後の「苔のむすまで」のあと「ヘイ!」を付けて変な国歌を歌い終えた後

「『君が代』をこんな変な歌にして歌った先生がいるけれどもいけないことだ。」

と言った。

 

 その変な節が戦後混乱期に流行した『東京ブギウギ』の節だと私が知ったのは1991年のことだ。

 

 

 1987年に昭和天皇が癌の手術を受けて、彼の病状が盛んにメディア取り上げられる。それから1989年に彼が他界し、天皇の代替わりがあって翌1990年秋に平成の天皇の即位儀式が行なわれた。今思えばこういう流れの中で日本社会は右傾化していった。そういう中で学校行事での国旗掲揚、国歌斉唱を義務化するべきだと政界財界の指導者たちが主張するようになってメディアでもそれに関する議論が取り上げられた。

 そんなころ、『週刊朝日』で小田実と西部邁が行なった討論を掲載しているのを私は読んだ。買って読んだ覚えはない。大学の図書館で読んだのか。

 

 そこで義務化すべしと主張した西部が取り上げたのが件(くだん)の先生。

 福岡県立高校の音楽教師だったそうで、卒業式の「国歌斉唱」のとき『東京ブギウギ』を弾いて『君が代』を歌ったのだそうだ。その教師が歌った歌詞には「苔のむすまで」の後にも続きがあって「天ちゃん」なんて言葉も出てきた。

 この教師は卒業式の後学校を去り、ジャズピアニストに転じたそうなのだが、西部は辛辣な口調で

「そっちのが似合っている。」

という。この東大出の先生はよほどジャズがお嫌いらしい。

 

 さて、私の話に戻るが、父の教えもあり、天皇は敬うべし、国旗国歌も敬うべし、と思って思春期を過ごした。友達と一緒に西武ライオンズ球場へプロ野球の試合を観に行き、試合開始前の国歌演奏の時私一人だけ起立して皆からからかわれたこともあった。

 そういえば1976年に東京の公立小学校へ入学し、1988年に都立の高等学校を卒業するまで、国歌と言えば小学校の卒業式の時レコードでメロディを演奏したのを聴いただけだった。

 あの頃は、なぜ卒業式で国歌を歌わないのか、と思った。

 

 あの頃の私は右寄りだった、というよりも右左どちらにも転ぶ可能性のある子供だった。しかし、1937年生まれの父は天皇に敬意を持つべき、と私に教える一方で、病弱の身で遭遇した東京大空襲の話や、国民学校で天皇の「御真影」に礼をさせられたがあれは意味のないことだという話もしてくれた。そのおかげで私 は右へ転がることはなかった。

 

 私が変わりだしたのは高校生のときだろうか。あの頃は先生でも生徒でも親しくなった人には天皇制反対だった。彼らの意見に反論しようと新聞だとか本だとか読んでみると、あちら側の意見がもっともだと思うことが多かった。

 高校2年から3年に進級するとき、国鉄分割民営化があった。日本国有鉄道に代わって鉄道を運行する株式会社を一括りにして言う言葉が「JR 」という横文字だった。

 国民に国を愛せと言いたがるお偉いさんは、実は日本の文化を粗末にしている。そんなことを考えた。

 

 そんなこんなで大学に進学してからは国旗、国歌強要反対、と私は思うようになった。

 

 

 

 『君が代』の"君"は"あなた"という意味なのだから、目くじらを立てて反対することはないじゃないの?」

という人もいる。『君が代』はもともとは『新古今和歌集』に掲載された読み人知らずの歌だが、この歌と同じ部に掲載された歌と比較してみたところ『君が代』の「君」は読み人が敬愛する人であり、天皇のような君主とは限らない、というのが文学研究者の解釈だ。

 しかし、為政者は時として読み人の思いとは異なる解釈を庶民に強要する。

 上に貼り付けたのはFacebookで拾った写真だが、これは昭和18年に発行された国民学校の修身教科書の『君が代』に関する記述だ。

「この歌は『天皇陛下の治める時代は千年も萬年もつづいておさかえになりますように』という意味」と第二次世界大戦中の子供たちは『君が代』の意味を教わった。

 今の為政者も天皇の威を借りて国民を操りたいから、私たちに『君が代』を歌わせようとする。

 彼らはそのために『君が代』を利用するのだ。