海山阿房列車 | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 

 

 津軽鉄道のストーブ列車に乗った翌日、私はJR五能線に乗車した。五能線は秋田県の東能代駅から青森県の川部駅まで日本海の海岸線に沿って通じた鉄道路線で、東能代、川部のどちらの駅でもJR奥羽本線に接続する。

 夜の間にまた雪が降って、朝の五所川原は雪の町になっていた。滑って転ばないよう重心を低くして宿から駅まで歩く。

 

 

 私はこれまで五能線に3回乗り通した。これまでの3回はいずれも東能代で乗車して川部まで乗る、という旅だった。今回は川部から五能線に乗る。これまでの旅と違うといえば、これまで五能線に乗った時は国鉄時代に製造されたキハ40系ディーゼル車に乗ったが、今回はGV-E400系という最新鋭のディーゼル車だ。高度経済成長期に蒸気機関車を淘汰して動力を近代化するため製造されたディーゼル車両では液体式と呼ばれる制御方式が採用された。液体式の車輛では内部に粘性の高い油が入った液体変速機でエンジンの動力を車軸に伝える。一方、GV-E400系は電気式といって、ディーゼルエンジンで発電機を回し、発生した電力で電気モーターを回して走る。

 

 

 昨日乗った津軽鉄道の駅を横目に見て、五能線の列車は雪の五所川原を出発した。電気式ディーゼル車だと発進するときエンジンの他にモーターなどの電気系統も音を立てるのか、と思ったが聴こえるのはディーゼルエンジンの音だけである。

 

 

 列車が鯵ヶ沢駅へ近づくと鉛色の海が見えてきた。いよいよ日本海を眺めながらの旅が始まる。

 この駅で乗客の大半が降りた。残ったのは数名の鉄ちゃんらしい乗客だけである。ここから先は快速運転だ。停車するのは深浦や能代といった比較的周辺人口が多い駅の他に千畳敷、十二湖といった観光客の利用がありそうなところだ。

 

 

 奇岩の並ぶ海岸線のそばを列車は走る。この路線に限ったことではないが、風光明媚なところというのは得てして人が住むには厳しいところで人口は少ない。ましてや過疎化少子化で余計に公共交通の利用者は減る。

 今回私が乗った列車もこの冬は平日は鰺ヶ沢から先が運休だ。昼間に列車を運休にして、その間に線路の枕木を交換する、ということなのだがそれだけ地元の人の利用が減っているのだ。

 列車が南へ進み、深浦駅あたりになると五所川原を出るとき積もっていた雪は無くなっていた。海の色も冬の鉛色から春の青色に変化しつつある。そういうのを眺めていたら

 

 ♪春色の汽車に乗って海へ連れて行ってよ

 

 という出だしの歌謡曲が頭に響いた。1982年に松田聖子が歌った『赤いスイートピー』だ。

 

 

 この歌が流行したのは私が小学校卒業を控えた時。松田聖子に関心はなかったがこの歌はいいな、と思った。いまでもそう思う。車の助手席よりも汽車やバスで好きな人と出かける方が一緒の時間を楽しめる、と思う女性だっているだろう。

「車を持たない男は女の子にもてない。」

青年期の私が何度も聞かされたことだ。だが、すべての女性が車を持つ男としか付き合わない、というのは社会の表層だけをみて現実を知った気になる者が言うことだ。

 

 五能線の旅を初めて2時間余り。遠くに風力発電所の大きな風車がみえて、ドン・キホーテにはあれが何に見えるだろうかと思ったら列車は能代駅到着。次の東能代駅で奥羽本線の各駅停車に乗り換えだ。

 

 奥羽本線の弘前行きに乗って、今度は鷹ノ巣駅で降りる。今度は秋田内陸縦貫鉄道に乗る。海の阿房列車の次は山の阿房列車だ。

 

 

 秋田内陸縦貫鉄道は鷹巣駅と角館駅を、文字通り秋田県を縦貫するように結ぶ路線だ。鷹巣駅ではJR奥羽本線に、角館駅ではJR田沢湖線(秋田新幹線)に接続する。この路線は、国鉄赤字ローカル線として廃止対象になっていた阿仁合線と角館線を第三セクターが引き継ぐことで1986年に開業した。

 私がこの路線に前回乗ったのは1989年夏、比立内駅と松葉駅の間の未開業区間が開業して文字通り内陸縦貫鉄道となって間もなくのことだ。

 あの頃は第二次世界大戦の体験者で健在の人がまだ多かった。どうしてそういう話を聞くことになったのか覚えていないが、あの時私は鷹巣から阿仁合まで同じボックスに座った高齢男性から戦争体験を聴いた。

 男性は中国大陸に出征し、戦後はシベリアに抑留となった。

「シベリアの冬は寒いというより痛かった。」

と男性が言ったことを今も覚えている。厳しい強制労働に耐えて故郷に戻ってきたら、今度は警察官が家に尋ねてきて、共産主義思想に染まっていないかと聞かれたのがつらかったという。収容所で生き延びるにはスターリン独裁体制に順応するしかなかっただろう。それが今度はGHQによる赤狩りである。

 

 あの時、途中の交換駅ですれ違った急行列車に若い女性車掌が乗務していた。その女性車掌の一人が翌年1990年に運転士免許を取得した。現在では大都市圏の通勤路線でも女性の鉄道運転士は珍しくないが、その第一号はローカル線の運転士だった。

 

 

 

 初の女性運転士のニュースは当時一般紙でも大きく取り上げられた。初の女性運転士は秋田美人だ、とも報道されたが、こうやって「女性初」だと取り上げるのは女性差別の裏返しである。何年か後に立ち読みした鉄道雑誌の短信記事で、この女性が結婚退職したことを知った。「女性初の鉄道運転士」として世間に注目されることに彼女は重圧を感じていた、と記事には書かれていた。

 このブログを書くため、検索したところ、2021年に『毎日新聞』に掲載された記事を見つけた。この記事によると現在彼女は地元の社会福祉協議会で働いているという。

 

 今回の旅行で、私はこの路線の阿仁合駅で途中下車した。

 この駅の所在地は秋田県北秋田市阿仁銀山。ここはかつて鉱山で栄えた町だ。

 

 

 阿仁合駅で降りて、まずイベント会場への無料シャトルバスにのって公民館へ行く。私がここを訪れたのは2月24日。翌週末は桃の節句ということで公民館では数多くのひな人形が飾られていた。

 

 ここを訪れて、この鉱山町に平賀源内が来たことがあるのを知った。平賀源内は江戸後期の文人であり科学者だ。鉱山での仕事の経験もある彼は当時秋田藩が経営していたこの地の銅山の技術指導のためここを訪れた。この頃、イギリスでは産業革命が始まり、ジェームズ・ワットが蒸気機関の事業を立ち上げていた。

 平賀源内とかかわりのある人物で、角館出身の秋田藩士・小田野直武がいる。彼は絵の才能があり、杉田玄白と前野良沢がオランダの解剖学書を翻訳して出版した際、その図版を彼が作成した。

 秋田の山間部の町に来て、日本の江戸時代の科学史を知りたくなった。

 

 阿仁合駅の周辺には明治初年にこの地によばれたドイツ人鉱山技師の住居として用いられた洋館もあれば、寺もある。狭い地域にいろいろな宗派の寺が建っているところは島根県の石見銀山と似ている。様々な事情を抱えた鉱山労働者が仕事の安全を祈ったり、鉱山事故や塵肺のような職業病で逝った身内を弔ったりしたのだろう。

 

 

 2時間ほど鉱山町に滞在して、再び秋田内陸縦貫鉄道の客となる。今度は転換クロスシートを備えた急行列車だ。

 線路際を川が流れている。列車が長いトンネルに入ったと思うと、やがて列車のエンジン音が静かになった。列車が下り勾配にかかり、終点角館駅に近づいた。今回の乗り鉄の旅も終わりだ。

 

 翌日は角館の武家屋敷街を歩き、稲庭うどんを食べ、秋田新幹線で帰途に就いた。