平安京の節分の謎に挑む-2
(今年の恵方は庚の方位で~す)
前回記事の[平安京の節分の謎に挑む-1] では、
節分に関する一般的な意味についてクドクド説明しました(笑)。
要約すると・・・
節分は1年で最も不安定な鬼門の日で、
平安京の朝廷は都への鬼の侵入を食い止めるために
陰陽道に基づいた大規模なお祓い(おはらい)の儀式をしていた。
また、節分の前後には旧正月があり、
その年の恵方(ラッキーな方位)にある神社に初詣をする習慣があった。
ということです。
節分のお祓いの儀式として代表的なものが、
平安京大内裏の朝堂院で行われた大儺之儀(だいなのぎ)と
平安京周辺の多くの神社&寺院で行われた節分祭(せつぶんさい)です。
このうち大儺之儀については、前回記事で触れましたので、
今回記事では節分祭(または節分会)に着目して行きたいと思います。
さて・・・
京都の人に「京都の節分祭で一番盛り上がる場所は?」
と聞けば、ほぼ100%に近い確率で
吉田神社または壬生寺のどちらかを挙げると思います。
それくらいこの2つの節分祭はめちゃくちゃ盛り上がるのですが、
「なんで?」といわれるとみんな困っちゃうと思います(笑)。
実際、どこにも答えは書いてありません。
そこで、今回記事では、イマジネーションの翼を思い切り広げて、
「なぜ、京都の節分祭といえば、吉田神社と壬生寺なの~?」
ってことについて考えてみたいと思いま~す。
節分祭は、平成の世にも、京都の多くの神社・寺院で行われています。
私が知る限り、平安時代以前に創建された神社だけを取りあげてみても
↓こんなに多くの神社で節分祭が行われています。
これらの神社のレイアウトを一見すると、かなりザッパクに見えますが、
実はそのそれぞれの一には大きな意味があったものと私は考えます。
そのキーワードは「恵方参り」です。
「節分」と言うコンセプトも「恵方」というコンセプトも陰陽道のコンセプトで、
「節分」の次の日から「恵方」が違う方位に移動します。
なので、節分祭と恵方参りは、現在と同様に平安時代から、
ある程度セットとして考えられていたと思います。
そして、神社の節分祭に出席してその近くに一泊し、
次の日に同じ神社で恵方参りをして帰るという
1泊2日の神社参拝ツアーが存在したものと私は思います。
実は、当時の皇族・貴族は、いつでも神社を訪れて
その日のうちに帰ってくるということが結構困難でした。
というのも、
平安時代の皇族・貴族は陰陽道にめちゃくちゃハマっていて(汗)
目的地の方位が悪い場合には、直接移動しないで、
違う方位にある場所に行って一泊してから目的地に向かったからです。
このことを方違え(かたたがえ)と言います。
かなりメンドくさいのですが、どうしようもないんです(笑)。
もちろん方位がよければ日帰りも可能ですが、
陰陽道を厳密に適用した場合、
非常に多くの日が、外を出歩くことができない日になっていたようです。
以上のことを考慮して、先に示した地図をもとに
当時の皇族・貴族がいったいどこに恵方参りをしたのか
具体的に考えてみたいと思います。
平安京大内裏朱雀門
まず、一般的に平安京大内裏の正門の朱雀門を基点とした場合、
次のような神社が恵方の神社となります。
※恵方は↑記事の冒頭の図を参照して下さい。
甲(067.5-082.5°):西暦の1の位が4または9の年
丙(157.5-172.5°):西暦の1の位が1または3または6または8の年
庚(247.5-262.5°):西暦の1の位が0または5の年(今年2010年の恵方)
壬(337.5-352.5°):西暦の1の位が2または7の年
地図を見ればわかりますが、
吉田神社がしっかりと恵方の範囲内に入っていますし、
壬生寺もちゃっかり恵方の範囲内に入っているのがわかります。
他にも、
気合が入った節分祭が行われる松尾大社、平野神社、北野天満宮や
厄除け神のスサノオを祀る元祇園梛神社、須賀神社、藤森神社など
どこもソウソウたる神社ばかりです。
平安京の皇族・貴族の多くはこちらの神社に通ったのではないでしょうか。
神泉苑
恵方と言うのは、歳徳神(としとくじん)がいる方位です[→過去記事] 。
その歳徳神を祀る日本で唯一の神社が神泉苑にあります。
というわけで、その神泉苑から恵方を見てみると次の通りになります。
吉田神社、須賀神社、藤森神社、松尾大社の各神社は
朱雀門のケースと変わらず、北の恵方に今宮神社が入ってきます。
実は2007年(恵方が壬:北北西の年)に
今宮神社を訪れた時[→過去記事] に見つけたのが↓この看板です。
この「正恵方」というのは、
もちろん「本物の恵方」という意味なのでしょうけど。
実は、今宮神社以外でこの言葉を使っている神社ってないんです。
つまり、「正恵方」を名乗るというのは、
確固たる意味があるからに違いありません。
そして、そのリーズナブルな意味を考えると、
「歳徳神を祀る神泉苑から見て恵方」という意味以外見当たりません。
ちなみに、今宮神社には、
スサノオの妻のクシイナダヒメが祀られていますが、
このクシイナダヒメは歳徳神と同一視されることがあるようです。
神泉苑からの恵方を
平安京のオフィシャルな恵方と考えたのは以上の理由からです。
高松殿
今の京都の中心部に高松神明神社と言う神社があります。
この神社でもしっかりと節分祭をやるそうです。
実は、平安時代、この神社があったところには、
里内裏(天皇の仮の御所)の高松殿がありました。
平安後期になると、天皇は里内裏で暮らすことも多くなりました。
高松殿は、院政を始めた白河天皇が里内裏としてちょっとだけ使った他、
源平時代には後白河天皇がこちらを本拠として保元の乱を戦いました。
この高松殿から恵方を見てみると次の通りになります。
大体、神泉苑と同じ感じですが、伏見稲荷が入ったり、
吉田神社が外れたりしています。須賀神社の位置も微妙です。
これが仮住まいの思うようにいかないところなんでしょう(笑)。
白河殿
院政を始めた白河天皇が院政の本拠と考えたのが白河殿です。
白河天皇と言えば、陰陽道を徹底的にとりいれた天皇として知られています。
その白川殿から恵方を見てみると次の通りになります。
ここで注目したいのは、八坂神社と地主神社が入っていることです。
八坂神社と地主神社には、今宮神社と同様、
歳徳神と同一視されるクシイナダヒメが祀られています。
さすがは陰陽道に詳しい白河天皇、いい場所を選びます(笑)。
さて、ここまで恵方を調べて来ましたが、
吉田神社は朱雀門や神泉苑から見て恵方の方位にあるので、
確かに都の恵方として十分な位置にあります。
ところが、壬生寺は確かに朱雀門から見て恵方ですが、
神泉苑から見ると恵方からハズれます。
白河殿や高松殿から見ても同じようにハズれます。
むしろ西の松尾大社や南の藤森神社の方が
どこから見ても典型的な恵方です。
ここで、壬生寺についてもう少し詳しく見てみたいと思います。
壬生寺の[Website] を見ると、↓こんなふうに書かれています。
平安時代、白河天皇にあつく信仰され、また、壬生寺が京都の裏鬼門にあたることから、天皇の発願によって、毎年2月に節分厄除大法会が始められた。以来、厄除・開運の寺として庶民の信仰を集めている。
この文章を読んで一番気になるのは、「壬生寺が京都の裏鬼門にあたる」
と書かれていることです。
吉田神社は京都の鬼門(東北)にありますが、
どう見ても壬生寺は京都(空色)の裏鬼門(南西)にはありません(笑)。
むしろ京都(平安京)のド真中です。
それなのになぜ白河天皇が「京都の裏鬼門」と言ったかですが、
このころの里内裏を示した↓この地図を見てください。
内裏の清涼殿から見れば、ぜんぜん裏鬼門にはありませんが、
白河天皇の院政の拠点である白河北殿や
里内裏として住んでいた高松殿から見れば、確かに裏鬼門です。
つまり、白河天皇は自ら住むところを京都の中心と考え、
内裏を京都の中心とは認めていなかったということではないでしょうか。
この時期になると、右京の衰退もかなり進んでいたと思われます。
後に白河天皇は白河上皇・法皇となって43年も院政を行いますが、
天皇のいる内裏よりは、天皇を超えた存在の自分の住居を
「京都」と呼んだのでしょう(笑)。
なお、私の思うところ、平安京で言う鬼門-裏鬼門は
東北-南西の方位ではなく、寅-申の方位です。
→[過去記事1] [過去記事2] [過去記事3] [過去記事4]
今回もそのことを裏付けてくれる結果が得られました。
大将軍神社
また、いつか別の機会にじっくりと書きたいと思いますが、
スサノオと同一視される牛頭天王の息子の神に大将軍がいます。
スサノオの妻のクシイナダヒメを歳徳神とすると、
その息子ということになります。
この大将軍は方位をつかさどる恐~い大鬼神ですが、
味方につけると強い味方になるといわれています。
その大将軍を祀った神社が京都にいくつかあります。
↓この地図でオレンジ色で示したいわゆる大将軍神社です。
この大将軍神社、実は1泊しなくても方違えできちゃう便利な神社(笑)
でもあるんです。
さらに自宅からこの神社まで行って、
そこから恵方にあたる神社を参拝すれば、それが恵方参りになります。
例えば、最も有名な大将軍神社の大将軍八神社を基点とすると
制約なしにいろんな神社に恵方参りできるようになります。
・・・というわけで、結論ですが、
京都の正式な恵方は、平安初期に確立されて、神泉苑を基点とする
北:今宮神社、東:吉田神社、西:松尾大社、南:藤森神社
の4社だった。
それが、平安中期になると朱雀門が基点となって、
北:北野天満宮、東:吉田神社、西:松尾大社、南:元祇園梛神社
あたりが注目されるようになってきた。
平安後期には白河エリアや里内裏を基点とする
鬼門の吉田神社と裏鬼門の壬生寺が重要な位置を占めると同時に
八坂神社や地主神社などのクシイナダヒメを祀る神社が
注目されるようになった。
その他、大将軍神社を利用した便利な恵方参りが行われるようになった。
ってところでしょうか(笑)。
まぁこんなふうに考えると、
現在も節分祭の伝統が残る京都の神社のほとんどを
関連付けることができます。
さて、次回は平安京の節分の謎に挑むの最終回です。
次回は、節分というものが、
旧暦のベースだった太陰暦に関連するイベントではなく、
太陽暦に関係するイベントであると同時に
禊ぎ(みそぎ)に関係するイベントであることに注目したいと思います。
京都の節分が、けっして陰陽道の世界だけではなく、
日本古来の皇祖神のエピソードに結び付くのではと考えるものです。
地図がそう語ってくれます(笑)。
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