自分の歴史を語っている。貴重な節である。

昨日、自発的に6接続されている。このところ、嘗て元気な頃(それでも既に耳疾患に苦しみながら)書いた「限界状況経験の本質」が丹念に読まれているようだ。この論文には、この欄に収録の際、現在の地点から、所々、今の自分の感想を(特にこの節には、心底言いたいことを相当)添えている。 いずれにしても感謝である。



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二 歴史的規定性としての限界状況
 
 『実存開明』〔Existenzerhellung〕第七章の限界状況論の第一段階において、限界状況の意味がどのように語られているか、また、限界状況経験そのものの内に含まれている筈の実存的交わりの必然性の経験の示唆がいかなる形で見出されるか、を次に見る。
 「私は自らを単に世界一般の中に見出すのではなく、世界一般と関わりながらも、私は一個の個別的現存在として、その都度規定的な状況(jeweilig bestimmte Situation)の中に立つ」(II.210)。このような規定的状況が、その中に立つ各人にとっての具体性において、「歴史的意識」に基づいて各人によって「能動的」(aktiv)に「把捉」(ergreifen)されることを通して限界状況経験は生じるが、限界状況はその充実した経験に先立っても、可能的実存を「覚醒」(erwecken)させるような「規定的なものの狭さ(Enge)」として(ebd.)、いわば一つの否定性において受動的に、現存在における自己の動揺・不安として経験される。即ち、本来的存在経験としての限界状況経験は、深みの程度に関してをもつものであると捉えられる。限界状況は先ず実存的決意への衝撃的な促しとして経験され――この経験自体既に主体の可能的実存としての能動性の目覚めを前提するとみられる――、次いでこの決意としての実存的選択の遂行において、決意の内容、己れ自身を選択した実存の現存在としての「身体」(Leib, II.206, 217)となる、即ち、実存が自由に自ら欲し把捉したものとして経験される。
 限界状況は、最も簡潔に言えば、実存の歴史的規定性である。換言すれば、規定的状況は意識一般としての思惟から見れば「狭さとしての規定性」であり、実存にとっては「存在の全き現前」となる(II.211)、ということが限界状況の意味である。この、己れの具体的状況としてのその都度規定的な状況に対するいわば観点の移行、或いは飛躍は、それ自体、可能的実存としての単独者の内面的行為の遂行に照応するものである。即ち、限界状況は何か客観的に存立している或るものではなく、可能的実存の能動的共働を、即ち実存的自由の遂行を、経験されるために必要とするものであり、しかも、この自由を離れて予め現存していたものではない。次の文はこのような事情を表わしている。「普遍的なものという基準に則る考察にとっては規定的なもの(das Bestimmte)が特殊的なものとしてそれであるところのもの、このものが、現存在における可能的実存にとっては、規定行為Bestimmung)〔原文でもイタリック体で強調されている〕となる」(II.211)。「実存は己れの規定性(Bestimmtheit)という限界状況において、己れの規定行為の決断へと呼び出される」(ebd.)。規定性のこのような能動的な捉え直しの行為が限界状況経験そのものの中に含まれている、と言い得る。規定的なものの「狭さ」は、己れの力の拡張としての自由に対する諸々の「抵抗」(Widerstand)や不本意な依存性として経験されるが、これらは単に「限界状況の相貌(Gesicht)」であると言われ、「単に抵抗と狭さに見えた規定性は、限界状況として捉えられることによって、実存することそのものの現象の測り難い深みとなる」と言われる(II.213)ことからも、規定性がさしあたって単に狭さとして経験されることと、それから限界状況として経験されることとの間に、一種の距離あるいは飛躍があることが確認される。





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「実存」すなわち「人間の本来的自己存在」が、ヤスパースにおける「実存」の意味であり、同時代の実存思想家と云われる哲学者たちの間でも、同一術語が意味するものの実質には、微妙あるいは決定的な齟齬が相互間にある。
 さて、「本来的自己」はあなたがた各々にとってどういうものであろうか。わたしが問題とするのは、各々歴史的形態が個人的状況に応じて異なるというわかりきったことではない。「孤独と交わりの両極性」というヤスパース的発想を意識した上で、個々人が各々この両極のどちらに、それこそその都度の意識状況に応じて傾くか、この問題を思っているのである。トマス・ア・ケンピスの言葉をわれわれはすでに知っている(「人と交わる毎に、わたしは前よりも劣った人となって帰って来る」というセネカの言を引用している-この論考1-)。それにたいし、「両極性」を言いながらヤスパースは「交わり主義」者なのだろうか。実際はとてもそういうふうに割り切れる問題ではない。そのような意味で、この両極性観念ひとつとっても、われわれが対決すべき「問題」なのである。ヤスパース概説は、カント概説と同じくらいくだらないものである。わたしをこの論考に駆っているものは、この対決意識としての「問題」意識なのである。




ヤスパースの精神病理学の精神をみずから究めることによって、彼の哲学精神を真にタンジーブル(触知的)に会得しようと、日中はヤスパースの原著に没頭し、夕方、わざわざ大学敷地内の理系の一室を借りて医学基礎論を、科学的態度を修得するために読んでいた頃の真摯一途に打ち込んでいた自分がなつかしい。(そして、この志に身を捧げていたぼくに比べて、そしてこのぼくにたいし、周囲は徹底的に馬鹿だった。)おもえば、ぼくの研究方法は本性から触知的態度にみちびかれていたことに気づく。ヤスパースの思想の、観念ではなく実践による体得的理解に自分を捧げることを、自分の感覚で実践していた。これは、そうでなければならんと自分で判断したからだ。こういう理解態度、探究態度によって、ぼくのヤスパース論考は、他の〈同胞〉研究者達のとは本質的に違う質のものとなり、教授達からいつも極めて高い評価を得、ヤスパース協会でも目立った期待をかけられた。ぼくが耳疾患をこじらせず本来の活動を継続していたら、その分野でかなりのすばらしいことになっていただろう。あの当時から「自然」がぼくに妙にいじわるく ぼくの悲願を容赦無く阻害するようになったのは、いまでは現在の悪現象の伏線だったような思いはじつに強くある。普通に勉強できる状態でさえあれば、相当レベルのヤスパースを中心とした学問活躍ができたはずと思う。それがいつとはなしに周囲が寄せるようになっていたぼくへの期待でもあった。ぼくは「逸材」としてアカデミック・エリートの道に満腔の真摯さで地道に打ち込んでいたのだ。或る時期を境に歯車の動きがおかしくなり逆転しはじめたと感じた。そこからぼくは、「学問」ではなく「自分自身」のために求めるものに、救いを求める如く傾いてゆく。高田博厚の世界を知ったのである。ヤスパースの傍ら高田を憧れ読んでいたのだが、ぼくの健康状態を考慮に入れなかった教授の留学のすすめに、かえってやけくそになって乗った結果、ドイツの駄目さ無縁さを自分で徹底的に経験し、高田博厚とフランスの世界に、世俗の縁を全部断って、いわば魂的な恋愛駆け落ちをすることになる。こういう、辺りを構わない「情熱への没入」が、自分の状態への絶望を発条(ばね)に、その絶望からかえって信仰を生んで、一途に純粋に打ち込む力とするようになる。ふしぎな「導き」によって、苦しみながらも執拗に努力し学位を得る。いまはぼくはもう自分を導いた力をも信用していない、ぼくを護らず悪に渡したから。「人間の条件」である純粋信仰つまり「理念の信仰」のみが残った。ぼくはこの「理念の神」を現実にする使命があるキリストだと自分を思っている。それが七生報国の意味である。




ヤスパースの「交わり」(コムニカツィオーン)の思想は、人間同士の理想的関係性の理念としては或る意味申し分ない(だから共感者がすこぶる多い)が、現実のこの世で実践するとなると、大変な問題を孕んでおり、ヤスパース自身が、実際は「人間への過度の期待」のために振り回された感がある。だって、われわれ自身、自分を全部さらけだしてしまっていいような信頼できる人間を何人知っているか。たいていは、心を開けば 待ってましたとばかりに短刀のように独断の言葉を突き刺してくる手合ではないか。それ以前に、自分のほんとうの内密の問題は、自分自身で答えの決断を下そうとするではないか。自分以上に自分を奥深く知り得る人間はいない。あまりに浅薄な者にこそ他者の助言や叱咤が必要だから、そういう者こそ「交わり」主義になるのなら、問題自体がものすごくつまらない。
 「交わり」思想の問題はいくらでもあり、それに想到もせずに思想を原則的真理の如く振りまわす者らは、どうしようもないだろう。思想と対決することで自分に問い、自分の真実を見出すためにこそ、思想は呈されている。
 「実存的交わり」も、これを思惟することと実践することとの間には、「限界状況」を思惟することと経験することとが質的に異なる(H.ザーナー)と同様に、大変な深淵が開いている。これを自ら感知しない〈ヤスパース学徒〉は、形容しようがない。