1984年とはいってもジョージ・オーウェルのディストピア小説の話ではない。私の少年期の思い出だ。
1984年の私は中学3年生、受験生だった。その年の夏には米国・ロスアンゼルスでオリンピックが開催された。同級生の中には塾の先生からオリンピック中継をテレビで観るな、と言われた人もいたが、私は結構オリンピック中継で記憶に残る場面がある。もちろん、勉強もやった。そして、私にとって1984年のオリンピックは夢を感じることのできた唯一のオリンピックだ。
おりんぴっくか
開会式。金髪の美女が国名のプラカードを持ち、その後ろを各国の選手団が入場する。印象に残っている選手団は日本ではなく、イスラエルと中国だ。
イスラエル選手団の国名が読み上げられると、観客席から大きな拍手が沸き上がる。選手たちが立ち止まり拍手に応える。旗手である女性選手がアップで映される。1972年のミュンヘンオリンピックでパレスチナゲリラが選手村を襲い、イスラエル代表選手が殺害された。その事件を受けてのオベーションだと実況アナウンサーが静かに語った。
その後、この地の情勢はイスラエルが善、パレスチナゲリラが悪、という簡単な図式では理解できないことを知ったのは私が大学に入ってからのことだ。
この大会は中国が初めて選手団を派遣した大会だという。初めてにしては選手の数は多かった。それまで中国人の服装といえば無彩色の人民服、というイメージだ強かったが、この時の選手団の制服は明るい青のブレザーに赤いネクタイ。そうして若い国をイメージづけたかと思うと体操やバレーボールの選手たちが金メダルを獲った。
あの頃の私はオリンピックの表彰式で、日本の国歌が流れ、日本の国旗が揚げられる、という風景に「素直に」感動した。
だが、そういうなかでも「メダルの価値って何だろう?」に疑問を持つこともあった。
あれは柔道無差別級(当時柔道に女子の種目はなかった)。この種目に出場した日本代表は山下泰裕。彼は準決勝で足を負傷していたのだが、決勝でエジプト代表のモハメド・ラシュワンを抑え込みの一本で破り、金メダルを獲った。表彰式では銀メダルのラシュワンが足を怪我したまま表彰台に登る山下を手助けする様子がテレビで流されたが、決勝ではラシュワンは山下の怪我した足を攻撃せず上半身だけを攻めた、ということも当時は報道された。
ではラシュワンのスポーツマンシップはメダルに関係なく称賛されるべきものではないか、と表彰式から少し時間が経ってから私は思ったのだった。
表彰式といえば、体操の具志堅幸司が何かの種目で中国代表の李寧と同点優勝で金メダルを獲った。その表彰式では、具志堅が李に順番を譲ったことで中華人民共和国国歌が『君が代』より先に演奏されたのだが、これは日本人がメダルに今ほど関心を持っていなくて、日中関係も険悪でなかったときの出来事だった。
今大会で、日本代表が中国代表に順番を譲ったら国のお偉いさんもネット右翼も騒ぎそうで、想像するといやな気がしてくる。