美しさというものは、内容がともなわなければ ぼくを惹くことはけっしてない。ここで内容とは、感ぜられるものである。ぼくの眼差しの前では、表面は一瞬で突破され、内容が看破される。美術・芸術の美とは本来そういうものであり、芸術造形における表面とは、そういう内容の力が形成する「面」であり、これが同時に「量」(マッス)の意味である。「面」と「内的本質」とは分離されえない。これを感得している(ロダンと、そこで働いたリルケのように)のが真の芸術者であり、ここで創造者と鑑賞者の別はない。芸術には思想がなくてはならないと高田博厚が言うときの思想の意味はここにあるとぼくは思う。「触知しうる思想(イデー)」である。思想とは、内的重力となるまでに至った思念の集積であり、その存在(ひと)を存在たらしめているものである。どういう内的生活をしているかは、全部表面に、ここで言う意味での「面」にあらわれる。彫刻作品の面ばかりでなく、生きた人間の面にもあらわれている。作品の面に触知される思想は、生ける人間の内なる生ける思想である。言葉の観念体系であるわけがない。だから、職業学者もファッションモデルも、芸術家の創造的関心対象になどなりえないのである。どんなにタレント的に美しくても内容が打つものでなければ相手にならない。言葉ではなく表情という面が内容のすべてを伝えている。
こういうことを一気にあらためて噴出する如く書いたのは、表面に出ている内容が、もう、裕美さんと他では、存在と無の差であることを、さきほど感覚してしまったからである。ぼくは正直に言うしかない。内なる美のために修練しているひとでなければ愛の対象にも創造の対象にもなりえない。愛と創造は同一根源である。
現在のクラシックの精神的実態もひどいものだとぼくは思っている。ぼくは視野狭窄的に彼女のことだけ言っているのではない。他の観察比較を内心でしながら言っている。ぼくを感動させるためにはフルトヴェングラーやシェリング、フルネ級でなくてはならない。あのような純粋で魂的な美を、裕美さんのほかに感じさせる奏者は、いまいない。 他のクラシック愛好者の嗜好を云々する気はないが、音楽に何を求めるかの違いだろう。
ぼくは、ぼくのそれまでの精神志向を相対化するような「愛の実存」を 彼女の音楽に見出し、「ぼくの求めるもの」に目覚めたのである。
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昨日、先月の地元哲学界で懇談した大学の先生から、学問上の問い合わせのお便りをいただいた。ぼくにもまだ、「古川正樹先生」で宛名を書いてくださる方が幾人かいらっしゃる。その日のうちに返事を書いたが、封筒の文字は直筆で書いた。ぼくがこの電子欄を書き始めた動機の一つは、ぼくにもまだ公に通用する文章が綴れるかチャレンジするためだった。だからいまでも、ぼくにもまだ文章創造ができること自体が、ぼくには主要な喜びなのである。そのために書いている。そしてひさしぶりに封筒の文字を直筆で書いて、その自分の筆跡の、この間なにごともなかったかのような落ち着いて堂々とした力の籠もったしっかりした「形」に 自分で感動している。ぼくの精神は、身体が神経破壊されても、そういうこととは関係なく独立に存続していることの証を そこに感じるのだ。筆跡は、身体状態とは関係ない、精神の現れである。ぼくの現状は、こういうことに感動するような状態のものである。
身体を破壊されて何もよいことはない。他者への普通の気遣いもできなくなる。