「在野の天才 小室直樹とは?」を見た 2-8|日本教の社会学 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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最後の第Ⅲ部は、日本資本主義の精神の分析である。
小室直樹の著作には書かれていないので、少しだけ、この分析の背景を書いておこう。

背景
小室直樹は、マックス・ヴェーバーとその継承者タルコット・パーソンズの継承者である。
ヴェーバーの研究の主要テーマの一つは、「なぜ、西洋に"のみ"近代資本主義が生まれたのか?」である。
これまた、誤読が盛りだくさんな理論の一つ。
反論、批判をしているつもりでも、理論を理解しておらず、実は反論にすらなっていなかったりする。
ヴェーバーの理論は、壮大すぎて理解をするのが大変。
その上、精神的な病を患っていたので、文章も自由自在、奔放に書いていることが、
理解をさらに困難にさせる。
言葉の定義も、文脈によって、広くしたり狭くしたりしているので、注意深く読む必要がある。
だから、理解できなくても気にしなさんな。お若いの。
経済学の大天才、サミュエルソンですら誤読をしているのだから。(「Economics」19th Edition)
嗚呼、ケインズのあのムニャムニャ理論を数式に翻訳するほど、モデルを使った思考に習熟していたのに。

閑話休題。
小室直樹の口癖「小室様にはおよびもせぬが、せめてなりたやサミュエルソンといわれる日が必ず来る」
の意味がよく分かるだろう。
サミュエルソンは経済学の天才であり、経済の分析をすることはできたかもしれない。
しかし、社会は経済だけで成り立っているのではない。
その点、小室直樹は、社会を包括的に分析しようとした。
社会科学者としては、サミュエルソンを軽く超えているのである。
話を戻す。

小室直樹は、そのヴェーバー理論を正統に継承している。
すると、必ず持つ疑問がある。
プロテスタンティズムも無いのに、なぜ、日本に近代資本主義が生まれたのか?という問い。
ヴェーバー理論に対する、典型的な反論。
これに対して、小室直樹は、著作全体を通して「日本教」という概念を構成し、
明治期にはそこからキリスト教にほとんど同型な「天皇教」という形が生まれた、という理論を提示する。
西洋で発達した「資本主義の精神(der Geist des Kapitalismus)」に相当するものの一部は、
日本にもあった、という。
そして、それらを統合したエトスが近代資本主義発生の契機となった、と。
ヴェーバー理論を修正・応用して説明している。

ヴェーバーをよく読んでみると、資本主義発生の契機はカルヴィニズムである必要はない、と言っている。
たまたま、カルヴィニズムが猛烈な心的緊張状態を作り、
資本主義発生の契機となる機能を果たしただけだ、と。
ここに着目してか、自分で閃いたかは分からないが、
小室直樹は、日本においても、カルヴィニズムと同様の機能を果たしたものを探したというわけ。
このために、本書では、山本七平が発見した「日本教」という概念を体系化している。
そして、日本の「資本主義の精神」を分析している。
とまあ、こういう背景がある。


共同体的資本主義
さて、本論。
小室直樹と山本七平は、西洋と日本の資本主義の精神を比較し、その違いを浮き彫りにする。
はたからみると、似たような機能を果たしている、東西の資本主義。
しかし、その根本的な構成原理というのは全く異なっている、という分析。
その一つを挙げると、日本では、
伝統的に存在していた共同体(Gemeinde)が機能集団であるはずの企業に潜り込んでいるということ。

ここで、共同体の社会学的な特徴(characteristics)と性質(properties)を挙げてみよう。
大塚久雄、小室直樹の理論を、筆者が再整理した。
一つ目の特徴は、二重規範(Doppel-norm)。
共同体の内と外とは峻別され、それぞれ別の規範が適用されること。
その上、共同体内の規範の方が優先される。
この系(corollary)として、共同体には入るには、ヨコからは入れず、下から入るしかなくなる。
即ち、その共同体に生まれるのである。
二つ目の特徴は、富の二重配分。
ある富(名誉や権力でもいい)は、一度共同体のものになった後で、個人に再配分される。
それと特徴ではないが、敬虔(Pietät)が支配的な感情である、という性質。
偉い人とは、対等に口を聞きづらいということ。
これは少し分かりにくいかもしれない。こう書くと分かりやすいだろうか。
Facebookにおいては、社長のマーク・ザッカーバーグと若い社員とが普通に会話する。
単に労働力の売買契約を結んでいるだけだから。職務命令には従うけれど、人間としては対等。
ところが、共同体の内部では、そんな恐れ多いことはできない。
これが、敬虔ということ。

少し前の事例ではあるが、なぜ日本では成果主義が上手くいかなかったか?
この概念を使って分析するための良い演習問題である。
共同体の特徴や性質を考えると、大変よくわかる。
日本教という一つの理論体系の中で説明をすることができてしまう。
科学者であれば、狂喜するであろう。
科学は、なるべく少ない公理や定義から、たくさんの法則を説明できることを良しとする。
むやみやたらと、理論体系が乱立することを嫌う。

日本では、この共同体が、現在を形作ってきた。
他にも、責任に関する法則や窓際族に関する分析がある。
日本における、広義の資本主義が如何に奇妙奇天烈なものであるか。
しかし、それでいて機能している、ということが示される。


日本資本主義の精神の基盤
最後は、日本の資本主義の精神の発生について。
前段で示された、珍妙な日本資本主義は、一体どのようにして発生して来たのかを分析している。
特に、革命の観点から見ている。
近代社会を形成するには、自分達の社会を作り変えることができるのだ、という「作為の契機」が必要。
作為の契機は、資本主義の精神を構成する重要な部品の一つでもある。
近代と前近代の分水嶺である。
西洋ではカルヴァンの予定説によって生まれた。
日本で、これに相当するものは何だろうか?という問題設定。

この問題に対する回答を発見したのは、山本七平。
崎門学の思想が、その役割を果たした、という。
こういう大発見を連発するのが、山本七平の偉大なところ。
神に選ばれた人間たる所以である。
そして、その学問的基礎づけをしたのが小室直樹。

小室直樹らは、特に、浅見絅斎(あさみ けいさい)の決定的な重要性を強調する。
浅見絅斎の思想の意義は、湯武放伐(とうぶほうばつ)の否定。
湯武放伐は、暴君であった夏の桀王、殷の紂王をやっつけた、湯王と武王は、是か非かという議論。
これを絶対に否定したのが、浅見絅斎。
どれだけ君主が暴君であったとしても、人民はこれに反攻してはならない、と。

ここに、社会の外にある「絶対」という概念が確立した、と小室直樹らは言う。
カルヴァンの予定説同様、社会の外にあって、人間が操作することのできない絶対の存在が確認された。
この絅斎の思想こそが、世界史上の奇蹟とも言われる、明治維新を成功させる力になった、という。
水戸学やら何やらの尊皇思想の形成も、究極的にはここに依拠する。
浅見絅斎の思想が無いと、バラバラっと崩れていく。
因みに、日本人の国家意識というものの淵源も、絅斎先生に端を発する。
日本の資本主義の精神の発生を考える上で、外すことのできない重要な思想である。


こうして分析された日本教の概念は、現代社会に対しても、適用できる部分がかなりある。
30年以上経った現代でも本書の意義は失われていない。
現代日本にまで引き継がれている特徴や、日本人の典型的な行動様式が示されているから。
社会構造というものは、そう簡単には変わらないのだ。
さあ、小室直樹の著作を読み返そう。


続く