小野篁と六道まいり
もうすぐお盆ですね。
お盆の歴史は古く、606年7月15日に推古天皇が供養のための法会(斎会)
を行ったことに始まるといわれています。
657年7月15日には、斎明天皇が飛鳥寺で盂蘭盆会(うらぼんえ)を開き、
奈良の聖武天皇の時代から宮中の恒例行事となったようです。
ただし、これらはあくまで宮中の行事として続けられたのであって、
意外にも民間に広がったのは江戸時代以降のようです。
ちなみに「盂蘭盆(うらぼん)」というのは、
もちろん裏盆という意味ではなく(笑)、お盆の正式名称です。
サンスクリット語の「ウランバナ」の当て字だそうです。
御存じのように、お盆というのは、
初秋の満月の日(旧暦7月15日、新暦8月15日)を中心とする数日間に
祖先の霊が子孫のもとを訪れるというものです。
仏教の概念では、普段この祖先の霊は
六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)にいます。
この六道の衆生を救うのが地蔵菩薩であるため、
お盆と地蔵菩薩とはとても深い関係にあります。
さて、京都では、この祖先の霊をお精霊(おしょらい)さんといい、
お精霊迎えとお精霊送りという行事が行われます。
このうち、お精霊迎えの代表的な行事が「六道まいり」というもので、
お精霊送りの代表的な行事が五山の送り火です。
今回の記事ではこのうち六道まいりについて紹介したいと思います。
ここで、六道まいりの寺といえば、六道珍皇寺と千本えんま堂で
いずれも小野篁(おののたかむら)が絡んでいます。
詳しくは下↓に示した過去記事を読んでいただければわかるのですが、
小野篁は、昼は朝廷の高級役人、夜は閻魔大王(地蔵菩薩)のアシスタント
というこの世とあの世を行きかう人物です(笑)。
小野篁関連記事→[小野篁1] [小野篁2] [小野篁3] [小野篁4]
そのことからか、小野篁の出没するあたりにあの世とこの世の境界があり、
お精霊さんもその近辺(例えば六道の辻)から帰ってくると考え、
六道まいりをしてお精霊迎えをするというのが定番となったようです。
六道珍皇寺
六道まいりの季節の今、京都でもっともホットな場所だと思います。
六道まいりの時期には、寺宝が公開されます。
ここでこれらの像をよ~く見てみると、
いずれの像も眼が水晶でできていることがわかります。
これは玉眼(ぎょくがん)という手法で主に鎌倉時代以降の像に見られます。
そしてこの玉眼の仏像を平安時代中期の人である小野篁が造ったとなると、
ちょっとばかり矛盾が生じます。
私は一時期、このことを考えて夜も眠れなかったのですが、
よく考えてみれば小野篁は時空を行ったり来たりできる人でした。
つまり、理論的には鎌倉時代以降にこの世にやってきて
この像を造ってもおかしくないわけで
「あぁそういうことだったのね!」と思いました(笑)。
こちら↓は十界の図(江戸時代)と呼ばれるもので、
地獄と極楽が両方描かれています。
さて、六道まいりの手順は次の通りです。
こちら↓は高野槇です。
こちら↓は迎鐘です。写真の下に見える縄を引っ張って鐘を鳴らします。
最終的にこちら↓に水塔婆を納めます。
こちらにも迎鐘があります。
また萬燈会(まんどうえ)という行事も行われます。
本堂の中には「大」の木形に燈明を並べたものがあります。
また本堂前の玉砂利には、菩提樹の葉と仏塔をかたどった燈明が
並べられていて火がともされます。
スリランカに伝わる仏教の習わしということです。
寺の概要は次の通りです(クリック拡大)。
本堂の中には素晴らしい閻魔像があります。
そして、本堂の横にはこのように↓閻魔の本来の姿である地蔵菩薩(中央)、
開基(寺の建立を援助した人)の小野篁、開山(初代住職)の定覚
の像が並んでいます。
この寺ではこちらに水塔婆を流します。
そして、迎鐘をたたきます。
ところで、この寺には紫式部の供養塔があるのですが、
ちょっと見ないうちに周りにあった木が手入れされて
そして、このような紫式部像も寄贈されたらしいです。
千本えんま堂では精霊迎えだけでなく、精霊送りも行われます。
矢田寺
こちらは三条寺町にある精霊送りの寺です。寺の概要は次の通りです。
このとき満慶(満米)上人を地獄に招いたのが小野篁なんですよ。
以上、
京都の精霊迎えに関する重要な寺(矢田寺は精霊送り)を紹介しました。
キーワードは地蔵菩薩(閻魔)と小野篁です。
これらの寺の精霊迎えは、
日本のお盆という行事にも少なからず影響を与えたものと考えられます。
ところで、今年のお盆は私にとっては義父の初盆なので、
今年のお盆は義父の墓がある横須賀で過ごします。
そんなこともあり、今年は京都では迎鐘をたたきませんでした。
京都でお迎えするとちょっとややこしい状況になりますからね(笑)。
横須賀でしっかりとお精霊さんをお迎えしようと思っています。