10月10日夜に開かれたシンポジウム「考えよう、若者の雇用と未来~消費される青年労働者の実態」(氷河期世代ユニオン主催、市民社会フォーラム共催)に参加しました。シンポジストは、作家で反貧困ネットワーク副代表の雨宮処凛さん、首都圏青年ユニオン書記長の河添誠さん、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さん、東京大学教授の本田由紀さんの4人。このメンバーがそろっての2時間は、あっという間で、もっともっと聞きたいことがたくさんあるのに残念っ!という感じでした。今回は、湯浅さんが発言された「日本社会の岩盤」についての要旨を以下紹介します。(byノックオン)
昨年秋からの「派遣切り」などで、「日本社会がもたなくなってきている」「持続できなくなってきている」危険な状況にさしかかっているとの認識が「年越し派遣村」なども通じて、多くの人の認識に広く浸透してきたと思います。
大きく見ると、60年代後半以降の社会運動というのは、「アイデンティティー立脚型」の運動だったと思うんですね。私自身も1995年に、野宿の運動を始めたときはそういうふうに思っていました。野宿問題における「野宿者性」「野宿者のアイデンティティー」にこだわって運動を進めようとしていたわけです。「野宿者のアイデンティティー」がまるごと排除されているという問題意識で運動を進めていたのです。そうした社会運動のキーワードは、おそらく「反差別」だったと思うんですね。
ところが、そうやっているうちに、日本社会全体として「階層分化」「格差社会化」、とりわけ「貧困」が広がって、それぞれの分野の中で、たとえば、障害者の少なくない部分が貧困化していくとか、女性の貧困化が進むとか、一般世帯含めて貧困化していく状態が広がっていったわけです。
いわば「排除」「差別」というのは、「内と外」の概念です。貧困化していくというのは「上下」の概念がさらに重なり合って、「外」に「排除」された上に、「下」の領域に落とし込まれ、その「貧困の領域」がこの間どんどん広がってきてしまったのです。
そこで、反貧困ネットワークは、従来の「アイデンティティー立脚型」の各分野の運動に横串(よこぐし)を入れて、いろんな分野をつなげて、横断的に貧困問題に取り組むという、これまでとは、ちょっと違った社会運動のステージを刻んでいくということになると思っています。
この間の反貧困運動の中で、「貧困問題がタブーじゃなくなった」という意味での功績は大きいと思っています。この間の様々な運動によって、言ってみれば、「日本社会が正しい自画像を持ち始めている」ということだと思います。従来の日本社会は、「貧困があっても貧困だと思っていなかった」、あるいは、長らく続いた自民党を中心とする日本政府は、「貧困があっても貧困の存在を認めようとしなかった」のです。これは、「日本社会の自己誤認」だったわけです。
「貧困があることをあると認めよう」というふうに、「日本社会の正しい自画像を持ち始めている」というのが今の段階で、一つの区切りとして、感慨深いものがあるのは、先週、長妻厚生労働大臣が「貧困率の測定」を行い、日本政府として公認の貧困率の数字を確認することを決めたことです。これまでの日本政府は、「貧困は存在しない」「貧困はあっても見ない」という態度をずっと続けていたわけですから、これは大きな転換です。
今後は、その貧困率をどうやって減らして行くのか、貧困率を減らして行く国のあり方というのは、どういう形なのか、貧困率を減らす経済や企業のあり方はどうあるべきか、貧困率を減らして行く社会保障や税制はどうあるべきなのかが問われることになります。そこに私たちの運動がコミットしていくことが求められていきます。
この間、「貧困は本人のせい」という「自己責任論」は、一定静まって、社会の責任としてどうしていくのかが問われるようになってきました。でも、依然として突破できず、大きく立ちふさがるのが「とにかく企業最優先」という考え方です。私はこうした強烈な考え方を、「日本社会の岩盤」というふうに言っています。とにかく企業が成長すれば人々の暮らしもよくなるというトリクルダウン=企業利益がしたたり落ちていって国民の生活を潤すという考え方が日本社会は強いわけですね。
ところが、実態をきちんと見ると、企業の成長と国民の暮らしの豊かさがリンクしないどころか相反しています。人々の生活をきつくすることで、企業が成長していくというのがずっと続いていて、とにかく企業が成長しないとどうにもならない、そのためには個々人の生活が犠牲になっても、みんな我慢しなくちゃならないという理屈がまかり通ってしまう。こうした「とにかく企業最優先」という日本社会の「岩盤」は強固です。
「NOと言える労働者」というのは、例えば「きょうは残業しないで帰ります」と言えるということですね。それがなかなか言えない、多くが「NOと言えない労働者」にされていて、これが「企業支配社会」「企業一元社会」「企業中心社会」などと表現される日本社会の状況です。それは別に今の若者だけに限らないし、今だけの話でもありません。昔の正規労働者もNOと言えたのかといえば、相対的には今よりNOと言えたかも知れませんが、基本的には「NOと言えない労働者」だったわけです。
日本の企業というのは、サービス残業を折り込み済みで労働者を働かせて、それに対して企業内の福利厚生で見返りをするみたいな日本型モデルだったわけです。たとえば、時給1,000円の人が1時間残業したら、法定上は1,250円になるわけで、サービス残業はようは1,250円のお金を労働者から社長が泥棒する、かすめ盗るということです。しかし、日本の職場全体がやってることなので、サービス残業を1時間やっても違和感がないわけです。だけど、社長が「ちょっといま会社の経営苦しいから」などと言ってつかつかとやってきて、社員の財布から1,250円抜いたら、みんな「社長何するんですか」と騒ぐと思うのです。実際にやられてることは同じなんですが、財布から1,250円抜かれたら大騒ぎする人も、サービス残業で残業代をかすめ盗られても別に何とも思わないというか、みんなそうしてるからそんなもんだというぐらいに思っているのが日本の職場の現状です。それだけ「雇用の公正さ」「雇用のまともなルール」というのが、崩れている社会だと思うのです。圧倒的に企業経営側が力を持ち、労働者を支配してきたわけです。
雇用の公正さが崩れているというと、依然はまともな雇用だったように聞こえますが、日本社会にはもともと「雇用の公正なルール」はありませんでした。そこからの転換というのが重要ですが、これだけ雇用が厳しくなってくると、たとえば新卒者や就職活動中の学生の間で、終身雇用を求める声が8割という結果が出てくる。それはなぜかというと、終身雇用に、現在の安定と将来の見通しを求め、現在の生活の安定と将来の生活の見通しを与えてくれるものは、「企業しかない」という大前提が動いていないということだと思うのです。
だから、世の中が不安定になると、「企業がちゃんと抱えてくれる社会」が良かったなと思う。企業ではなく、「社会が現在の生活の安定と将来の生活の見通しを与える」ようになればいいなとは、どうしても思えない。そういう選択肢が浮かんで消えたというよりは、浮かんでも来ない。このことも私は「日本社会の岩盤」だと思っています。
この「日本社会の岩盤」は、今回のリーマンショックなどで新自由主義が破綻したら無くなるようなものではなくて、戦後日本社会からずっと形づくられてきた「日本社会の岩盤」だと思います。
この「日本社会の岩盤」が、ずっとこのままだと、状況が厳しくなればなるほど、みんな「NOと言えない労働者」になっていってしまう。
ようするに、「企業に見捨てられたら人生おしまいだ」「働くことは生きること」「仕事がなくなることは人間性を失うこと」という理屈が一貫している限り、「NOと言えない労働者」になってしまう。だから竹中平蔵さんのような方に、足元を見られて、「失業がこの程度で済んでいるのは、非正規労働を増やしたからだよ。労働者のみなさん、ありがたいと思いなさいよ」などと言われて反論ができなくなるのです。
「生活できない非正規労働」だったら、「生活できる失業」の方がいいと反論する必要があるのだけど、反論しないんですね。そんなこと言うと「お前は働く気がないのか」と叩かれるからです。そこが「絶対的な是」となっていて、それ以外の生き方が認められない。そうすると、賃金を上げたり、労働者の権利を向上させると、企業は海外に逃げちゃうよとか、会社ごとつぶれちゃうよとか、「企業あっての人生だよ」ということになってきて、みんな「NOと言えない労働者」にされ、企業側、経営者側からはいつまでたっても足元を見られることになり、「貧困スパイラル」 を止めることができなくなるのです。
以上が、10月10日のシンポジウムでの「日本社会の岩盤」に関わっての湯浅誠さんの発言要旨ですが、あわせて過去エントリー「派遣労働なくすのがグローバルスタンダード」 に対して、「派遣労働者は好きでやっているんだからいいんだ」という趣旨のコメントが寄せられていますので、雑誌『経済セミナー』(09年6.7月号、日本評論社)の「労働問題の本質とは~仕事と人格の結びつきを解く」の中で、湯浅さんが語っている一節を最後に紹介します。
湯浅 野宿の人たちは、「俺はこれでいいんだ」、「俺はこういう暮らしが性に合っているんだ」と言い、派遣の人は「これは自分が選んだんだ」と言うわけです。それは、決して本心を偽っているわけではなく、そうでも思わないとやっていけないからで、そのときの本心なんです。「こんなはずじゃなかった」と、毎日考えていたらおかしくなってしまいますから、出口がなければないほど、そう考えるようになっていくんです。
本当に不当な問いだと思いますが、昔よく「野宿は好きでやっているのか」と言われました。当時、野宿から脱却できるルートは一切ありませんでしたから、一度落ちたら、好きだろうが嫌いだろうが、そこにいるしかなかったわけです。そうすると、「好きでやっているのか」という答えようのない質問に、「これで俺はいいんだ」と言うしかなくて、結局「この人たちは好きでやっている」という話になってしまう。フリーターやニートも基本的には同じです。
条件を変えていくしかなく、それを「もやい」 ではやっています。「この暮らしが性に合っている」と言っていた野宿者が、アパートに入るとそこで普通に生活していくわけです。条件が変われば、本心も変わるのです。物質的な条件が意識に影響を与えるのであって、それを主観的なレベルで、「好きでやっているのか」と、状況を変えずに問うても意味がないと思います。(湯浅誠さん談、雑誌『経済セミナー』09年6.7月号 8ページからの引用)