平安京の節分の謎に挑む-3
京都の節分の謎に挑むの最終回のこの記事では、
京都の節分と古事記との関わりについて
いつものようにイマジネーションを広げて(笑)考えてみたいと思います。
アマテラス & ツクヨミ & スサノオ
古事記のエピソードに「黄泉国(よみのくに)」と
「禊祓(みそぎはらえ)と三貴子(みはしらのうずのみこ)」があります。
この2つの話のポイントを要約すると、次のような話になります。
女神のイザナミは火の神を生むときに火傷をして亡くなってしまいます。
妻の死を悲しんだイザナギは、
黄泉の国という死後の世界にいるイザナミのもとを訪れますが、
そこで腐敗したイザナミの死体を見てしまい、逃げ出してしまいました。
ゾンビ化して追いかけてくるイザナミをなんとか振り切り
イザナギはなんとか黄泉の国を脱出しました。
ブチきれたイザナミは、以降、人を毎日1000人殺すことを宣言しました。
それに対してイザナギは、人を毎日1500人誕生させることを宣言しました。
次にイザナギは、黄泉の国で身についた穢れを洗い流そうと、
筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)で水の中に入ります。
まず左目を洗うとアマテラス(天照大神)が
次に右目を洗うとツクヨミ(月読命)が
最後に鼻を洗うとスサノオ(建速須佐之男命)が
次々生まれ、それぞれに高天原・夜・海原を治めることになりました。
以前、[茅の輪くぐり]
の記事で書きましたが、
イザナギが左目→右目→鼻の順番で洗ったことから
神道の清めやお祓いには左→右→左という順番が存在しています。
例として次のようなものがあります。
(1) 神社を参拝する前に左→右→左の順番に手を洗う。
(2) 清めの塩を左→右→左の順番にまく。
(3) 神職が大麻(おおぬさ)を左→右→左の順番に振る。
(4) 切麻(きりぬさ)を左→右→左の順番に体にかける。
(5) 左→右→左の順番で茅の輪をくぐる
イザナギが洗ったのは、あくまでも左目→右目→鼻の順番ですが、
これが左→右→左の順番の原型と言われています。
筑紫の日向の小戸の橘の檍原
イザナギの禊は筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)で
行われたとされていますが、この檍原は、宮崎シーガイアから山側に見える
阿波岐原という森林に対応すると考えられています。
というわけで、シーガイアでオーシャンビューの部屋がとれなくても
ヘコまないようにしましょう(笑)。
これは私の単なる主婦の勘でしかないのですが、
アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子は、
阿波岐原から見える霧島山の代表的な三つの峰である
高千穂峰・韓国岳・新燃岳に対応するのではないかと思っています。
まず3つの峰のうち向かって左側に見える高千穂峰が
左目から生まれたアマテラスに対応します。
アマテラスの孫のニニギが天孫降臨したのも
この高千穂峰という説があります。
(ちなみに私はこの説を信じてます。理由は[コチラ]
です。)
次に向かって右側に見える霧島山最高峰の韓国岳が
右目から生まれたツコヨミに対応します。
そして、真中に見える活火山の新燃岳が
鼻から生まれたスサノオに対応します。
噴煙が上がる山がヤンチャなスサノオに対応するのは
結構もっともらしい気がします(笑)。
なお、新燃岳の活動が記録されているのは江戸時代以降ですが、
それ以前に噴煙はまったく出ていなかったと考えるのは、
あまりに合理的でないと思います。
一応、これらの峰のうち韓国岳が
神武天皇の宮とされている宮崎神宮の真西に位置しています。
また、阿波岐原の代表的な神社である江田神社は
宮崎神宮から見て夏至の日の出の方位に位置しています。
このようないわゆるレイライン(太陽の道)については、
[伊勢に神宮がある謎に挑む-3]
でしっかり書きました。
京都の三貴子の神社
京都は1200年もの間、天皇の宮殿がある「都」でした。
なので、皇祖神の中でも最もキーとなる三貴子についても
当然のことながら神社にしっかりと祀られています。
ただ、それらの神社が京都で最も重要視されてきた神社かと言えば、
そういうわけでもないんです。
アマテラス
まず、アマテラスが祀られているのは、
日向大神宮(ひむかだいじんぐう)という神社です。
第23代顕宗天皇の時代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建した
とされていますが、清和天皇の時代に創建されたという説もあります。
南禅寺の南方の山中にあって天の岩戸と呼ばれる洞窟も存在します。
ツクヨミ
次に、ツクヨミが祀られているのは、
月読神社(つきよみじんじゃ)という神社です。
第23代顕宗天皇の時代に壱岐の月読神社の神を移して創建した
とされています。
もともと桂周辺に位置していたものが、
856年に松尾大社の南の地に遷座され、
松尾大社の宝物殿には、
松尾大社の祭神の大山咋神と市杵島姫命とともに
ツクヨミの木造神像があります。
これら三体の木像はいずれも平安時代作の重要文化財です。
三体がだいたい同じような感じで古くなっている(笑)ことから、
私は、これら三体は同じ状態で保存されていたのではと思います。
つまり、平安時代から三体セットで松尾大社に保管されていたのでは
と推察します。
ちなみに松尾大社の北側にある松尾山の頂上付近には磐座があり、
そちらが松尾大社の本来の姿でもあります。
スサノオ
最後にスサノオは、八坂神社をはじめとして今宮神社や大将軍神社など
京都の多くの神社で祀られています。
ただし、もっとも早くに祀られたのは、↓こちらの元祇園梛神社です。
876年に京都に疫病が流行したとき、播磨国広峰の神を移して創建した
とされています[→過去記事]
。
というわけで、この3つの神社を地図にプロットすると↓こんな感じになります。
興味深いことは、この3つの社が創建または現在地に移ったのは、
いずれも9世紀後半という可能性が高いということです。
三貴子の神社と節分との関係
節分祭というのは、基本的に鬼を祓うイベントです。
そしてそのお祓いを受ける主役はもちろん天皇ということになります。
ここで、京都最高のお祓いの神社である祇園社(八坂神社)がなく、
最大のお祓いのイベントである祇園祭も確立していなかった時代、
古事記で最大の禊祓のエピソードである「禊祓と三貴子」は、
天皇にとっては大きな心のよりどころだったのではということです。
ここで天皇が在住していた内裏の清涼殿と聖なる泉の神泉苑を
プロットしてみると答が見えてきます。
天皇は南を向くので、左側が東で右側が西ということになります。
・・・ということは、素直に考えれば、
左目がアマテラスの日向大神宮、
右目がツクヨミの月読神社、
鼻がスサノオの元祇園梛神社
という図式が描けるのではないでしょうか。
実際、「禊祓と三貴子」のエピソードが平安京によく再現されています。
もちろん神泉苑は、日向の阿波岐原に対応します。
ただ、これだけでは節分とのつながりがイマイチはっきりしません。
ここで、節分と言うものが、当時の日本では珍しく、
旧暦の○月○日のイベントと言うのではなく、
太陽暦のイベントであるという点に着目します。
そして、太陽暦と言えば、レイラインですね(笑)。
地図に、節分の日の出の方位と日の入りの方位、
恐ろしいほどしっくりといってるでしょ(笑)。
ここで結論として私の推論を書くと次の通りです。
平安時代、まだ祇園祭や祇園社が定着していない9世紀後半、
天皇は節分に大々的なお祓いをしていました。
そのお祓いのベースとして、古事記で最も有名な禊祓の故事である
三貴子のエピソードを使いました。
節分の日の
日の出の方位(左目の位置)には太陽の神のアマテラスを
日の入の方位(右目の位置)には月の神のツクヨミを
そして南中の方位(鼻の位置)には海の神のスサノオを
レイアウトさせ、身に降りかかる天変地異や疫病を葬り去ろうとしました。
でも残念ながら天変地異や疫病は解消されませんでした。
そこで朝廷は、御霊会や祇園祭を国家行事として定着させました。
そして残念ながら効果のなかった三貴子をベースとする節分祭は
すたれてしまいました・・・
ホントのところはどうかわかりませんが、ありえないこともなさそうでしょ(笑)。
3回にわたる平安京の節分の記事、
お付き合いいただきありがとうございました!
→[平安京の節分の謎に挑む-1]
→[平安京の節分の謎に挑む-2]