Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。


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 何とはなしにふなっしーの動画をユーチューブで観ていたら彼が旅行会社の宣伝をしている動画があった。

 

 この動画、千葉県船橋市の梨の妖精であるふなっしーがインドネシアのバリ島に行って(#)日本語のわかるスタッフに頼りながら観光をする、というストーリーである。

 

 動画のはじめから1分30秒あたりでマイクロバスが画面に映る。観光客向けの快適そうな車両だが車体に緑色の線で何か描いてある。私も幼い頃クレヨンでこんなもの描いたな。「カメカー」なんていって。ロゴは"KURA KURA BUS"。クラクラバスなんて名前、日本の乗合自動車には付けられんなあ、それにしてもKURA KURAなんてどっかで聞いたことがあるな、と思ったら私が書いているブログの名前が"Kura-Kura Pagong"だった。kura kuraとはインドネシア語やマレー語で亀を指す言葉である。そうだ、これは亀バスなのだ。($)

 

 インターネットで検索したらば、やはりこのクラクラバスはホテル街と主要観光地を結ぶ観光客向けの路線バスだった。どうぞごゆっくりお過ごし下さい、ということでクラクラなのである。

 

 動画では2分30秒あたりで亀のキャラが登場する。ふなっしーによると彼はクラもんというそうだ。ハリウッドの忍者亀のパクリにも思えるがこれはご愛嬌。

 

# 梨の妖精であるふなっしーが海外へ行く時、空港で通るのは入国管理局でなく検疫所である。

 

$ インドネシアの公用語はインドネシア語だが、他にも多数の言葉がこの国では通用している。バリ島の言葉はバリ語だが、役所で使われるのはインドネシア語となる。なお、インドネシアは最大のイスラム教国といわれているが、バリ島の住民はヒンズー教徒が多数を占める。

 

 

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 JR北海道が利用の少ない路線の廃止を示唆する発表をしている。その中に石勝線(#)の新夕張ー夕張間(16.1 km)も含まれているのだが、地元夕張市は逆にJRへこの路線の廃止を提案している。そういうわけでこの路線が近い将来廃止される可能性は高い。

 

 廃止されそうになっている路線は、もともとは夕張炭鉱の石炭を輸送するため北海道炭鉱鉄道という民間会社が明治の半ばに開業させた路線の一部だ。その後、この路線は国有化されて夕張線と呼ばれるようになった。1980年代に入り、道央と道東をショートカットする石勝線が開業した。このとき、夕張線のうち、室蘭本線追分駅から分岐して紅葉山駅(現新夕張駅)に至る区間が新しくできた幹線の一部となり、夕張駅までの区間は石勝線の「支線」として扱われることとなった。

 

 私が夕張駅を訪ねたのは国鉄分割民営化が間近となった1987年3月末のことだ。当時は夕張駅から2つ手前の清水沢駅から私鉄の三菱石炭鉱業大夕張鉄道線(1987年7月廃止)が分岐していたのだが、廃止間近となっていたこの線に乗るついでに私は夕張駅を訪れた。

 夕張炭鉱はすでに閉山となり、当然石炭列車の運行もなくなっていた。そして夕張炭鉱の坑口近くにあった夕張駅は新夕張側に移設され、貨車の車体を改造した待合室がホームの上に設けられた簡素なものとなっていた。列車を降りた私はかつての炭鉱施設跡地に建てられた博物館を目指した。

 夕張には石炭歴史博物館を核として、いつくか炭鉱関連の博物館があった。なかには夕張鉄道線(国鉄夕張線とは別の私鉄線。1975年廃止)や三菱大夕張鉄道線で使われていた蒸気機関車を展示するSL館もあったので是非ともそこを観たいと思った。だが、石炭歴史博物館は年中開館していてもSL館はゴールウイークまでは休館だという。北海道の観光施設にはよくあることだが、当時ガキだった私は

「僕は遠くからから来ているんです。何とか観せてもらえませんか?」

などと石炭歴史博物館の受付でわがままを言った。そうしたら受付の人は内線電話で事務室と連絡を取ってくれた。そして石炭歴史博物館を観たあとにSL館を観せてもらえることになった。

 夕張は北海道の内陸だから雪が深いのだが、春が近づくのに合わせて休館中の博物館の周りでも徐々に除雪が進められていた。私が訪れた時は車でSL館に行けるようになっていた、ということで職員さんの車で私はそこへ連れて行ってもらった。

 SL館では国鉄の9600型と同じ設計の蒸気機関車が力強い姿のまま展示されていた。機関車の他に客車も展示されていて、中には車掌や乗客のマネキンが置かれていた。

 憧れていた機関車を眺めて、職員さんに入館料を払おうとしたら、

「今度、開館中に来たときお金を払ってください。」

と言われた。だからいつかまたここを訪れようと思っていたのだが、現在このSL館は閉鎖されていてボランティアが保存車両の管理をしているという。

 

 博物館の見学を終えて、途中旧炭鉱町の大衆食堂で昼食を摂って夕張駅へ戻った。谷間の狭い土地にひしめくように建てられ、そして時を経て煤けた商店などの建物群。私は炭鉱と聞くとあの夕張の町の風景を思い出す。

 

 駅に戻って、貨車転用の待合室に設けられたベンチで休んだ。カバンの中にあった漫画本を読みながら列車を待った。当時ハッピーエンドが間近だった恋愛長編漫画『めぞん一刻』の一コマが強く印象に残っている。

 やがて、2両連結のキハがゆっくりと駅にやってきた。

 

 

  ************

 

 下に貼り付けたのは『ゴールデンカムイ』(野田サトル・作、集英社・刊)8巻の一場面である。この漫画は明治末の北海道を舞台にしたアクション漫画なのだが、8巻では夕張で話が展開する。このページの下のコマには鉄道駅が谷間に描かれているが、背後には鉱山施設らしい建物も描かれているし、おそらくこれは当時の夕張駅なのだろう。

 

 

 

 

# 石勝線の「本線」である南千歳ー新得間(132.4 km)は札幌と帯広や釧路を結ぶ特急列車の他、貨物列車も運行される動脈なのだが、台風10号により被害を受け、不通となっている。(2016年9月24日現在)このため、道東地方で秋に収穫された農作物が出荷できないなど、北海道の経済に重大な影響を与えている。

 

 

 

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 中学生の時映画の『瀬戸内少年野球団』を観た。伝説のアイドルとなった夏目雅子の最後の出演映画である。一人だとか仲間と一緒だとかではこんな映画は観なかった。何の用事だったか忘れたが夏休み中に両親と3人ででかけて、そのついでに観たのが彼女の映画だった。

 

 この映画で夏目雅子も第二のヒロイン・武女(むめ)を演じていた佐倉しおりも出ていないこんなシーンが妙に印象に残っている。

 

 敗戦となってまもなく物語の舞台である淡路島にも米兵が駐留するようになる。そうすると米兵のベッドの相手をするパンパンと呼ばれる女性も島に現れた。

 そんなある日、原色のワンピースを着た女たちが岸壁の近くで談笑していた。それを見ていた少年たちの一人が言う。

「パンパンが3人で三パンパンや!」

そうすると仲間たちがどっと笑う。怒った女たちが少年たちを追いかける。そうして足の遅い仲間が捕まった!

 事件が起きた時、主人公・竜太は家にいたのだが少年たちを代表して捕虜返還交渉を行なう。敵の出した返還の条件はこうだった。

「海に向かっておしっこしな!」

彼女たちは妥協しなかった。そして少年たちは情けない顔をして太陽の下、便器も壁もないところに向かって小便をすることになる。少年たちは思春期だ。人前でちんちんを出すのは恥ずかしい。

 人は意外なところで意外なことを思い出すことがある。私がこの映画のこのシーンを思い出したのは雑誌で従軍慰安婦問題の記事を読んでいた時だった。

 戦争によって人生を狂わされたおばあさんたちに対して

「カネ目当ての売春婦。」

と嘲笑い、罵る人たちがいる。そんな人たちは同胞の女性たちにも心無い言葉を浴びせるのではないか。戦争がなければ彼女は普通に家庭を営んでいたかもしれないのに。そうはしなくとも

「あのときは仕方なかった。」

と切り捨てるのではないか。

 そう思ったとき、あのときのパンパンたちの気持ちはそういうことなのか、と思った。

 

 さて、夏目雅子が演じた駒子先生を武井咲が演じて、『瀬戸内~』が先日リメークされた。あの時の映画と今回のテレビドラマとでは多少ストーリーが違う。海軍提督であった武女の父は映画では戦犯としてシンガポールへ連行されて処刑されるのだが、今回は起訴されなかった。あの岸壁のシーンも今回はなかった。

 

 かわりに戦死や兵役にまつわるシーンがあった。

 

 まだ戦争が続くと思われていた時のことだ。竜太の級友・三郎の兄が兵役検査の前の晩、醤油をガバ飲みする。醤油を飲んで腎機能が低下すれば徴兵を免れて生き延びることができる、と思ってのことだ。

 

 竜太の父は戦地に赴いて戦死した。そして父の遺骨が還ってくるのだが、木箱を開けると中に入っていたのは遺骨ではなく遺品の歯ブラシだった。

「お父ちゃんが歯ブラシになってしもうた。」

と竜太は叫ぶ。

 このシーンである戦争体験者の話を思い出した。その人は「支那」に出征していたのだが、衛生兵だったので戦死者の遺骨の世話もしていたという。一度に戦死者が何人も出たときは、遺体の右手を切断して集めて火葬したという。火葬した遺骨は均等に分けて木箱に納めて御国へ送った。右手以外の部分はまとめて戦地で土葬だろう。戦闘が激しい時はそれしかやりようがなかったのだ。だから木箱に遺骨が入っていても、それが家族の骨とは限らなかったということになる。

 こうやって無念の死を遂げた人たちを英霊と持ち上げて利用するなんてとんでもないことだ、と思う。

 

 

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 首都圏には私立学校が数多くあるが、そういう学校が何校か共同で通勤電車に広告を出している。

 

 何年か前、二人の若者がそういう広告を眺めて話をしているのを見かけたことがある。

「『ペンは剣より強し。』って何だ?」

 

 彼らが見ていたのは東京都荒川区にある開成中学高等学校の広告だった。この学校の校章は羽根ペンと西洋式の剣が交差している図柄で、校訓は

「ペンは剣より強し。」

である。広告にはその校訓が校章の下に大きく書かれていた。

 

 

 

 開成といえば、毎年多数の卒業生を東京大学へ送り出している有名な学校である。同校のホームページによると2016年度は171名が東大の入学試験に合格している。そんな「頭のいい」学校の言うことは分からないな、というのが二人の感想のようだった。一人が言った。

「このマークだとペンと剣が同じ大きさだからさ、これだとペンでも剣に勝てるんじゃないの?」

 

 この言葉は19世紀に作家・エドワード・ブルワー=リットンが劇の台本で使った言葉だそうだ。あの時代からマスメディアは大いに発達した。だが、今のマスメディアはカネや権力のある人たちの顔色ばかり伺っている。あの若者たちに、

「いや、この言葉は真実なんだ。」

と言っても説得力はない。

 

 ところで、開成高校は校訓をどれだけ教育に生かしているだろうか?おそらく大学入試の「役に立つ」ことばかりで、先生たちの頭の中に校訓はこれっぽっちも入っていないだろう。そういえば、私の知り合いにも開成高校出身の者がいるが、彼は「長いものには巻かれろ。」という価値観の持ち主だった。

 

 さて、上の写真は2014年に撮ったものだが、この広告には目立たないように原典の英語"The pen is mighter than the sword."は記されていてもあの若者の会話の時にように日本語で目立つようには記されていない。この学校は「現実に合わせて」広告を作り直したのだろうか…。

 

 

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「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格している。」

 石原慎太郎氏が都知事だった時、こんな発言をしているのだが、この話を読んで私はガロアという男を思い出した。

 

 数学に群論という分野がある。高校の数学の授業で行列式を習うが、あれは群論の入口である。群論はものつくりの様々な分野で設計などに応用されている。私は大学で化学を学んだのだが、化合物の性質を理論計算により見積もる分子軌道法を量子化学の講義で学んだ時、3行3列や4行4列の行列式の計算を大変な思いでやった。仲間のなかにはスラスラと行列式の計算をこなす者もいて、そういう者は量子化学をよく理解していた。「数学ができる人」で私が連想するのは「行列式を解ける人」である。

 群論は現代の私たちの生活に大きく関わっている学問だが、ともかく難しい。ガロアはその群論の基礎となる研究を行った人物である。

 

 1811年10月25日、エヴァリスト=ガロアはパリ郊外のブール=ラ=レーヌに生まれた。当時のフランスはナポレオンの天下だったが、彼は1814年に失脚。その後ルイ16世の弟がルイ18世として王位に就く。さらにその後ナポレオンが帝位にかえり咲くが百日天下に終わり、再び18世が王位に復帰して第二復古王政が1815年に始まるのだが、ガロアが生きた時代はこういう激動の時代だった。

 

 数学に関して素晴らしい才能を持った彼は情熱家でもあった。ガロアは理工科学校の受験に失敗しているのだが、それは口述試験で試験官にくだらない質問をされたと感じた彼が試験官に黒板消しを投げつけたからだ、とも言われている。この話の真偽は分からないが、激しい性格のせいで数学者として活躍する場所を狭めたことは確かだろう。

 

 ガロアが思春期を迎えた頃、フランスは階級社会に不満を持つ者が少なくなかった。ガロアもまた、社会体制に不満を持ち、自由に憧れて共和主義活動に身を投じることとなる。

 

 1832年5月29日深夜、ガロアは決闘により深手を負い、31日に短い生を終えた。決闘はひとりの女性をめぐるものだと言われているが、治安当局により仕向けられたものだともいわれている。この決闘前、ガロアは友人のオーギュスト=シャビリエに手紙を認めているのだが、「僕には時間がない。」という言葉とともにこの手紙には数学に関する重要な着想も記されていた。「20年の生涯で80年分の仕事をした。」と彼を評価する数学者もいる。

 

 日本の大学に提出される理工系の博士論文は英語で執筆されたものが多いが、私が学生だった90年代だと数学に限ってはフランス語で執筆されたものも多かった。デカルト、フェルマー、フーリエ…、ガロアの他にもフランスは多くの数学者を輩出している。おそらく石原氏はこういうことは知らないだろう。

 

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 学生の時『よだかの星』、『グスコーブドリの伝記』の朗読劇を観て宮沢賢治に惹かれた。

「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

という彼の言葉に酔いしれた。

 

 だが、歳を重ねるうちに気が付いた。

「『世界ぜんたいが~』という言葉は全体主義者が使う言葉ではないか!?」

 

 宮沢賢治が法華経に帰依していたことは有名な話だ。法華経を教えの基本に据えている宗教団体としては日蓮宗や日蓮正宗もあれば創価学会もある。賢治が入信していた団体は国柱会だ。国柱会といえば日本と中国の戦争のきっかけとなった柳条湖事件の首謀者である石原莞爾も入信していた団体である。

 そんなこともあって、賢治研究者は彼の法華経信仰は詳しく取り上げても国柱会のことは取り上げたがらない。一方、『宮澤賢治殺人事件』(文春文庫)の著者・吉田司はこの問題について深く突っ込んでいく。

 第2次世界大戦中、日本で掲げられたスローガンに「八紘一宇」という言葉があるが、これは国柱会の設立者・田中智学の造語である。国柱会は日本の天皇を頂点とした世界の霊的統一を標榜していた。賢治の「世界ぜんたいが~」という言葉と通じる言葉も田中智学が説いた教えのなかにあるという。

  賢治は肺結核を病んで1933年(昭和8年)に世を去った。柳条湖事件の翌々年、「満州」建国の翌年のことだった。そんな彼が日本の大陸侵略に加担することはなかった。だが、『グスコーブドリの伝記』は「ブドリは御国のために命を捧げました。」という解釈もできる作品だ。神風特攻隊で散華(戦死)した若者の中には遺書の中で『雨ニモマケズ』に言及していた人もいた。

 もしも彼が元気で長生きしていたら、帝国大本営のプロパガンダに協力していたかもしれない。この本の著者の指摘に私も同意する。

 

 賢治は37年間の人生の殆どを父・政次郎に養われて過ごした。花巻農学校に勤務していた4年間も、給料のほとんどをレコードや絵画の収集に使っていたという。父の質屋稼業を卑しみながらその父のカネで恵まれた生活を送っていた彼を著者は「遊民」と呼ぶ。彼は農民の解放を訴えていたように私たちは思ってしまうが、現実の賢治は貧しい小作農と共感しあうことはできなかったし、彼らの世界に立ち入ることもできなかった。

 こういった話を読んでいて私はある一人の知り合いを思い出した。大学の先輩であった彼は新左翼団体の一つ・中核派の活動家だった。自らを職業革命家と呼ぶ彼は大学の講義に出席することはなかったが、アルバイトなどもしていなかったようだ。

 その先輩は対立する党派である日本共産党や民主青年同盟に対しては不寛容な態度を取っていたが、彼の両親は熱心な共産党員で、彼はその親の仕送りで生活していたらしい。仕送りの多くを、学内の反天皇制運動団体に注ぎ込む、ということもしていた。その先輩は賢治と違い、質素な生活をしていたが、彼もまた遊民だった。いや、こうして都会の生活にどっぷり浸った私も遊民の一人なのだ。

 現代を生きる私たちが賢治に惹かれるのは賢治が私たちと同じような遊民だからなのだ。

 

 この本は多くの賢治ファンや賢治研究者にとって反感なしには読めないものだろう。だが、この本は宮沢賢治を等身大で理解しようと試みた本であり、決して彼を貶めた本ではない。

 賢治は故郷花巻では地方財閥といえる家系に生まれた。しかし彼の家系はハイマキ(肺病一族)とも呼ばれ、差別の対象にもなっていた。一方、著者の母は山形の地主の娘として生まれ育ったが、戦後は夫が脊椎カリエスによる障害を負ったこともあって大いに苦労した。そして著者は、地域の人の羨望と蔑みが入り混じった視線の中で育ったため、賢治に対しては反感とともに親近感も有しているという。

 

 この本を読んだあとでも、私は賢治が好きだ。そして、彼の影の面も理解して己の生き方に反映していくことが彼の理想に近づくことだと思う。

 

 

 

 

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 東京には玉川上水という人工の川がある。羽村取水是堰(東京都羽村市)で多摩川から分岐し、東京都新宿区四谷までその延長43kmである。玉川上水というと太宰治の心中事件を連想する方も多いだろう。その頃の玉川上水は多摩川の原水を淀川浄水場へ供給する上水道だった。1965年に淀橋浄水場が廃止されたのに伴ない、小平監視所(東京都小平市)より下流部分は上水道としての役割を終えたが、それより上流の12kmの区間は現在も東京都民の使う水を流し続けている。

 

 下の写真は西武鉄道鷹の台駅(東京都小平市)付近の玉川上水である。現在この場所には下水再処理水がチョロチョロと流されてるが、昔は大量の水がここを流れていたのである。

 

 

 

 この玉川上水がつくられたのは江戸時代初期の1653年(承応2年)である。徳川家康が江戸幕府を開いて以来、江戸の町は急速に人口が増し、三代将軍家光の頃には水不足が深刻化した。そこで幕府が着目したのが多摩川だった。多摩川は江戸の南の外れで海に注ぐ川だが、この水をなんとか江戸に引いてきて諸藩の武士や彼らの消費生活を支える町人に利用させようとしたのだ。

 

 この工事の責任者となったのが玉川庄右衛門、清右衛門の兄弟である。二人は多摩川沿岸地域の農民だったと言われている。現在の水路は8ヶ月という短期間で開削された。しかしそれまでの道のりは長かった。水路を通すことになる地域は高低差の少ないところだ。また、この地域の土は関東ロームと呼ばれる赤土だが、この土は吸水性が高いので当時は水喰らい土と呼ばれていた。このような条件のもと、玉川兄弟はそれまでに福生や日野を取水口として工事を行っていたがいずれも失敗したという。その失敗を乗り越えて、玉川兄弟と多摩の百姓たちは江戸に水をひいたのだ。

 玉川上水で潤ったのは江戸の町だけではない。玉川上水からはさらに分水がひかれ、それまで農業に不向きだった地域も開発が始められた。玉川上水は東京の重要な基礎インフラだったのだ。

 

 

 現在、羽村堰ちかくの公園には玉川兄弟の銅像が建っている。

 

 ところで、この玉川兄弟に関しては杉本苑子が歴史小説を書いているが、それ以外にこの兄弟を扱ったコンテンツを私は知らない。小学生の時、社会科の授業で彼らを紹介した映像を観たが、「大人向け」のドラマや映画で玉川兄弟を主人公にしたものはこれまで制作されていないのではないか?

 戦国武将や幕末の志士ばかりが歴史のヒーローではない。こんな庶民の中のヒーローを取り上げたドラマも楽しみたいものだ。

 

 

 

 

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 1980年代に台湾で制作された映画『冬冬(トントン)の夏休み』は実にいい映画だった。

 

 トントンは台北に住む少年だ。母が胆嚢の病気で長期入院しているため、小学校を卒業(#)して迎えた夏休みを彼は母方の祖父の家で妹の婷婷(ティンティン) とともに過ごすことになった。

 

 初めはラジコンカーで遊んでいたトントンがすぐに地元の子供達と仲良しになり、野や川で遊ぶようになる。そんな始まり方だったから美しい少年時代の思い出話かと思ったらそのうちにトントンたちは大人たちの難しい問題にも関わるようになった。

 

 村の大人の一人に寒子(ハンズ)と呼ばれる精神障害者の女がいた。村の子供たちは彼女とはかかわり合わないようにしていたのだが、ある日ティンティンは列車に轢かれそうになったところをハンズに助けられる。それ以来、ハンズとティンティンの心の交流が始まる。ハンズは雀獲りの男に弄ばれて望まぬ妊娠をするのだが、木に登ろうとして落ちて流産する。ティンティンたちの祖父は医師なので、彼女の手当てをするのだがティンティンが彼女に添い寝する。これと同じ頃、ティンティンたちの母親は重態となっていたのだが、朝になってハンズが目を覚ます頃に母親も峠を越した。目を覚ましてティンティンを寝顔を眺めるハンズの表情は慈愛に満ちていた。まるで彼女の母と魂がつながっているかのように…。

 

 その他にもあれこれ騒動が起きて、トントンは怒ったり悩んだりする祖父を間近で見ることとなる。そしてトントンたちの思い出深い夏休みが終わる。父の車に乗ってトントンたちが台北へ帰るラストシーンに流れるのは『赤とんぼ』だ。

 

 

# 台湾の学校は欧米の学校と同様、9月始業7月終業である。それでも、卒業式で子供たちが『仰げば尊し』を歌っていて、これが植民地の名残なのか、と私は思った。

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 先日、知人のところで見事なマトリョーシカを見せてもらったのだが、帰宅してからこんなものを思い出した。

 

 少女ではなく、ウミガメの入れ子人形である。徳島県海部郡美波町のJR牟岐線日和佐駅構内にある観光案内所で展示されていた。

 

 

 これは日和佐駅から徒歩20分のところにある大浜海岸である。ここはメスのウミガメが産卵のため上陸する場所だ。何年が前、この地域を舞台にした朝ドラマ『ウェルかめ』が放映されたが、ヒロインの父が営む民宿に飾られていたのがたしかこのカメマトリョーシカだったと思う。

 現在ここでは町をあげてウミガメの保護活動が行われている。

 

  ところで、ロシアの工芸品として私たちがまず連想するのはマトリョーシカだが、その歴史は意外と新しいようだ。一説によるとマトリョーシカの生産が始まったのは1890年代なのだが、日本は箱根の七福神人形をモデルにして最初のマトリョーシカがデザインされたという。この時代、日本とロシアの関係は緊張していたが、その一方でこんな文化交流もあったのだ。

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 2016年9月3日、私は東京都墨田区内の荒川河川敷へ行ってきた。「関東大震災93周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」にでてきた。

 

 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生した。そのとき、多くの朝鮮人が殺害された。

 

 「朝鮮人が井戸に毒を入れた。」という流言飛語は有名だが、その他にも「朝鮮人が火を放ったせいで大火事が起きた。」、「朝鮮人が強盗、強姦をはたらいている。」という類の流言飛語もあったという。この言葉を聞いて、多くの者たちが朝鮮人と疑った相手を襲った。刑事事件として立件された事件の被害者は合計して200余名だが、実際の被害者数はこれを大きく上回るだろう。一連の事件では、中国人も殺害されたし、朝鮮人と間違われた日本人も殺害された。

 

 

 

 当時、帝都とその周辺のインフラを整備するため、出稼ぎの朝鮮人が働いていた。東京都墨田区と葛飾区の境界には荒川が流れているが、これは治水のために造られた人工河川であり、当時建設工事が進められていた。この工事でも多くの朝鮮人が働いていたのだ。

 

 震災で住処や家族を失った人たちの怒りや不安が、よそ者に向いたのがこの事件だったのだ。いや、この事件に関わったのは庶民ばかりではない。憲兵も職務として罪のない朝鮮人を殺害した。流言飛語の中には「朝鮮人が軍施設を襲う。」というものや「軍と朝鮮人が交戦している。」というものもあったのだ。1910年(明治43年)の韓国併合後、日本政府は植民地の人たちを力でおさえてきた。引き続き彼らを力でおさえようとして官憲は虐殺に火を注いだのだ。

 

 

 

 この日は秋とはいえ陽射しのきつい日だった。その下で、ロッカー朴保(パク=ホー)が鎮魂の歌を唄った。

 

 

 鎮魂の歌のあとは祭り囃子だ。あのとき罪もなく殺された人たちの魂に届けと、鉦や太鼓が鳴り響いた。

 

「朝鮮人はなぜ過去のことを責めるのか?」

と言う人もいる。だが、私たち日本人が朝鮮人を見下している限り、彼らは私たちを責め続けるだろう。国や民族の違いにこだわらず、だれもが当たり前に暮らせる社会に日本がなれば、そのとき過去を責める声もなくなるのではないか。

 

 ところで今の日本はどうだ?街にはヘイトスピーチが流れているではないか!

 3.11の際も被災地では外国人が盗んだ、犯した、という噂が飛び交ったという。それを耳にするたび、避難所の外国人は震えていた。

 そして、今年(2016年)4月の熊本地震の際には、「井戸に毒薬」というデマをツイッターで流した者がいたのだ!

 

 関東大震災は93年前のことだ。しかし、あの時起きた事件は過去のことではない。

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