阿房列車トカトントン | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 そこは「昭和」の駅だった。

 

 

 青森県は五所川原でJR五能線の列車を降り、宿に荷物を置いて津軽鉄道津軽五所川原駅のホームに立つと、そこには昔国鉄で走っていた客車が停まっていた。かつて鉄路を走っていたのは電車ではなく、機関車が客車や貨車を牽く汽車だった。客車の乗降扉は手動だ。この手動扉のおかげで昔は動きかけた汽車に飛び乗るという芸当もできたが、走る汽車から乗客が転落する、という事故もあった。鉄道ファンが「旧型客車」と呼ぶこのタイプの車輛は昭和50年代に急速に淘汰された。私の少年時代のことだ。東京で自動ドアの電車を当たり前だと思って育った私は「昭和」の人間ではあっても旧型客車の思い出はない。

 人は古臭い、きれいじゃない、という旧型客車に私は憧れる。そして今日私は津軽鉄道のストーブ列車の客となった。

 木製の内装をニスで仕上げた車内に入ると、だるまストーブが熱を放っていた。真冬には地吹雪が襲うこの地では、汽車の車内にだるまストーブが据えられていた。津軽鉄道は日本のクルマ社会化が進む昭和30,40年代、大掛かりな近代化を行なうことなく廃止をまぬかれ生き延びてきた。現在この鉄道でも地元客の通勤通学輸送は「時代に合った」ディーゼル車で行なわれているが、古き良きストーブ列車が今では観光客を楽しませている。

 ストーブ列車は地元客のためのディーゼル車と併結して冬季(12月~翌年3月)に運行され、普通運賃に加えてストーブ列車料金500円を支払うことで乗車できる。車内では観光アテンダントが観光案内をしたり、飲み物を売ったり、車内で乗客が買ったスルメをストーブで焼いたりしてくれる。

 

 

 

 

 津軽鉄道の終点は津軽中里駅だが、私は途中の芦野公園駅で下車する。

 ここは太宰治の紀行文『津軽』で有名なった駅だ。太宰が帰省した当時の駅舎は現在カフェとして利用されている。そう、この駅がある金木の町は作家・太宰治の故郷だ。

 

 

 一駅手前の金木駅に向かって歩くと斜陽館がある。ここは太宰治こと津島修治が生まれてから青森中学校へ進学するため故郷を離れるまで過ごした家だ。

 太宰は1909年、この土地の地主の六男としてこの地に生まれた。「金木の殿様」と呼ばれた津島家は第二次世界大戦後の農地改革により土地を失って没落し、屋敷は人手にわたった。現在太宰の博物館となっているこの屋敷は彼が没落華族の女性を主人公にして書いた小説から名を採って「斜陽館」と呼ばれる。

 

 私にとって太宰治は嫌いだが気になる作家だ。いや、白状すると高校生の頃は彼に酔っていた。

「生まれてすみません。」

という『人間失格』の有名なフレーズに酔った。だが、大人になる過程でいろいろ挫折を味わってみるとあの台詞は自分は偉いと思い込んだ者の自惚れから出た言葉だと分かる。

 地主の子として生まれた彼は、自分の家が小作人から搾取していることに罪の意識を感じていた、というがその家に甘え続けていたのが太宰ではないか。心中事件を起こし、相手の女性を死なせても、政治力のある長兄にかばわれて刑事責任を問われることはなかった。プロレタリア文学に傾倒した時期もあったが単に流行に乗っただけだろう。『斜陽』の主人公のモデルとなった女性との間に娘が生まれたが、もちろん娘は婚外子である。この母子はどれだけ苦労したことか。最期、太宰は妻でない女性とともに玉川上水に身を投げたが、彼は女性と心中したのではなく女性により道連れにされたとも言われている。しかし、女性が自死を決意する原因をつくったのは太宰だ。

 太宰が嫌いな理由はいくらでもあるが、私もまた弱い人間だ。そういうわけで私は太宰が気になる。

 

 

 斜陽館の近くには雲祥寺という寺がある。ここは太宰が幼いころ、小森の女性によく連れてこられた寺だ。幼い太宰が観た地獄絵図は今も本堂にあり、誰でも観ることができる。

 

 次のストーブ列車までまだ時間があったので太宰にゆかりのあるもう一つの建物を訪れた。度重なる戦災で焼け出された太宰が金木に疎開した時に過ごした家・旧津島家新座敷は斜陽館と金木駅の中間地点にある。この建物はもともと津島家の離れとして建てられた家だが、農地改革後は屋敷を手放した太宰の親族の住居として現在の場所に移築されたものである。

 太宰は敗戦の翌年までこの新座敷で暮らし、ここで『トカトントン』、『女生徒』などを世に出した。

 

 

 またストーブ列車がやってきた。通常、この列車は機関車の後にストーブ列車用の客車と地元利用者用のディーゼル車「走れメロス号」が連なるのだが、この日は機関車が整備のため走れない、ということで機関車代用の走れメロス2両が客車を牽いた。

 

 

 この後私は終点の津軽中里駅までストーブ列車に乗った後、折り返しのストーブ列車に乗って五所川原駅まで戻った。

 普段は休日でも明るいうちから酒を呑むことはないが、ストーブ列車に乗るときは特別だ。観光アテンダントがワゴンで酒類を売っていたので日本酒を買って呑んだ。ここ津軽でも暖冬のため近年はめったに雪が積もらないという。それでも前日積もった雪が車窓に広がる。金木で香港からの団体がストーブ列車に乗り込んできた。同じボックスに座った香港人に、車窓を指さして

「You are lucky!」

と私は言った。 

 

 

 

 

追記

 この日私は五所川原駅近くの宿に泊まった。宿の近くの居酒屋の店内で、『なごり雪』という歌が流れているのを聴いた。上野駅地平ホームと思われる場所での別れの情景を描いたこの歌。中学生のとき好きだったひとが何かのお楽しみ会で歌ったのが心に残っている。

 

 

(海山阿房列車に続く)