イザナギノミコトのレイラインを考える(5) | 西陣に住んでます

イザナギノミコトのレイラインを考える(5)

西陣に住んでます-日本のレイライン

(以下、地図をクリックすると拡大します。)



イザナギノミコトに関わるとされるレイラインを考えるこのシリーズ記事、

まず[第1回記事] では、

淡路島伊弉諾神宮を起点とする各方位のレイラインについて

実際の神社の位置がレイラインと乖離するものが

少なくないことを示しました(冒頭の図参照)。


出石神社(天日槍命:アメノヒボコ )
東北東諏訪大社(建御名方神:タケミナカタ)
伊勢神宮(天照大神:アマテラス)
東南東熊野那智大社(熊野権現)
諭鶴羽神社(伊弉諾神:イザナギ)
西南西高千穂神社(高千穂皇神:タカチホスメガミ)
西海神神社(豊玉姫命:トヨタマヒメ)
西北西
出雲大社(大国主命:オオクニヌシ)


[第2回記事] では、東北東に伸びるとされるレイラインを

[第3回記事] では、西に伸びるとされるレイラインを

[第4回記事] では、東南東西北西に伸びるとされるレイラインを

対象としてその意味を推察した次第です。


この第5回記事では、に伸びるとされるレイラインを対象として

その意味を推察していきたいと思います。

今回の記事はこれまでのレイライン関連記事と違って、

かな~り地味ですが(笑)、

まぁまぁいい線いってる推理ができたと思っています。



メモメモメモメモメモ


伊弉諾神宮のほぼ真北には、古墳時代の

垂仁天皇の時代に来日した新羅王子アメノヒボコを祀った

出石神社が位置していて、レイラインの存在が考えられています。

このラインがレイラインであるのか、考えてみたいと思います。


アメノヒボコの記述は、古事記・日本書紀・播磨風土記に認められます。

まず、古事記では、アメノヒボコは次のように紹介されています。


本古事記

新羅の国の沼の畔で昼寝をしていた女の下半身に太陽が射した。すると女は妊娠して赤い玉を生んだ。一人の男がその一部始終を見ていて、女からその玉を譲り受けて腰につけた。ある日この男が食料を牛に乗せて歩いていると、新羅国王の子のアメノヒボコ(天之日矛)が現れ、「お前は牛を殺して食べるつもりだろう」と言って男を牢屋に入れようとした。男は赤い玉をアメノヒボコに贈り許してもらった。やがて、玉は美しい少女に姿を変え、アメノヒボコはこの少女を正妻とした。その後、アメノヒボコは妻をののしるようになり、妻は祖先の国である難波に帰ってしまった。これは難波の比売碁曾神社に祀られているアカルヒメ(阿加流比売)である。アメノヒボコは妻を追いかけてきたが、海峡の神が行く手を遮ったため、但馬の国にとどまることになり、マヘツミという女性と結婚して子孫をもうけた。垂仁天皇に仕えたタジマモリはアメノヒボコの孫の孫である。


一方、日本書紀では、古事記のアメノヒボコとよく対応するエピソードが、

ツヌガアラシトとアメノヒボコという二人の人物のエピソードの中に

認められます。


本日本書紀

崇神天皇の時代、大加羅国王の子で額に角が生えたツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)が長門国と出雲国を経由して越の国の気比の浦に到着した。それでその地を角鹿(つぬが:敦賀)と言う。ツヌガアラシトは8種類の神宝を持参したが、崇神天皇は既に崩御していて垂仁天皇に仕えた。3年経ったとき垂仁天皇に帰国の希望があるか聞かれたツヌガアラシトは帰国したいと答えた。垂仁天皇は、ツヌガアラシトが崇神天皇に残念ながら会えなかったことを考慮し、崇神天皇の諡号ある御間城(ミマキ)天皇の御名をとって国名にするよう言って、赤織の絹を与えた。これが任那(ミマナ)の国名の由来である。帰国後、新羅が任那に攻め入り、その絹を奪った。これから両国の争いが始まった。


ツヌガアラシトがまだ来日する前、牛に農具を載せて田舎に行くと急にその牛が消えてしまった。そのとき別の場所で村役人がその牛を見つけた。村役人はこの牛は殺されて食べられる運命にあると考え、牛を殺して食べてしまった。その牛の代償としてツヌガアラシトは白い玉を授かった。白い玉はきれいな娘に変身したが、ツヌガアラシトが少し目を離した隙に消えてしまった。ツヌガアラシトは娘を追いかけて日本に渡った。娘は神となり難波と豊国の2ヶ所の比売語曾社に祀られている。


垂仁天皇の3年3月、新羅の王子のアメノヒボコ(天日槍)が来日した。アメノヒボコが持参した7点(一説では8点)の品を但馬国におさめて神宝とした。


天皇は、最初播磨国の宍粟邑にいたアメノヒボコに使者を送ったところ、アメノヒボコは自分は新羅の王子で、日本の聖王に会うために弟に国を授けて来日したと言った。天皇はアメノヒボコに播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑に気の向くままに住むように言った。アメノヒボコは、諸国を巡って住む場所を探したい旨の希望を出すと、天皇はそれを許した。そこでアメノヒボコは、宇治川を通って近江国の吾名邑に入ってしばらく住んだ。次に近江国鏡邑の谷の陶人を従え、若狭国を経て但馬国に至り住居を定めた。アメノヒボコは出石の太耳の娘の麻多鳥と結婚して子孫をもうけた。タジマモリはアメノヒボコの孫の孫にあたる。


以上の記紀のエピソードを真実をベースとした話と仮定した場合、

次の2つの推論のうちいずれかが真となります。


(1) 日本書紀では、アメノヒボコという実在する一人の人物を

  架空のツヌガアラシトとアメノヒボコという二人の人格に分けて表現した。
(2) 古事記では、ツヌガアラシトとアメノヒボコという実在する二人の人物を

  アメノヒボコという一人の人格に統合して表現した。


(1)と(2)のどちらが正しいかといえば、私は(2)が正しいと考えます。

理由は、ツヌガアラシトは加羅(任那)出身、アメノヒボコは新羅出身と、

両者は当時の紛争中の国出身であることから、同一人物であるとすると、

そのキャラクター設定に大きな不合理が生じるからです。

私は、日本書紀は基本的に正史であって、

古事記は基本的に道徳の教科書であると考えますが、

アメノヒボコの記述に関してもこの違いがよく表れているもの

と解釈します。


ここで、これら記紀の記述を参考にしてアメノヒボコの日本での動きを

追っていきたいと思います。


まず、ツヌガアラシト(古事記におけるアメノヒボコ)が追いかけたという

アカルヒメが祀られているという難波比売語曾社には、

アカルヒメではなくオオクニヌシの娘の下照姫が祀られています。

ここで、古事記の「女性が下半身を日に照らされて赤い玉が生まれた」

というエピソードは、「下照姫」というネーミングを連想させるものです。

古事記によれば、女性は「祖先の国」の難波に帰ったということなので、

アカルヒメが下照姫という日本人であっても矛盾しません。

また、「阿加流比売」という名前についても、

加羅(加)から海を渡ってきた(流)姫(比売)ちゃん

(「阿」は中国語で「~ちゃん」を意味する接頭語です)、

あるいは加羅(加流)の姫(比売)ちゃん(阿)くらいの意味で、

本名でない可能性もあると思います。

この点からもアカルヒメが下照姫であっても矛盾しないところです。

問題は、オオクニヌシが活躍した神話の時代よりはるかに新しい

垂仁天皇の時代に下照姫が実在するかということですが、

葛城地方にはこの時代の少し前に同じオオクニヌシの息子の

アヂスキタカヒコネコトシロヌシ、そして下照姫自身が活動した

形跡があり、必ずしも大きな違和感を持つものではありません。


ただ、私は「ツヌガアラシトがアカルヒメのことを恋しく思って来日した」

という話を必ずしも真であると思っていません。

それは、そう考えるよりもより合理的な別の理由があるからです。


私はツヌガアラシトが来日した本当の理由は、

アカルヒメに変身した「玉」探しにあったと考えています。

おそらく、アカルヒメに変身した玉は、東アジアでは日本にだけ産出する

ヒスイ(翡翠:Jade)でできた勾玉だったと私は推察します。


ヒスイは海洋地殻で形成される大規模岩体であるメランジュ(Melange)

超塩基性岩に伴われて産出することが知られています。

このため、大陸地殻で構成される中国朝鮮では産出しません。

そんな中、ヒスイの産地を握ることができれば古代の東アジアで

大きなビジネス権益を得ることができたものと考えられます。


さて、日本のヒスイの産地といえば、高志国(現在の北陸地方)の

糸魚川富山のヒスイ海岸が有名ですが、

このあたりには沼河比売(奴奈川姫)という神が住んでいました。

この沼河比売にセレナーデで求婚し、結婚を勝ち取ったのが

出雲のオオクニヌシです。

このことは、出雲が北陸を勢力下においたことを示しているものと考えられ、

翡翠の権益も出雲が握っていたものと考えられます。

こうやって考えてみると、玉から変身した日本出身の女性の正体が

ヒスイの権益を握ったオオクニヌシの娘の下照姫であることには

一定の合理性があると思います。


そして、ツヌガアラシトはこれらの産地を知っていたのか知らなかったのか、

オオクニヌシの出雲を経由して、関西圏から高志国にアクセスするのに

もっとも便利な敦賀にとどまって拠点としました。

ただし、結局は3年たってもヒスイ鉱床を探すことができなかったために、

国に帰りたい意思を垂仁天皇に伝えたのではと考える次第です。


いずれにしても、ツヌガアラシトは「日本の聖王(崇神天皇)に会うため」に

来日したのではなく、「女性に会うため」、あるいは「ヒスイを探すため」に

来日したというのが真相だと思います(笑)。


そんな中、垂仁天皇は、ウソつきの可能性が高いツヌガアラシト(笑)に

土産として絹を与えるとともに国名まで与えてしまいました。

本当かどうか怪しい話ですが(笑)、新羅がその絹を奪ったため、

任那と新羅は交戦状態になったと日本書紀は語っています。


このツヌガアラシトに引き続いて来日したのがアメノヒボコです。

私はアメノヒボコもツヌガアラシトと同様にヒスイを求めてやってきたのでは

と思います。それは以下に示すようなアメノヒボコの行動に表れています。


難波を目指したアメノヒボコは海峡の神に行く手を阻まれたと主張しました。

素直に考えれば海峡は明石海峡なので、

その神は明石海峡にある岩樟神社蛭子神であるように思います

(この海峡には神功皇后の時代に多くの神が祀られましたが、

この当時に海峡に関連する神は蛭子神だけであると思います)。

ただ、物理的に考えてみれば、神様に行く手を阻まれたというのは、

超自然的なエクスキューズであり、

このような言い訳をしたのには、何か別の理由があると考えられます。


イザナギノミコト


私は、このエクスキューズの理由として、

アメノヒボコは播磨国宍粟邑にとどまりたかったのではと考えます。

それは宍粟邑の北の但馬国に、日本有数の熱水鉱床である

明延鉱山・生野鉱山が存在することに気づいたためと考えます。


イザナギノミコト


この二つの鉱山はゼノサーマル型鉱床と呼ばれるものであり、

低温~高温の広い範囲で岩石が生成されるため、

ヴァラエティに富んだ鉱物を採取することができます。

この鉱床は、当時の日本では認識されていなかったと考えられますが、

少なからず鉱物資源に知識を持っていたアメノヒボコは

おそらく鉱床として認識していたのではと推察するところです。

近くの播磨から但馬を奪取するよううかがっていた可能性があります。


そんな中、アメノヒボコは、垂仁天皇から播磨か淡路に自由に住んでよいと

言われたにもかかわらず、その話を断って、住居探しの旅に出かけます。

おそらくこの旅は住居探しの旅でなく、ヒスイ探しの旅であったと推察します。


イザナギノミコト


まず、アメノヒボコは宇治川を経由して近江国(滋賀)に向かい、

鏡邑の谷の陶人という職人を得た後に吾名邑(長浜)の地にとどまります。

長浜といえば、現在でも採石が行われている伊吹山も程近い

日本有数の石灰岩(limestone)の産地です。

石灰岩はヒスイには及ばないものの、

研磨するとぼちぼち美しい様相を呈します。

ちなみに、石灰岩が接触変成作用を受けたものが大理石(marble)であり、

装飾用の石として広く使われているのは周知のとおりです。

この大理石と石灰岩の違いは熱変成を受けているかいないかの違いなので

基本的にその岩石構造自体はほぼ同じといえます。

私は、アメノヒボコはこの長浜の地で、

石灰岩を使って勾玉を作ろうとトライしたのではないかと思います。


ところが、石灰岩ではやっぱりヒスイの美しさには及ばないので

さらに移動したものと考えます。

長浜のすぐ近くには、ツヌガアラシトの拠点だった敦賀(気比神宮)があり、

ここを経由して若狭(靜志神社)に入り、

最後に但馬に辿り着いたのではと思います。


イザナギノミコト


アメノヒボコは但馬に行き着くと、そこにとどまることになりました。

なぜ、そこにとどまったかとなると、近くにある

ヒスイの産地(兵庫県大屋町加保)の存在に気がついたからと思います。


実は大屋町加保は、糸魚川やヒスイ海岸ほどではないものの、

日本に数少ないヒスイの産地なんです。

しかも南には明延鉱山と生野鉱山が存在しています。

ここに、ついにヒスイを含む石が出たということで、

アメニヒボコはこの地を「出石」と呼んだのだと私は思います。


ちなみに、アメノヒボコのエピソードは、記紀以外にも

播磨国風土記に出てきます。

播磨国において、アメノヒボコはなんとオオクニヌシと土地争いをしていて、

藤無山での戦いの結果、オオクニヌシは播磨国を、

アメノヒボコは但馬国を治めることになったとされています。

オオクニヌシがここにも出てくることにははっきり言って驚きです(笑)。



メモメモメモメモメモ


さて、ここで話を伊弉諾神宮のレイラインに戻します。


出石神社が伊弉諾神宮の真北に位置するのはレイラインか?偶然か?

という議論について、私は偶然だと思います(笑)。


アメノヒボコが但馬の出石に最終的に居を構えたのは、

上記のような理由のためと考えます。

つまり、アメノヒボコはけっして伊弉諾神宮の真北を意識して

出石に鎮座したわけではないと思います。


イザナギノミコト


もちろん、新羅の王子の出石神社の真南になるように

日本の皇祖神のメインストリームである

イザナギノミコトを祀る伊弉諾神宮を位置させたというのも

考えられないことです。

同様の理由で、伊弉諾神宮気比神社もレイラインではないと考えます。


出石神社の他に伊弉諾神宮のほぼ真北に位置する由緒正しき社は、

アマテラスを祀る水谷神社くらいであり、

これもレイラインと呼ぶには合理性が低いと考えます。


なお、垂仁天皇が、アメノヒボコに淡路に住んでもよいと許した

ことが縁なのか、淡路島の東南には、

出石から勧請されたと考えられる出石神社が位置します。

ただし、この神社はレイラインとは程遠い位置にあります。


メモメモメモメモメモ



ということで、非常に回りくどくなりましたが(笑)、

イザナギ神宮から北に伸びるレイラインは存在しないと私は考えます。


さて、残りはいよいよ伊弉諾神宮から西南西に延びるとされるレイラインを

残すのみです。近く検討してみたいと思います。